見出し画像

Torn エレベーター 1

 リュウジと別れたのは、朝に近い時間だった。久しぶりに酔った気がした。何かを忘れたいために飲んだのではなく、思い出すためだったかもしれない。
 いや。ただ酒を飲んだだけの事だ。酒がもたらすのは、忘却でも、懐古でもない。二日酔いだ。俺は紙に水がしみてゆくように、体が柔らかくなった気がした。このまま寝たら、間違いなく、次に起きた時には頭が痛くなるという自覚をした。当然、車を運転する事ができないので、俺は実家に泊った。
 起きたのは、昼前だった。母親が朝食とも昼食とも言える、食事を作ってくれた。特別な味噌を使っている訳でもないのだが、実家の味噌汁というのは他にはない安心感があった。二日酔いだったが、程度は軽くて、食欲はあった。だいぶ前に朝食を済ませて、テレビを観ていた父親からは「今度来るときは、ヨウスケを連れてこい」と言われた。俺は「わかった」という短い生返事をした。両親と仲が悪いわけではない。俺は何となく、俺が生まれ育った家や街にヨウスケがいる事に慣れない。自分の子供の頃と、ヨウスケを比べられることが何故か嫌だった。

 俺は既視感に襲われた。実家での事ではない。俺は1階のホールで、再びベビーカーを押す老婆に出会ったのだった。
「また会いましたね」
 老婆の方から声をかけてきた。俺は「えぇそうですね」と相槌を打った。それ以上の会話など思いつかなかったので、それだけで十分だと思ったのだった。
「ご友人には会えましたか?」
「はい?」
 俺は、間髪入れずにそう返事した。リンカがこの老婆と顔見知りで、俺が同窓会に出席した事を言ったのだろうかと思った。しかしながら、思い直した。そんな筈がなかった。リンカがこのマンションで、誰と親しいのか知らないが、俺が同窓会に行っているなどという、どうでもいい事をリンカが口にする訳がない。それは確信できる事だった。
「どうかしましたか?」老婆は破顔して、そう言った。
「いえ。一体何の事をおっしゃっているのかわかりません」
「昔に戻りたいのですよね?」
俺は思わず、ベビーカーに乗っている赤ん坊を確認した。もしかすると、人形ではないかと疑ったのだ。それは、老婆が呆けていて、真面な会話ができない人物ではないのかと思ったからだった。しかし、赤ん坊は実際に生きていて、俺と目が合うと、大人のようにニコッと微笑みかけたのだった。
「エレベーター来ましたよ」俺は、開放ボタンを押したまま、老婆に「どうぞ」と言った。
「ありがとうございます」彼女はそう言った。
 俺は、何も尋ねない事にした。何を尋ねたとしても、期待通りの会話など成立しないと思ったのだった。
「いいですか。そんなに驚かないでください。次にあなたが目覚めると、あなたの望みは叶うでしょう」
俺の住むフロアーよりも低層階に住んでいる老婆は、前と同じ階で降りる前にそう言った。俺は「一体何の事ですか?」と問いただしたのだったが、彼女は何も答えずに降りていった。俺は釈然としない心持ちで自分の降りるべき階で降り、すぐに老婆の事を考えるのをやめにした。

「ただいま」
 俺がそう言うと、ヨウスケだけが「おかえり」と言ってくれた。リンカの叫ぶ声だけが聞こえてきた。リンカはデイゲームをテレビで観ていた。彼女には、贔屓のプロ野球のチームがあって、シーズン中はリンカがリビングのテレビのリモコンを支配しているのだった。
「ただいま」
俺は「おかえり」と言って欲しくてリンカに再びそう言ったのだったが、ちょうど、ホームランを打ったタイミングだったので、俺の声が彼女に聞こえる事はなかった。高卒ルーキーだが、5番を任されている選手だった。つい最近まで高校生だったのに、開幕からスタメンに入り、クリーンアップとしての責任を十二分に果たしている。いや、それ以上だ。ホームランの数がリーグで単独トップなのだ。俺はなぜかうんざりした。「また高校生か」そう心で呟いたのだった。
「帰ってきてたの?」
「2回も『ただいま』って言ったんだけど」
「あぁごめん。今、いいところなの」
「らしいな」
 俺もテレビの方を見た。高卒ルーキーが、ホームベースを踏んでベンチに戻っていた。チームメイトの先輩達に、ハイタッチで迎い入れられて、最後にテレビカメラに向かって、俺の知らないハンドサインをする。プロっぽい仕草だった。去年の今頃は甲子園を目指していたのに、今年はプロ選手になっている。何故か俺は彼が羨ましくなって、お門違いの嫉妬をした。
「4階に住んでいる、お婆さん知っている?」
 無駄な質問かもしれなかったが、俺はリンカにそう尋ねた。
「はぁ?お婆さん?何人もいるけど、一人も知らない」
「いや、いつもベビーカーを押している、お婆さん。俺も2回しか見た事ないけど」
「私は見た事がない」
「ヨウスケは?」俺はヨウスケにも聞いてみた。ヨウスケもリンカの影響で、今シーズンから野球に興味を持つようになった。まだ細かいルールはわからないようだが、試合の流れなどはわかっているようだった。
「知らない」
「そのお婆さんがどうかしたの?」リンカがかぶせるように聞いてきた。
「俺が同窓会に行っていた事を知っているような感じだったんだ」
 野球は6番が凡打で3アウトになっていた。
「何それ?私は知らないよ。あなたが言ったんじゃないの」
「そうだよな」
「いつだってそう」
 そう言われて俺はそうかもしれないと思うようにした。それでもいいかと思うようにした。それから、老婆が言っていた事も忘れるようにしたのだった。


つづく

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!