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創作:人魚男(マーマン)の懐古主義

ちょっと体調が悪いぐらいで、病院に行く30代の男性は少数らしい。自分達が働き盛りだと自称する事はないが、彼らの大半はそうだと自覚している。それが理由なのかどうかは定かではないが、常に倦怠感と疲労が彼等にはある。どこからが体調不良なのかという事が曖昧なので、病院に行ったところで、どうせ変わらないと高を括っているのだ。それに、このご時勢、医者の仕事を増やしたくないと思う者だっているぐらいなのだ。

これからご紹介するのは、後に人魚男(マーマン)と呼ばれる男の話だ。彼も、働き盛りの30代。しかしながら、尋常じゃない喉の渇きと、首の後ろの痛みに耐えきれなくなって病院にやってきた。



「血糖値は正常ですね。喉の渇きの原因は、加齢、塩分過多、アルコールの過剰摂取などが考えられます。何か思い当たる節はありますか?」
そう言われても、男はまだ35歳。加齢という言葉に抵抗感がある。

「塩分に関しては特に気を付けていませんが、アルコールは毎日飲むという訳ではありません」

「では、唾が出にくいとか、そんなことはありませんか?」

不毛な問診をしている所に、看護師が慌ててやってきた。こういう態度は、患者を不安にさせるのだ。特に、原因不明の体調不良の時にやられると、最悪の事まで考えてしまう。しかし、彼女から放たれた言葉が突飛すぎた。

「この患者さん、イルカに近いです!!」



確かに、男は最近、魚ばかり欲しがっていた。イカやタコ、カニなども目に映ると食べたくなる。けれども、それがイルカになるという事ではない。

病院の説明では、血液のヘモグロビンが多いという事と、全身の筋肉中には酸素を貯蔵する機能がある色素 「ミオグロビン」 が普通よりも高い水準で多く含まれているという事らしい。
男からすれば、そんな説明を聞いたところで、「なるほど!」とならなかった。
ただ、わかりやすい違和感は、首の後ろに鼻ができたことだ。それは、イルカでいう「呼吸孔」と呼ばれる器官で、水面に浮かびながら呼吸がしやすいように、イルカの頭の上にあるそうだ。それと同じ理由で男の首の付け根付近にできたのではないか?という事を医者は言っていた。なんでも、1回息継ぎをすると、しばらくの間呼吸をせずに水中に潜り続けることができるような体になったらしい。

「で、先生。私は普通に生活できるのですか?」
体がイルカだから何だっていうのだろうか?首の後ろの穴を隠す必要はあるが、髪の毛で隠れるほどの大きさだ。それよりも、陸上で生きられるのか?と思ったのだ。
「今の倦怠感は、体の変化が原因です。心配いりません。じきに落ち着くでしょう。その後は日常生活に支障が出るどころか、海に行くのが楽しみになりますな!」
楽天的な見方をすれば、そうだろうが、男の心配とは見当違いの医者の発言に男はムッとした。
「いやいや、これ以上体は変化しないでしょうか?ってことですよ。極端な話、ヒレが生えたり、足が人魚みたいにならないですか?そうなったら、私は今まで通りの生活ができないじゃないですか?」

「何とも言えませんな。自然現象は、スムーズに運ぶ事を何よりも尊重します。ところが、あなたに起きている現象に対しては何とも言えません。しかも、元に戻す方法もわからない。また、来週にでもお越しください」
年配者の医者は、できる限りの愛想を振舞ったつもりだが、男にとっては何の慰めにもならなかった。



「そう言ったところでどうにもならないのでしょ?それに、あなたはあなたなのだから、心配しても仕方ないじゃない」

男は一年前に結婚したばかりだった。人によっては、幸せな結婚生活は初めだけだと言うが、一年経っても男は幸せを感じている。34歳で結婚する事は決して早くはないが、遅すぎる程でもない。半端な真面目加減だけが取り柄の男と結婚してくれたのは、7歳年下の後輩だった。社内恋愛なんてドラマとか物語だけの話だと思っていたが、男の現実に起きた奇跡だった。

「まぁ、でも、パパがイルカってのはやっぱ、恥ずかしいのよねぇ」
男の妻が冗談ぽくとんでもない事を言った。
「えっ!?もしかして?」
「そうなの。2か月だって」
喜びと悲しみは人間の定めだ。喜びを正しく知ったとき、私たち人間は自信を持つ事ができる。男は妻の妊娠を喜ぶ事ができた。

