見出し画像

母の日

珍しく母から着信。母の日に贈った羊羹が届いたとのこと。もともと大の甘党で、甘納豆や羊羹、外郎などの和菓子が好物だったが、父の闘病が始まった40年程前にそのほとんどを断った。糖尿病からの様々な合併症が進み、父が亡くなった以降も口にすることはなかったが、去年私が送った虎屋の羊羹が「友達と手芸しながらみんなでいただいた。美味しかったよ」と言ってくれたので今年は少し量を増やして贈った。ガマンの繰り返しだった母の人生。せめてこれからは好きなものを食べ、仲の良いお友達をおしゃべりをして、行きたい処にでかけるストレスのない生活を少しでも長く送ってほしいと思う。

画像1

母との思い出の中で、最も鮮明なシーンの一つは小学校5年生の出来事である。場所は学校の職員室。目に涙をためて、大柄の教師の紅潮し顔を見上げるように見据えて話す、母の凛とした声が耳の奥にいまでもはっきりと蘇る。

4年生を終えた春に転校した私は、たまたま前の学校の担任教師が「半年先を行く」という指導方針の若く熱心な先生だったため、新しい学校のクラスの授業はすでに履修済のことが多く、テストも「二度目の問題」ばかりだったので私はどの課目も満点近い出来だった。級友からは「やるな、この転校生」といった目で見られたらしい。

このような鮮烈なデビュー?を飾った私が事件に巻き込まれたのは、新学年が始まって一か月が経った校庭のツツジが満開の5月の頃である。社会科のテストを受けようとして席について、筆箱(当時流行った磁石で鍵がかかるタイプ)をあけた時、わたしは思わず「あ」と声を上げた。周囲の級友も一斉に私の手元を覗き込んだ。

中には小さく折りたたんだ紙が何枚も入っていて、その中にはテストの範囲内の回答例がびっしり書き込まれていた。

その後の記憶は、少々曖昧だが、級友たちの揃ったような冷たい目とざわめき、先生に腕をつかまれて立ち上がり、廊下を引き摺られるように職員室につれていかれたこと、手を振り解こうとして、頭を叩かれたこと、それぞれのシーンを一コマずつ思い出すことができる。

終礼と同時に学校を飛び出し、人目も憚らず泣きながら、躓きながら走って家に帰った。あまりの頭痛に耐えられず、土間口にしゃがみこみ、しゃくり上げながら母に事の次第を話した。母は黙って私の話を聞き、無言で立ち上がり鏡台の前っ軽く髪を整えた。小さく「よし」と呟くと私の方に向き直り、「学校に行くよ」ときっぱりした口調で言った。私は嫌だと抵抗したが今度は母に腕をつかまれ、車に乗せられて、気が付くとまた職員室にいた。

長い一日だった。

結局は、周囲の生徒の子供っぽい悪意に満ちたいたずらで、やった張本人も後日泣きながら謝って、それはそれで一件落着だったのだが、母に詰め寄られ圧倒された担任は、その後もずっと私には目をあわせることはなかった。私は私で「大人がすべて正しいわけでもなく、先生が全員立派な人ではない」という真理を知らされたショックもあり、その男の教師とはその後距離を置いた。学年がかわり、担任替えとなるまでずっと。

「修嗣がやっとらんと言いよる。だからやっとらんです。ようと、話を聞いて、調べてみてください。」蒼白の表情ながら、ハッキリと強い口調で訴える母と、戸惑う担任や他の教員たちの表情。どれもはじめて見る大人達の光景だった。職員室を出て、車に乗ったとたん母は泣き崩れた。外に聞こえるのではないかと心配になるくらい、大声で泣き、ハンドルを叩いた。私はただただ下をむいて俯いていた。

いつか誰かにこのエピソードを語ってみたい、と思いながらまだ話せていない。あの時の母のように、子供を信じて半狂乱になり、詰め寄ることができるか。そんな風に子供を守り、戦えるか。自問してみても即答する自信がないうちは語れるはずもない。多分もっとずっと先になりそうだ。

「母さん、あの時はありがとうございました。とても嬉しかったです。今思い出しても目蓋があつくなります。」「僕は母さんみたいに、子供を信じきれる強い親にはなれませんでした。」「何一つ母さんの期待どおりの人間にはなれなかったなぁ。ごめんね。」風の通るベランダから西の空を見上げて、独りつぶやく。これが日課になりつつある。


【2020年(令和2年)5月4日】
家の近くに水沢の森と呼ばれる公園・緑地があります。川崎市宮前区と横浜市青葉区の境に広がる広い公園で、東地区は「菅生緑地」と呼ばれる広い公園で、西地区は里山を再生し、竹林やドングリの樹が植えられ、湧水が小川となって流れる緑地となっています。

画像2

神奈川県川崎市では、市内7つの区に一ケ所づつ、市民と行政が共同して整備する「市民健康の森」があり、宮前区にあるこの水沢の森もその一つで、平成13年「水沢森人の会」が設立され、多くの区民ボランティアがこの公園や緑地を整備しています。

きれいな桜が咲く公園は私とチェリーの春の散歩コースでした。里山は犬が入れないので、あまり歩いたことがなかったのですが、これからはゆっくり散策してみます。もともと丘陵地で竹林が多かったこのあたりは、まだまだ緑が多く、ユウが小学生だったころは梨果樹園でカブト虫をとったりしてました。

