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はるかな

 何と申しましょうかね。外の空気を吸おうと思い、川原の道を歩いていたのですよ。そう。その方がようございましょうよ。靴と地面の摩擦する音を鳴らして、体中の血液がよく循環して、せせらぎをさびしく聞きながら、胸先にこみ上げて来る気持ちに向き合おうと思ったのですよ。
 事もなげに振る舞う事に疲れたのかもしれませんわね。他の人から慰め顔であしらわれるのが辛いから、いつでも私のすべき返事は「大丈夫ですよ」とか「ご心配なく」なんて事ばかりです。
 そうそう。川原の道をね、二人乗りの自転車がゆっくりと私を追い越して行ったのです。その時に、頭の中にこそいで映る事といったら、そうなんですよ。昔の事です。私が貴方にどんな印象を与えたかを顧みたのよ。でも、やっぱりね、私は自惚れませんでしたわ。何となく、貴方の想いというか、そういう事に気がついて訳なんですがね、私の方が貴方の事を好きだったのよ。
 ああ。二人乗りの自転車ってね、学生さんですよ。男の子が漕いで、女の子が横向きに座ってね。今じゃそういうの、お巡りさんも厳しくなってるのかしらね。でもね、私はそういうの見ても咎めようとか思わないわね。
 え? 昔も駄目だったのかしらね。でも、貴方の後ろに私も座った事ありますよ。私の記憶に親切な男として、勇悍な男として、美貌な男として残ってますよ。
 え? 大袈裟だって? そうかもしれませんけど、同情を引っ込めさせる事のできるのは、強がりを言うことじゃないですか? そうやって、私の中のあなたを神格化しないとやっていけないのですよ。絶望の断定を心得ているからですね、何でもそうだと言い切れるのでしょう。
 その学生さんの自転車が通り過ぎた時に、なんかね、春だなって私、思ったのです。どんな事があっても季節は変わります。収縮するような痛みが、すっと和らぐような感じなの。わかります? 申し所のない健康の喜びを実感するような事。なんかね、幸せなんだってね。過去形じゃなく、今、私は幸せなんだって。
 それが、今日思った事なの。すごく些細でしょ? でもね、こんな些細な事を私達、ずっと話してこなかったでしょ? こんな事を話せるのって、私にとっては貴方だけだったのに、生活のせいにして感傷的という態度で暮らしてきたのよ。貴方もそう。無口ってタイプじゃなかったのに、次第に言葉が少なくなってきたわね。
 私は貴方の事が好きだったの。貴方の事は良く分かってたつもりよ。それに貴方もそうだったんじゃないの?  
 ふふ。可笑しいわよね。私、白木の御位牌なんかに話しているわ。貴方が生きている時よりも、私、貴方に話をしているんだわ。
 でも、いいじゃない。こうしていると、なんだか幸せなんですよ。わたし。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!