「まぁ、イルカでもいいか。とにかく、これからも頑張ろうね」



自分以外の何かになりたいと願いながら、人生を送るのは耐え難いものだ。そもそも、自分が何者なのかもわからないのに、何かになりたいというのは、何にもなりたくないと言っているようなもの。男は、ただ、欲望と簡単に手に入る手段に流され、守るべき嘘という言い訳を探していた。

「いや、その、仕方がないだろ?もう俺は戻る事ができない。嫌なら別れたらいい。金か?金が必要なら払うよ」

結局、何も見つけられずに、男は開き直った。人間は自分に都合がいいものしか信じない。そして、一度信じてしまったものを諦めるには、知恵が必要なのだ。しかしながら、男は知恵を放棄してしまった。

「あぁ。そうすりゃいい。その方がお互いにとっていいだろ?子供には悪いが、必要なものは俺が用意する。キミは複雑な感情を抱きすぎた。単純な事だ。別れよう」

愚か者と言うのは、義務を盾にして正義を守る。しかし、情のない義務に、正しさなどあるわけない。男が知恵を放棄した理由は傲慢だった。



「人魚男(マーマン)の勝利です!なんと、遅咲きのルーキーが最高の色のメダルを大舞台で勝ち取りました!正に水を得た魚です!」

それを反則だという人もいたが、男がその資格を持っていないという事はない。しんどい現実をしっかり受け止めて、それに向かって闘うことを挑戦と言う。それが資格だとしたら、男は、ある意味では挑戦してきたのだ。
ただ、他の人よりも努力をしなくても、結果を出してしまった。努力せず、結果が出ないと後悔が残るが、結果を出してしまったら、傲りになるのだ。

「今のお気持ちは?」

「まぁまぁです」

「チョー気持ちいい」と言えないのだ。大人が、自転車に乗れることを特別だと思わないように、簡単にできる事は当たり前でしかない。人はどんなことにでも慣れるように、勝つことにさえ慣れてしまうのだ。高い山を登るからこそ、人は準備をする。準備をする意欲が勝利の醍醐味なのだ。

男の体は、泳ぐことに特化した体になってしまった。そして、それに伴ってたった2年で状況は変わった。
男はもう、会社員ではなく、スイマーになった。しかも、世界最速のスイマーだ。プールで泳げるぐらいの競技では、息継ぎを必要としない。予期していたように、足はフィンのように肥大し、指の間には水かきができていた。

水泳が楽しい訳ではなかった。単に男は、チヤホヤされることに喜びを感じているのだった。体が変化していくことに、はじめは戸惑いを感じていたが、妻が前向きに考えるようにアドバイスしてくれた。
そこで、始めたのが水泳だった。当然と言えば当然だったが、男は初めから速く泳げたのだ。

男の体の事を揶揄する人は今でもいる。オリンピックに出場する事に疑問を投げかける人もいるが、男は人間なのだ。

注目を集めるたびに、男は快感を得た。そのことによって、男はこの世の全てを知った気になっていた。真面目に働く事を些事だと罵るようになっていった。だがしかし、男は知らないのだ。すべてを知り、すべてを理解しているつもりになっているのも、愚か者だという事を。



「馬人(バジン)だ!最速の称号を手にしたのはバジンです!」

あれから4年後。男は一人でオリンピックをテレビでみていた。今は、馬のような体になった中年男が注目を集めている。

パン屋でパンを買うように、近寄る女と金を手に入れる事は簡単だった。今もその気になればそれができると男は思っている。
その方法が、人生を謳歌するための唯一の手段で、それが正しいと思っている。小賢しい説教など児戯でしかない。欲を叶えてこそ、生きている意味があるのだ。

そう思っているが、その実、もう何もする気がない。子供に会う事も嫌になった。元の妻に会う事など想像もできない。

ただ、この馬人に男は言ってやりたいと思ったのだ。

「賢い人間というのは、他人の過ちから学ぶものだ。バカは、自分の過ちから学び、人間じゃない者は、学ばないのだ」

結婚したばかりが幸せなのは当たり前かもしれない。そんな事を思い出しながら、男は似合わない酒を飲む。
今も口の渇きが満たされることはないのだ。

終わり







一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!