川崎というと、私のような昭和の田舎者は京浜工業地帯や公害などを連想してしまいます。でも実際は、出生率や人口増加率が大都市の中では最も高く、若い世帯がどんどん流入している人気の住宅地なのです。総人口も150万人を超え、福岡や神戸とほぼ肩を並べています。東京都横浜に挟まれてちょっと印象が薄いのですが、若い世帯が住みやすい環境が意外に整っています。

画像3

私の住む横浜の青葉区もどんどん人口が増えています。川崎が武蔵小杉を中心に高層マンションが林立するのに対して、ここは東急電鉄の街開発計画にそって、戸建て住宅の分譲がまだまだ進んでいます。私が住み始めたころには空地だったり、緑地だった処にずいぶん家が立ち並びました。下関では考えられないでしょうが、公立小学校もまだ増えています。

下関に限らず、地方の街では子供の姿を見るのが稀です。職業柄、全国の病院やクリニックを訪れますが、行く先々で少子高齢化の現実を目の当たりにします。もみじマークの軽自動車の事故現場にも、残念ですが、かなりの頻度で遭遇します。免許を返上しろ、運転するな、というのは簡単ですが移動手段としてどうしても必要な方々もいます。そこの解決策がないままに、高齢であるという理由だけで運転を制限するのは、ある意味インフラを断つのと同じくらいの死活問題です。

都会にいると、地方のつらさや限界はあまりわからないと思います。

さて、話を戻します。里山は読んで字のごとく里と山が共存する処で、雑木林や湿地を人間が手入れすることで、人間以外にも様々な生き物が循環的に共生できるようになった場所です。人間が自然の恵みを得るためには他の生物を守らなくてはならない、というシンプルな真実を里山は思い出させてくれます。私が子供の頃にはまだたくさんありました。蛙の声が賑やかだった水田や、ある日突然土が盛り上がって筍が顔を出す竹林、早朝に子供たちが目いっぱい蹴飛ばすとクワガタムシが落ちてくる雑木林のクヌギの樹、あぜ道を堂々と横切る狸などなど、里山の風景を細切れに思い出します。

画像4

雑木林や野原は人が手入れして、はじめて里につながる野山になるんですね。荒れ放題の自然と、手入れされた自然、すくなくとも人間が他の生き物を守ることができるのは後者のほうでしょう。難しいですね。

【2020年(令和2年)5月9日】
 緊急事態宣言が5月末まで延長となり、STAY HOMEが全世界的な合言葉になっています。不要不急の外出は控えるものの、買い物や通院などの用事を済ませるにはどうしても外に出なくてはなりません。困ったものです。

 この新型コロナ騒ぎで、生活が行き詰まる人は大勢います。私の仕事も、今の段階では大きな影響はないのですが、3月以降まともな営業ができていないので先行きの仕事が減ることは覚悟しています。テレビで都内の個人タクシーの運転手さんのインタビュー映像を流していました。お客が激減する中で、家賃や燃料代などの経費の負担が重くなり、事業を続けていく自信がなくなったと話す運転手さんに、父さんの顔が重なって見えました。自分の努力だけではどうしようもない理由で生活が壊れそうになるときこそ、政府や行政が少しでも早く救いの手を差し伸べるべきです。

 在宅の時間が長くなると、SNSなどで面白い企画が、これまた日本のみならず全世界で広がっています。その中のひとつで「自分の幼いころの写真」や「これまで読んで感動した本の画像」を順番にSNSに掲載してゆこう、というリレー企画があります。私も友人からバトンをもらったのでこれから掲載しましょう。お気に入りの写真、どれも白黒ですが、幸いスマホに入っています。本に関しては、どれか一つというのは難しい選択ですが、小学校4年生の時に読んで、それ以降成人後も何度となく読んだ「飛ぶ教室」をピックアップしてみます。

画像5

 母さんが「修嗣は本を読むのが好きだから」と、買いそろえてくれた「世界児童文学集」。首っ引きで読みました。まだ行ったことのない外国や、そこでの生活に想像力を膨らませて食い入るように読んだものです。けっして裕福ではなかったはずですが、その後も「世界偉人伝」や「日本の歴史」などいろんな本を買ってもらいました。

画像6

 中学校の友達からも久しぶりに便りが届きました。在宅で皆暇をもてあまし、昔のアルバムなどを整理しているみたいです。不思議なもので、あの頃の想い出にはかなり濃淡があります。思い出せない級友がたくさんいる一方で、一挙手一投足が鮮明に頭に浮かぶシーンもあります。

 小学校5年生の学期はじめに転校し、まだ友達も少なかったころに、私がカンニングした、と教師に注意されたことがありました。もちろん母さんも覚えてますよね。ひどく傷つきました。泣きながら帰宅した私の話を聞いた母さんが車を飛ばして、学校に行き、職員室で担任教師に「修嗣はやっとらんと言ってます。じゃから、やっとらんです。」と担任の先生に詰め寄ったんですよ。覚えていますか?

 子供というのは残酷なもので、今思えば単に転校生をちょっとからかっただけという他愛もの無い出来事だったのですが、私はとにかくショックでした。でも母さんが「修嗣はやっとらん」と言ってくれたことで救われました。嬉しかったです。母さんの顔、担任のひきつった表情、周りの教員の野次馬みたいな表情、ぜんぶ覚えています。

 その後は、自分なりに勉強しました。どんなテストでも満点をとれるように、本気で勉強しましたよ。その反動で中学校に進んでからはまったく勉強しなくなりましたが・・

 母の日を前に、こんな出来事を思い出しました。

 羊羹、無事に届いてよかった。中は小分けにされてるので、お友達や近所のあばちゃんにも分けてあげてください。

 コロナ騒ぎ終わったら、すぐに行きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?