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二周目か。 

 扉が開き、松本が戻って来た。彼はどこか物憂げな表情をしていた。歓談が秒に満たない刹那、沈黙し、違和と表する歪な間が場に訪れる。敏感であり、空気感を読む事に長けた浜田が「お前、二階で寝とったんか?」と茶化すと場が和んだ。それに助けられたのか、松本も柔和な相貌で「ちゃうわ」と返答するも、言葉尻に物悲しさが漂っている。その理由を知っている浜田は、秘密を覆い隠すように「こいつ、この前もみんなで出かけた時に、どっか行きよって、探した事があったな。みんなで『まつもとくーん』言うて声かけてたら外人の団体のとこに紛れとんねん。外人いうてもあれ、多分中国人やな。あっちの人は人が増えても気にせんのやな」と言って、話題を松本の他の失敗談にする。浜田は場の空気を創るもの得意だ。
「ちゃうやん。あれ、雰囲気似とったから間違ってついていったんや。そしたら、ガイジンやったんや」
「いやいや。おかしいやろ。そもそも言葉がちゃうやん」
「言葉いうても、そないかわらんやん」
「はぁ? 中国語やで? 日本語と全然ちゃうやん」
「そら、お前はわかるかもしれんけど、俺はあんまわからんもん」
「なに言うとんねん。普通わかるやんな?」と、浜田はその場にいる他の者に同意を促し「そうやろ? それぐらいわかるやんな」と言って、その場を盛り上げる。それは、松本の秘密を隠すための浜田の思いやりなのかもしれない。

「そろそろ、時間やな」と浜田は皆に告げる。時間を気にしないでもいいという訳にはいかない。訳知り顔で、懐柔しようとしてくる人間も多いのだが、その理屈を浜田は知った上で、そういう風潮に乗っかることができる。松本をはじめ、他の者は「そやな」と言って寝る準備をするのだった。

「ほんで、お前、大丈夫やったんか?
「はぁ? なにが?」
 他の者の寝息が聞こえてくると、寝る事ができないのだろうと予測したように、時宜を見計らって、浜田は隣の松本に小声で話しかける。
「ええんや。気にすんなや」
「お前、知っとんのか?」
「まぁな」
 それは小さな声だったが、松本にとっては心強く聞こえたのかもしれない。
「まだできんでもええんや。そら、早よできる奴もいるけど、失敗してもええやんか。そない、恥ずかしい事やない」
「そやけど、俺だけやで」
「教えたろか? 俺もまだできへんのや」
 常に悠揚な態度で、時には人を喰ったような物言いをする浜田が、できないという事が意外だったのか「まじで!?」と松本は思わず声をあげた。
「しぃー」と人差し指をたてて「実は、俺もまだオムツはいとんねん」と浜田は布団を片手で持ち上げて、松本にズボンの膨らみを強調して見せつける。
「意外やな。お前もまだトイレに一人で行けへんのやな」と松本は安堵した表情を浜田に傾ける。自分だけではないという事が彼の心の負担を軽減できたようだ。
「俺ら二人だけや。他の奴にバレんようにせぇよ。こいつら、馬鹿にしよるからな」
「お前はだいじょうぶやろ。お前の事を馬鹿にするやつはおらんわ」
「そんな事あるかいな。俺らまだ三歳やで? 他の奴らがどんな奴かいうのは、これから決まっていくねん。気ぃつけや」
「俺にはよくわからんわ」
「まぁ、ええわ。なんにせよ、お前は気にする必要ないし、お漏らしぐらいでシケた顔すんなや。ほんで、堂々としとったらええ」と浜田が言っている最中に、松本の寝息が聞こえてきた。
「まぁ、ええか。ホンマ、面倒くさい奴やで」と浜田は天井を見ながら独り言ちた。お昼寝の時間は、皆が一律に寝られるものではない。彼は今後の展開を思い出しながら、隣にいる松本を見る。
「これぐらいの歳の頃から、こいつを矯正せなアカンな。大人になってやらかしよったら、もっと面倒くさいからな」

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!