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やめられないし、とめられない

 ロングヘア、大きな瞳、白い歯、ほっそりした手首。志穂の容姿は今もきらびやかな虚構の世界の偶像を彷彿とさせていた。何もかも順風満帆だった。都内で生まれ育ち、十代でデビュー。瞬く間に志穂の名前は全国に知れわたり、三十歳になる前に結婚。年上の夫は、元総理大臣の孫で、外資の証券会社に勤務している。子宝にも恵まれて、長男は今年小学生になったばかり。夫はいまだに志穂のことを深く愛していて、ときおり見せる嫉妬や束縛がむしろ心地いいと彼女は思っているようだ。
「今夜ね」と志穂は微笑んだ。「お寿司のおいしい店を予約してあるの。そこの板前さん、ミシュランで星を獲得したのよ」
「へぇ」
「お寿司は嫌い?」
「別に」
「どうして、そんなに浮かない顔をしているの?」
「別に」と若い男はもう一度言った。
「ねぇ、教えてよ」と志穂は言った。「私、あなたのためだったら何でもするわ」
「本当に?」
「ええ」
「たとえば?」
「そうね……」と言って志穂は考えこんだ。それから急に目を輝かせた。「わかったわ。あなたが今抱えている問題を解決してあげる。それでどう?」
「解決って? 例えば借金が一千万あるから、肩代わりしてくれって言ったらしてくれんの?」志穂は吹き出した。「一千万?  いいわよ」
「じゃあ、一億なら?」
「うーん。それぐらいなら」
「じゃあ、十億だったら?」と若い男は言った。
志穂はまた笑った。「あなたって意地悪ね」
「どうして?」
「そんなことできるわけないじゃない。いくら何でも十億は無理よ」
 若い男は急に真面目な顔つきになった。志穂はそのことに気づいて驚いた。先ほどまでの、どこかふざけているような表情が消えている。
「実はね……」と彼は言った。「オレ、命を狙われているんだ」志穂は驚いて彼の顔を見た。しかし冗談を言っていないことはすぐにわかった。彼はとても真剣な表情をしていたからだ。
「どういうこと?」と志穂は訊いた。
「あんたの旦那さんかもな」
「そんな訳ないでしょ。バレてないわ」
「でも、わからない」と彼は言った。「あんただって、あんたの旦那がなにしてるか知らねぇだろ?」
「どういう意味?」
 若い男は急に立ち上がった。それから志穂を睨みつけた。しかし、すぐにその目から力が抜けていった。彼はまたゆっくりと椅子に腰を下ろした。「もう、やめよう」
「どうして?」
「あんたには関係ないよ。じゃあねオバサン。一人で寿司でも食ってろよ」  若い男は再び立ち上がって、歩きだした。
「待って」志穂は叫んだ。「ちょっと待ってよ」男は立ち止まった。しかし振り返らなかった。
「とりあえず一千万なら、すぐに渡すわ」と彼女は訊いた。「ねぇ」
 若い男は振り返った。そして志穂を睨んだ。その目は怒りに燃えているように感じられた。彼は何も言わずにまた前を向いた。そのまま歩いて行く。志穂はその後ろ姿をずっと目で追った。
 その様子を彼女の夫はモニター越しに見ていた。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!