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連れてってやる

 家に帰ると俺は、空元気を置き去りにして来た憂鬱な病室を思い浮かべた。食事の時分きまって発熱に苦しむ夏希が、看護師か誰かに手伝ってもらいながら夕餉を食べているんやないかと、そんな事を考えてまう。悪寒に慄えながら「兄ちゃん、明日も来てな」という妹に、俺は笑って「当たり前や」と答えたんやけど、夏希を見るのが辛かった。
「せや。兄ちゃん。うち、あそこへ行きたいな。兄ちゃんが連れてってくれた夜の松原の浜。あっこは星が綺麗やったな」
「父ちゃんや母ちゃんに内緒で夏になったら連れてってやる」
「ほんまに! 約束やで。うち、病院におるのはもう嫌や」
「何言うてんねや。しょうもない事言わんと、早よ治せや」できるかどうかわからない約束をするのは、とても辛い事。俺は自室から出て、階段を下り風呂の方へ歩いてゆく。俺は湯船にぶくぶくと沈んでしまい、浴槽の底へ横たわってしまいたい衝動に駆られる。病院から帰ると、いつもきまってその想像をして、俺が妹と変わって病気と闘ってやりたくなる。なんやようわかんけど、水の中におると安心できる気がするんや。服を脱いで、体も洗わずに風呂に飛び込んだった。
「いつ治るんやろな」
 俺が湯船から顔を出すと、父ちゃんが風呂場に入ってきた。いつもは無口な父ちゃんやけど、風呂の中ではよお喋る。父ちゃんも病院に寄ってきたんやな。
「なぁ。夏希の病気ってそんなキツいんか?」
「ホンマ、えらいことになったなぁ」俺の方を見とらんが、父ちゃんは頭を洗いながらそう呟いた。
「あれか?  遺伝とか言うやつか?」
「……」
 父ちゃんは何も言わんかった。俺も、それ以上聞いてもしゃーないと思って、また浴槽に沈んだ。そうした方がええんや。どないや言うても、結果が変わる訳やない。母ちゃんが、洗い終わった洗濯モンを脱衣所に取りに来る気配がした。
「夏希がな、松原の浜に連れて行ってくれ言うてたぞ」父ちゃんの声で、俺は湯船の中で思わず顔を上げた。
「俺にも言うとったわ」
「連れってやったら喜ぶやろね」と母ちゃんが大きい声で答えた。
「俺が、連れて行くわ」俺は俺で、忙しいんやけど、夏希が心配でしゃーない。夏になったら連れていく。そう約束してしもうた。その約束を守れるのかどうか、今はわからへんのやけど、夏希はホンマに嬉しそうやった。その夏希の顔を思い浮かべたら、なんや切のうなってもた。
 風呂を上がると俺はベッドに仰向けになって考えた。どんなことがあっても松原に行くんや。何があっても、ええから絶対に連れてってやるんや。

「兄ちゃん」
「なんや」
「また来てくれたんやな」
「そうや」俺は夏希のベッドの横に椅子を置いて座った。夏希は、俺の姿を見て嬉しそうに笑った。
「今日は、何してくれるんや?」
「そやな」俺はどうしたもんかと、辺りを見回すと、ベッドの横にお札を見つけた。なんやわからんけど、それを見たらごっつ気分が悪なってきた。
「これ、どうしたんや?」
「うん?  お母ちゃんが貼っていったわ。兄ちゃん、お札嫌いなんか?」
「そやない。そうやなくてな」夏希は「おかしいな」と言って「兄ちゃん、なんかあったんか?」と俺に聞く。
「なんでやねん」
「なんや最近元気ないみたいやで。前までの兄ちゃんとちゃうと思ってな」
「そやな。そうかも知れん」俺は、夏希に心配かけとうない。せやけど、夏希の病気が治るかどうかわからんのやったら、俺が元気でおってもしゃあない。
「兄ちゃん、なんかあったんか?」
「いや、なんもないわ」俺はそう答えるしかなかった。
「そか。ならええねんけど」俺と話すとき、夏希はいつも眼の中がとろんとして、苦しい様子だった。
「夏希。連れてってやろか?」
「どこへ?」
「松原の浜や」俺は、夏希が喜ぶと思って言うたんやけど、夏希は顔を曇らせた。
「兄ちゃん。うちな、もうええねん」
「なんでや?」
「もうええねん」
「なんでや? 行きたいやろ?」
「うん。でもな、うちはもうええねん」夏希はそう言うて、また苦しそうに眼を瞑った。俺はその顔を見てられへんかった。
「うち、聞いたんや。兄ちゃん、ホンマに死んだんか?」
「なに言ううてんねん。俺が死ぬわけないやろ」
「でもな、兄ちゃん。お母ちゃんが言うてたんや。兄ちゃんは、もう死んだって。お父ちゃんも言うてた」
「……」俺は何も言えんかった。夏希の眼から涙が流れ落ちるのを俺は見た。
「なんでやねん」と俺が言うと、夏希はまた苦しそうに眼を瞑る。そして、その眼から涙が流れ落ちた。
「なんでや?」俺はもう一度言うた。
「……もうええねん。兄ちゃん、ありがとうな。うちの事、心配で来てくれてたんか」
「あたりまえやろ。俺に、なんぼでも心配かけたらええねん」夏希は笑った。俺はその笑顔を見てられへんかった。
「兄ちゃん、もう行かなあかん時間ちゃうか?」
「なんでやねん」俺が言うと、夏希はクスクスと笑うた。
「兄ちゃんも子供やな」と夏希が言うので「おまえに言われたないわ」と言うと「あはは」と笑ってくれた。俺は立ち上がって病室を出た。廊下には誰もおらんかった。
「これでええんや」そう言ってから、俺は一人で松原の浜に行こうと決めた。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!