80億人
大切なものを取り落としたような戸惑いを、私は感じている。それは、広い空間に一人でいるような、居心地の悪さに似ているのかもしれない。習慣となっている観念が、私を窓際に退けさせ、何かをしなければならない必要を、私は全くわからないでいた。
閉じている窓枠によりかかって、私は室内の様子をとりあえず眺める事にした。部屋の静寂を破っているのは、何らかの機械の単調なビープ音だけ。そして、その音を一層物悲しくしているのは、飾りけのない白色の壁紙だ。また、湿った空気が鼻をつき、病院独特の消毒薬だと思われる匂いが漂っていた。
ベッドの上には、男が仰向けに寝っ転がっており、静まり返った部屋の中では、その存在感が一層際立っている。それは、私がよく知る顔で、まるで眠っているかのように静かで穏やかだった。それに、それが既に息を引き取っている事を、私は自覚している。
ドアの軋む音がして、看護師が入ってきた。淡い病室の光が、彼女の白衣を鈍く反射させている。彼女は無表情で、慣れた手つきでビープ音と私の容体の因果関係を調べ始めた。その動作は機械的であり、狼狽えるような素振りは一切ない。そして、彼女は私の名前を呼ぶ。当然だが、私の体は声に反応せず、そこに在るだけの物体になっていた。どのような手続きが、これからされるのか、私にはわからないが、死が書面上の事だと思わない。それは、何というか、もっと情緒的な事ではないだろうか。私の死は日常的過ぎて、看護師からは「またか」というため息が聞こえてきそうだ。
「あぁ。多分、死んでるね」
看護師が呼んできた医師は、部屋に入ってくるなり私の死を告げた。医師も深いため息をつき、手元の時計を見てから脈拍を確認するために、私の手首に指をあてる。そして彼は、無表情な瞳で聴診器を胸にあて、心音を確認した。
「死んでるね」と医師は言いながら、私の目をそっと開き、瞳孔の反応を確認する。そして、手元の書類に時間と死因を記入した。「よくある事だよ」と医師は言いながら、書類を看護師に渡す。看護師は慣れた手つきでそれを受け取り、「そうですね」と答えた。
「問題はないね。後はご家族に連絡しておいてくれ」そう言って、医師は退出する。部屋に残るのは私と看護師だけで、彼女は一応「ご愁傷様です」と言って私の体に一礼し、書類を手に持ちながら退室すると、部屋には誰もいなくなり静寂が戻る。
「さて」と私は独り言ちて、誰もいないのに、大袈裟に戸惑ってみせた。幸いとでも呼ぶべきか、苦しみは一瞬で、いつの間にか、私は私の体から離れて、自分の体を見る事になった。変な話だが、録音した自分の声が、他人のそれに感じるのと似ていて「こんな顔だったんだ」と思い込む。
「あの」
声が聞こえて、看護師が出ていったばかりのドアに顔を向けた。家族が来たのだと、私は刹那的に思ったのだが、逡巡して早すぎると思った。
「もしかして死んでます?」ドアから顔をのぞかせたのは、私の知らない男だった。彼は若く、大学生くらいだろうか。髪は短く整えられていて清潔感が感じられたが、その目元には疲れがにじみ出ているようにも見えた。そして彼は、ベッドの脇まで来て「あぁ」と声を漏らした。それは感嘆とも取れるような声色で、彼は私の体に優しく手を置き「本当に死んでいるね」と口元だけを歪めて笑って言った。
「あの、失礼ですが……」と私は言う。自然と敬語になってしまうのは、異質な現状の雰囲気に当てられたからかもしれない。
「どちらさまですか?」
男は私の問いかけに目を丸くする。そして少し間を置いてから、「あぁ」と言って頷き「そうか。そうだよね」と、ふと思ったように同情のような声色を出した。
「僕は、あなたの担当をしています」と彼は言ってから、口元に歪んだ笑みをまた作る。「名前は、そうですね……、まぁ、どうでもいい事です。好きに呼んでくれてかまいません」
「あの」と私は言う。「担当って何ですか?」
男は私の質問を無視して、ベッド脇にある丸椅子に腰を掛けた。そして、死んでいる私の顔を見て「本当に死んでますね」とまた同じ事を繰り返した。
「えぇ、まぁ。そうですね」私は滑稽だと思いながら、そう答えるが、彼は私の声には反応せず「不思議だねぇ」と言うだけだった。
