粗末な暮らし五話 下

「あっ、危ないよ!」
 背後からネズ婆さんの呼ぶ声。僕の頭は勢いよく、開いたドアにぶつかった。強い衝撃を感じ、僕の意識は遠のく。
「尾田君! 大丈夫?」
 誰かの声。それが誰なのかわからない。青い目をした女が僕を覗き込んでいる。
「ここはどこですか?」
 僕は思い出そうとしたが無駄だった。過去は僕の頭の紙一重のところまで来ていながら、なんらかの原因で僕の中に入り得ない。事実というのは思い出すだけの事で、真実とは違うのかもしれない。
「尾田君、記憶がなくなったの?」
「いや。少し混乱しているだけです」
 自分が何処にいるのかわからなかった。何かのベルが鳴り響く中、柔らかいカーペットの感触を、僕は背中に感じている。
「そうなの?」
 彼女はそう言うと、僕に抱きついてきた。彼女の匂いを感じる。甘くて心地よい香りだ。僕はどうしていいのかわからなくなり、頭に痛みを感じた。
「桃花。やめな」
 声の主に目を向ける。そこには背の低い老婆がいた。着ているモノが白っぽいためか、ぼやけた印象だ。
「いいじゃないですか? ネズ婆さん」
 桃花と呼ばれた女は、僕から離れようとしない。
「桃花。いいからこっちに来な」
 彼女はしぶしぶ僕から離れ、その代わりに老婆が僕の顔を覗き込んだ。
「ドアで頭をぶつけただけだろ?」
「多分そうだと思います」
「多分? 頼りないね」
 冷たい血が、体中を駆け巡っているような気がして僕はたじろいだ。ネズ婆さんと呼ばれた老婆は、侮蔑をきわめた表情を顔に浮かべたが、なぜか僕は婆さんに頼ろうとする。
「大丈夫です」
「なにがだい」
 そう言ってネズ婆さんは、僕の額に手を当てる。ネズ婆さんの手が冷たく感じられて気持ちよかった。
「自分の名前は? 言えるかい?」
「尾田幸良です」
「あんたはどこから来た?」
「ええと……。あれ、わかりませんね」
「本当かい?」
 ネズ婆さんの両顎がやや張って、何かを獲る寸前の、狡猾な表情になった。それなのに、僕はネズ婆さんに気に入られたいと思っている。単純で弱気な気分になり、僕はぎごちなく他所見みをした。  
「この娘の事はわかるかい?」
「……すみません。わかりません」
「婚約者だよ」
「えっ……」
 僕は桃花と呼ばれている女に目をやった。彼女は僕の視線をかわすように下を向く。その仕草を見て、僕は急に恥ずかしくなった。
「あの……。すみません。そんな大事な事を忘れるなんて」
「仕方ないよ」
 桃花は証拠を見せるように、僕に微笑んでくれた。ネズ婆さんの言葉が、真実である事を僕は願う。桃花の細い体を僕は眺め、彼女の身長が高い事に気がつく。横たわったままでいられなくなり、僕は起き上がろうと、カーペットに手をついた。
「おい。手伝ってやれ」
 ネズ婆さんがそう言う前に、桃花が僕の体を支えてくれた。婆さんが呼んだのは、黒い服を着た二人の男だった。彼等の顔は同じで、僕の両脇を抱えて「大丈夫そ?」と問いかけてきた。
「ええ大丈夫です」
「そうか」
「ところで何のベルですか?」
 鳴り止まないベルの音に耐えかねて、誰にという訳でなく僕はそう尋ねた。広いロビーにいて、ここが何処なのか僕には見当がつかない。
「佐吉が来たんだよ」
「サキチ?」
「あぁ桃花の兄貴だ」
 ネズ婆さんが不機嫌そうにそう言った。それで僕は何となく不安になる。誰かが来るという事で、何故こんなに慌ただしくなるのだろうか。それに、僕の婚約者の兄ならば、身内ではないか。目の前にいる綺麗な顔をした女が、本当に僕の婚約者なのかという確証は何もないが、僕は事実を受け入れる必要を感じた。
「ここに佐吉を連れてきな」
 ネズ婆さんがそう言うと、何人かの男がドアの外にでる。窓がないので、僕は外の様子を確認できない。
「尾田くん。横になった方がいいよ」
「佐吉さんに、僕は挨拶しなくてもいいのですか?」
「兄さんに会いたいの?」
 桃花にそう問われて、僕は返答に困った。それは、何もわからないのに、わかったふりができないからだ。
 しばらくして、一人の男が部屋に入ってきた。髪が長く、眼帯をしていて、顎鬚を生やした男だ。彼は黒っぽい服に身を包んでいるため、影のように思えた。
「尾田君じゃないか!?」
 彼が僕の名前を呼んだ時、僕の身体中に鳥肌が立った。しかし、何故か懐かしい気がする。僕は記憶を失っているのだから、彼の顔に見覚えがあるはずがない。それなのに、彼を知っているような気がするのだ。やるせない夢を見ているような気分になり、僕は桃花の兄の顔に目を合わす事ができなかった。彼はゆっくりと僕に近づいてくる。
「久しぶりだね。死んだと聞いたよ」ネズ婆さんが佐吉さんに話しかけると、彼はネズ婆さんを一瞥して「あぁ。また世話になります」と言った。それから、佐吉さんは、僕の顔を覗き込む。彼の片目は僕の心の奥底まで見通しそうな程澄んでいた。僕の聞き間違いでなければ、ネズ婆さんは「死んだ」と言っていた。
「さぁ。行こうか」
「ちょっと待ってよ兄さん。尾田君は頭を打ったばかりなの。動けないよ」
「大丈夫だろうよ」
 どこに行くというのだろうか。ここで聞いた内容の一欠片も、僕にはわからない。何処にも行きたくないと僕は思った。
「あの、すみません。僕は何処にも行きたくないのですが……」
「遠慮しなくてもいいんだ」
 佐吉は現実味のない世界にいる僕を、どこかに連れ出そうとしているのか、僕の手を引っ張る。抵抗しようとしたのだが、僕は引きずられるように外に連れ出された。ネズ婆さんと桃花も外に出て僕達を見守るばかりで、何もしない。
「どこに行くのですか?」
「お前さんは、葬送の言葉を唱えなければならないんだ」
「何の事ですか?」
「ネズ婆さん。尾田君の記憶は混乱してるようだぞ。俺に預けてくれないか?」
ネズ婆さんが「ふん」と言ってから、「勝手におし」と言い捨てた。
「兄さん。尾田君に無茶をさせないようにね」
 彼女の表情が一瞬、気弱になった気がする。ため息をつくような哀しい笑い方で、何かが引っかかった。ほのかに痛い感触を、僕は自分の眉間に感じたのだった。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!