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粗末な暮らし18

「慶仁邨は知っているのでしょ? じゃあね」
 それだけを言うと、アンバーは明るい光の中の遠い一点に吸い込まれていった。入江田は心細さを悟られたくないように、その一点が消失する前に門をくぐりぬける。慶仁邨は廃墟が立ち並んだ街ではなかった。コンクリートの建物に人の息遣いが含まれているのを、入江田は感じとったのだ。その息遣いの狡猾なリズムが、彼の肌に静かに染み込んでくる。  

粗末な暮らし17

 大通りには、フェンタニルの用法を誤った人達がまともに歩けないでいた。その薬の恐ろしさを知っていながら、その力を借りなければ生きて行けないのだろう。アンバーが言っていた事は本当だった。
 大通りを避けるように、入江田は角を曲がる。いくつかの裏道を彼は憶えていて、慶仁邨を適当に歩く事はしなかった。大通りの立ち歩いている連中と違って、裏道の中毒者は座り込んでいるか、糸を切られた操り人形のように地面に横たわっていた。迷路のように入り組んだ道が、慶仁邨の複雑な地形を示していており、入江田は自分の足音を聞きながら進んでいく。「ここは慶仁邨」入江田は、頭の中で呟いてみた。
 中毒者の中には正常な人間と同じように、普通に会話をする事もあれば、笑い声を上げる者もいたが、誰も入江田には声をかけなかった。
 入江田は、五階建ての白いビルを視界に捉える。そのビルの前には、人が集まっていた。入江田は、そのビルの中に何があるのか興味を持った。「バラキに会いにいって」アンバーの声が入江田の脳裡によみがえる。バラキというのは「慶仁邨の毒蜘蛛」という異名を持つ存在で、慶仁邨の子供でも彼の名前を知っている。その男は慶仁邨の人間にとって恐怖の対象であり、尊敬すべき対象でもあった。彼は慶仁邨の裏社会を取り仕切る男で、慶仁邨の人間は彼に従う事で、ある種の自由を得る事ができるのだ。その男が、慶仁邨の通りの一角にいるとの噂を入江田は聞いた事があった。その噂が事実かどうか確かめるために、入江田は慶仁邨のビルの前にいる人々の間に割って入った。人々は、入江田に鋭い視線を向けるだけで、何も言わない。
「お兄さん、バラキに会いに来たんだろう?」入江田は、背後から少年に話しかけられた。
「ついてきなよ」
 その少年はビルの中に入ると、階段の所で振り返った。入江田は、その少年についていく事にした。階段の所にいた数人の若者達が、入江田を見て目を丸くした。その若者たちの視線を無視して、入江田は階段を上っていく。
二階に着くと、少年は廊下の奥に向かって歩いていった。入江田はその後に続く。その廊下の壁にドアが並んでいたが、それはどれも閉まっていた。どの部屋が空いているか分からないので、入江田はその少年の後に従った。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!