「死神とかですか?」私は、男が纏っている不思議な雰囲気を見て「それなら何か納得がいくな」と思い、言葉に出してしまった。しかし彼はすぐに首を振り「いやいや。違う違う」と苦笑いを浮かべた。
「じゃあ何なんですか?」私の疑問には答えず、男は私が寝ているベッドのシーツに手を滑らし、その感触を確かめているように見えた。
「僕はね、あなたが産まれた時からずっとあなたを見てきましたよ」と男は言う。
「ずっと?」私は思わず聞き返すが、彼はそれには答えなかった。そしてまた、私の死んだ方の顔をのぞき込み「本当に不思議だ」と言う。
「何がですか?」と私は聞き返し、その質問にはすぐに答えが返ってきた。
「あなたはね、もっと生きるべきだった」と彼は言った。私は彼の言っている事をすぐには理解できなかった。
「生きるべきだった?」私は疑問を口に出し、考えるよりも先に口が動いた。そして、その言葉の意味を知ろうと、男を見ると、彼は頷き、今の私の顔をのぞき込む。その瞳は黒く深く、まるで宇宙のよう。
「そう」と彼は言い「あなたはね、ここで終わるべきではないのです」と続けるのだ。
「全く意味がわからない」
「あなた、自分が死んだのに落ち着いていますよね」
確かに私は落ち着いている。こういう時は狼狽えるべきなのだろうか。そんな事に逡巡しているうちに彼は、今時の若者のようにスマートフォンを取り出して、何処かに電話をかけた。
「あぁ、もしもし」
「僕が担当している廣瀬さんだけどね」
「そうそう。廣瀬庄一さん」
「うん。そう」
「いやね、死んだんだよ。ヤバいなって少し前に思っていたんだけどね」
「いやいやいや。担当が多いって。マジで。サボってたんじゃないよ。手一杯でね、それで、廣瀬さんとこ来たら死んでんの」
「うん。そう」
「いや、死んでるって。話聞いてる? だから、ホント、今さっき死んだの」「そうそう。廣瀬さん」
「うん。そう、そう。それでさ、僕って担当じゃん?」
「だから、廣瀬さんの」
「そうだって。でさ、廣瀬さんってね」
「いや、違うって。廣瀬さんは廣瀬さんだよ。同じ名前の人なんていないでしょ」
電話の向こうからの返事に合わせて、彼の体が微かに揺れている。脇にいる私は、ただ黙ってその場に立ち尽くし、彼が電話を終えるのを待つしかない。時折、彼の肩越しに見える時計の針が、異様に遅い速度で進んでいくのが目に入る。秒針がひとつ進むたびに、時間そのものが歪んでいくように感じた。部屋全体がじっとりとした空気に包まれ、居心地の悪さが増していく。
彼が短く「わかったよ」と答えた。その声は、まるで空間を裂く刃のように響き、彼は私をちらりと見た。「だから、戻すよ」彼はそう言ってから「あぁ、そう。もう、いい?」と言って電話を一方的に切った。そしてスマートフォンをポケットにしまう。そしてまた私の顔を見て「とまぁ、こういう事です」と言うのだ。
「いや、どういう事ですか?」と私は聞いてしまうが、彼はそれには答えなかった。ただ私に背中を向けて窓の外を見ているだけだ。その視線の先には曇った空が見えるだけで、他には何もない。
彼は唐突に「でさ」と話を切り替えて言った。
「何ですか?」
「僕ね、今さっき思ったんですけどね」
「はい」
「あなたはもっと生きるべきです」
「……それは、さっきも言ってましたよね」私は彼の横顔に言った。
「あなた以外に僕は十一人の担当をしているのです。わかります? 人間は増えすぎたんですよ」
「はぁ」と私は言う。彼は私の反応を無視して続ける。
「だから僕はね、廣瀬さんみたいな人を見ると、いつも思うのです。『あぁ、生まれてこなきゃよかったのに』って」
「意味がわからない」と私が言うと、彼はまたあの奇妙な笑い方をした。
「わからなくてもいいです。ただ、あなたはまだ死ぬべきではないという事です。ま、驚かないでくださいね」彼はそう言いながら、私の動かない冷たい手を握った。
「あなたはね」と男は言う。「今から生き返るんですよ」と続けるのだ。
「は?」と私は思わず聞き返してしまうと、彼はまたあの奇妙な笑い方をした。
「いや、だからね。もう、自分で死なないでくださいよ」と言う彼の声は、楽しげで、まるで歌うようだった。
一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!