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嘘と運転手

 俺は、自分の感情を戒めるような表情をしていたと思う。それは、後ろにいるお客さんが原因だった。お客さんに対して、そう思ってはいけないと思いながらも、そう思ってしまう自分を制御しているという事だ。
「正直な事なんてほとんどありませんよ」
 バックミラーに映るお客さんを俺は見た。彼と目が合った。俺は居心地が悪くなった。
「ねぇ。運転手さんは、ずっと、運転手をしているのですか?」
「ええ。まぁ」
「何で運転手しているのですか?」
「そういう事になったからですよ」
 俺の事を聞いて欲しくない。俺の事は聞かないで欲しい。俺はそう思った。
「そういう事?運転手さんも生きていたんですか?」
「すみません。そういった事には答えたくないのです」
「なんで?」
「言いたくない事なのです」
「酷い事をしたとかですか?」 
 
 俺は困った。ただただ困った。後ろを振り返ろうかと思ったが、すぐに思いとどまった。行動には段階があって、呼吸をするだけで終わる事もある。俺は、聞こえるぐらいの深い息を吐いた。受け取る側からすれば、挑発と認識されるかもしれないと、すぐに後悔した。

「言いたくないとはねぇ。胸を張れるような事はしていなかったという事ですよね?」
「そうかも知れませんね」
「そうかもというのは、そうだったという事ですよねぇ」

 ねっとりした、実に嫌な言い方だったが、俺がしてはいけないのは、何かを言い返す事だ。俺は単なる運転手だ。それ以上でもそれ以下でもない。何も問わない。そして、断罪する事もしない。たとえ、相手が人を殺めた人間であってもだ。

「俺が、死んだ理由は知っていますか?」
 
 必要最低限の情報はセオから聞いている。どんなお客さんであっても、俺は目的地に送り届ける。そこが、どういう場所なのかわからなくてもだ。

「本当は、何人だと思いますか?俺がやったのは」

 そういった事は誇示する事ではない。俺は何も答えない事にした。

「もしかして、俺が怖いですか?」
「お客様を怖がる事はありませんよ」
「そうですか」
 彼は笑った。俺は気持ちの悪い汗をかいている。脇の下が湿っているのがわかった。
「俺はね、怖いという事がどういう事なのか、知っていますよ。予定されていた嘘が、予定通りに行われる事なんです。予想外の出来事は恐怖ではないと気がつきましたよ」
「私にはわからない事です」
「じゃぁ、なんで人は嘘をつくかわかりますか?」
「さぁ。わかりません」
「わからないことを隠すためですよ。その点、わからない事をわからないと言えるのは正直者か、ただの馬鹿なのです」
 俺はスピードをあげる事も落とす事もなく、ただ同じ角度でアクセルを踏み続けた。
「運転手さんは俺と同じじゃないですかね」
「どういう事ですか?」
「はじめて、会話してくれましたね」
 ふふふと、鼻の穴から息を漏らすように彼は笑った。そして続けて、こう言った。
「正直者って事ですよ。それか、人殺しかな?」
 今度は、彼は大きな体を揺らし、何かが欠陥しているような大きな声で笑った。俺には、それが嘘の笑い声に聞こえた。
「そうでしょ?あなた、人を殺したことあるでしょ。何人ですか?」
 俺は再び息を吐いた。これは挑発ではない。別に認めるわけでも、否定するわけでもない。俺に無関係で、俺にとって無利益な質問に答えるつもりはないという意思表示に過ぎなかった。
「沈黙は肯定だと受け取ってもいいのですか?」
「着きましたよ」
「俺はそう思う事にしますよ」
「どうぞ」
 俺は他のお客さんにするのと同じように、後部座席の扉を開けた。彼は意外にも素直に従った。
「俺はやっぱり地獄でしょうね」
「お客様の行き先の事を私は詳しく知らないのですよ」
「嘘ではなさそうですね」
 気狂いを演じるような、クツクツとした笑い声だった。その時に初めて、お客さんの目を直接見た。深い黒目をしていた。俺は、そういう目を知っている。
「では、ここで。そうだ、運転手さん。俺も運転手になれますかね?」
「すみません。わかりません」
「ハハハ」
 彼は何も言わず、目的地に歩いていった。俺は、無言で見送った後で、少し屈んでサイドミラーを確認した。


おわり

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!