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仲間が必要という幻想

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上記記事の前半で申し上げたようにマスクの効能や人との関わり方について言及した。人の本能として狩猟採集時代の記憶がDNAに刻まれているのかもしれない。

助け合いの精神があったからこそ進化を促し、人類は生き残り、生態系の頂点にまで進化できたのだ。動物として利己的な行動をとると、獲物をひとり占めしようとしたりすると生き残れないから、こういう個体は排除され遺伝子を残せなかったのかもしれない。

今でも仲間の誰かがルール違反をしたら、人は人に対して攻撃的になる。うわさを聞いた人も事実を知らないが故にさらに強い憤りを感じ攻撃したい気持ちになるのだ。

このような「集団悪」についてはこちらでも紹介している。

集団悪は義憤から来る怒りをその裏切り者と断定した人にぶつけて反省を促し、心を入れ替えて掟に従うようになれば、また仲間として迎え入れようとする。これはイジメのメカニズムでどこでだって無限に生まれてくる。

このように一見美しい「互助の精神」は陰湿なイジメを正当化する原点となっているのだ。だからイジメている側は自己を正当化し、イジメられている側に問題があると断定するのだ。

これは現代特有の悩みではない。村八分の言葉にあるように昔からイジメは存在するのだ。いつの時代もマイノリティは割を食うのだ。しかし、このマイノリティが勢力を広げつつあるのが「漠然とした生きにくさ」だ。

例えば、職場での昼休みにトイレでランチをとったりするなど耳にするようになった。私ですらサラリーマン時代には同僚と外に食べにいったりして楽しみにすらしていたのですべてを理解できるわけではないが、話を合わせるのも面倒だろうし、そんな昼休みをしていたらフレッシュもできないだろう。

社会生活の集団の中で一人で昼食をとるという行為は物悲しく映るのかもしれないが、メリット多いと思う。職場でのマウント争いに巻き込まれなくて済むし、社内の噂もシャットアウトできるので心穏やかにいられる。

しかし、先に挙げたように集団悪に属さなければ、いつあなたに矛先が向くかわからない。では私たちはどうすればいいのだろうか?

日本の企業経営ではこれまで協力集団を演出してきた。今ではブラック企業に認定されてしまうような感じになったが、職場の仲間は家族のように考えてきた。

定期的に行う社員旅行や社内行事などでコミュニケーションをはかり、共通の価値観や問題意識をもつように悪く言えば洗脳してきたのだ。

グルーバル化が進み、良くも悪くも現代の企業の現場では、昔ながらの仲間意識は失われており、その実態は、協力集団というよりは契約集団になっている。

割り当てられた仕事をこなせば、それに対して報酬が与えられるので、率先して仕事をこなしても、契約に謳われていなければ報酬もないという現実で法律がそれを後押ししているのだ。

こうした「昔ながらの仲間意識」が契約になければ、仲間をつくらなくとも問題はないのだ。

つまり、「職場に仲間がいない」という心細い気持ちは、「職場に仲間がいてしかるべきだ」という前提から生じており、本質がみえてくると幻想でしかないことに気が付くと思う。そう、もう職場に仲間など必要ないのだ。

しかし同時に職場以外に仲間がいないというのは別の問題である。夫婦は契約のひとつであるが私は契約などと考えてはいない。この身をかけて守りたいもの(実際には助けてもらってばっかりで情けない限り…)だし、妻は親友でもある。

恋愛感情は続かないというが私は色あせることがないし、形を変えることなくプラスアルファで背中を預けたい存在になったのだ。これは幸運なことではあるが、人はどこかに逃げ場や心のよりどころは必要だと思うのである。

近頃は移住する機会も増えて地域の人間関係も薄っぺらになっている。仲間同士の付き合いが希薄になり不安が増長することから何かと仮想敵を作って結束を固めようとしている。

例えば、どこぞの旦那が昇進したとか子供が表彰されたなどと耳にすると、それだけでひがんで嫌がらせが始まったりするのだ。親のそんな姿をみている子供たちがイジメを辞めるわけがない。

このような集団悪に対して個人で立ち向かっても多勢に無勢で、正論を訴えたところでより傷が深くなる様子をたくさんみてきたし、今回は私自身が身をもって経験することとなった。

しかし、残念なことではあるけれど、これが私たちの暮らす人間社会の本質なのだ。

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