粗末な暮らし四話 上

 

 どうせ僕に拒否権はないのだから、僕は柔順でありながらも、しらじらしい態度をとった。
「一体何ですか?」
「あぁ。葬送の言葉を唱えて欲しいのだ」
「それはどういう意味ですか?」
「言葉の通りだ。お前は手帳を持っている。そこに書いてある葬送の言葉を唱えて欲しい」
僕は国民服の胸ポケットに右手を突っ込んで、手帳を取り出した。慶仁邨に来る前に、桃花に渡された中佐の手帳。こんな状況に巻き込まれても僕はまだ、葬送の言葉を信じられないでいる。
「あの、これって本当に効果があるのですか?」
「もちろんだ。お前はイリエダ・サキチに唱えて、奴は死んだ」ドレ―は口の端から息を漏らした。嘲りの微笑とも皮肉の痙攣とも受け取れる表情。
「そんな……僕は人を」
「殺したよ。今更戸惑う必要はない」ドレ―は僕の言葉を遮るようにして断言する。
「戦争に行っていただろ? もしかして誰も殺していないのか?」津留崎が得意げな顔をしてそう聞いてきた。僕にとっては不愉快な表情で、自分の優位性をアピールする顔。僕は戦場で誰も殺していない。その事で、僕は気後れなどしていない。僕は戦争に行きたくて行ったわけではないのだ。
「ええ」
「ははっ。生き残るのは臆病者だもんな」僕を小馬鹿にするエイコンの声。何と言われてもいい。仮に戦争で誰かを殺していたとしても、それを誇らしげに語る人間に僕はなりたくない。ただし、エイコンの態度を僕は許すことができなかった。
「なんですか? さっきから」
「はぁ? 言いたい事があるならハッキリ言えよ」
「やめなさい」ドレ―が割って入る。「エイコン。お前はふざける癖がある」
「ちぇっ」エイコンは不服そうだったが、それ以上何も言わなかった。
「それでだな。尾田……」
「あの、すみません。その前に聞きたい事があるのですが……」ドレ―の言葉を遮って、僕は色々な疑問を投げかけようとした。
「あの、あなた達の目的は何ですか? それにネズ婆さんとは何者ですか? 聞きたい事ばかりです」
「目的か……。まぁ簡単に言えば、この世界を救う事だ」
「救う?」ドレ―以外の顔に僕は目をやった。エイコンはニヤついた顔で僕を見ており、津留崎は無表情でかつらをいじっている。僕の頭の中は混乱していた。様々なことが一気に脳の中で氾濫し、それを何一つ把握できていない状態だった。次に僕は水槽に目をやる。水槽の中は沈黙に満ちているはずなのに、魚たちが泳ぐ姿はうるさく感じる。イワシかアジなのか、銀色の腹の群れがぐるぐるとまわっている。なぜこんな場所に僕は居るのだろうか? ドレ―は僕をどう扱うべきか決めかねていたのだろう。彼は僕の様子をみて「尾田くん、いいかな?」と右手を前に出して説明を始めた。
「私達も君と同じだった。突然こういう事に巻き込まれて、ここに連れて来られたのだ」
「はい。それはわかります」最初の高圧的な感じと違い、ドレーは穏やかな口調で言った。僕は彼に少しずつ心を開いている。仮に騙されているとしても、僕はどうでもいいと思い始めた。
「私もそうだ。最初は意味がわからなかった。しかしながら、偶然ではない事に気がついた。我々は選ばれたんだ」ドレ―は感情を抑えたような声でそう言った。僕は彼の表情を見て少し違和感を覚えた。
「選ばれた?」
「そう。選ばれたんだ」ドレ―はそう言って、エイコンと津留崎の顔を見た。二人共、何か言いたげだが口を閉ざしている。
「あの、どうして僕が選ばれたのでしょうか?」
「答えを聞かなくてもわかるのだが、君に聞くが、誕生日はいつだ?」
「一月一日です」
「そうだろうな! ここにいる私達もそうだ」



一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!