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粗末な暮らし11

「今、ちょっと時間ありますか?」
「はい。大丈夫ですけど」
 入江田は立ち上がって、中村の後に続いた。二人は、食堂の横にある談話室に向かった。そこには、ソファやテーブル、本棚があり、壁には絵が飾られていた。入江田は、自動販売機でコーヒーを購入すると、中村と向かい合って座って話の続きを促した。

粗末な暮らし10

「あの、単刀直入に聞くんですけど」
「はい」
「入江田さんは、軍人さんですか?」
「えぇ。そうです」
「そうですか」
「それが何か?」中村と名乗った清掃員の声量は、老人としては大きく、ハッキリしていた。ただ、マスクの奥にチラリと見える頬は、青白い皮膚が窪んでいて、高齢であることがわかる。
「いえ。あの、それと、入江田さんは拡張手術についてどれくらいご存じなんでしょうか?」
「詳しくは知りません。チャイナの軍事病院で、それをした知り合いがいる程度です。それで十分だと思っていましたが、ここに来てからは、少し不安になっています」
「不安……というのは?」
「拡張を受けた後、自分がどうなるのか分からないからですよ」
 そう言って、入江田はコーヒーを一口飲んだ。中村は、入江田の言葉を聞いて、眉間にしわを寄せた。そして、しばらく黙ったままでいたが、やがて静かに語り出した。
「入江田さんは、昨日来たばかりで知らないと思うのですが、この施設は、人体実験場のようなものなんですよ。あの、失礼ですが、昨日の事を憶えていますか?」
「えっと……」入江田は、物思わしげに黙りこくって回想した。しかしながら、不思議と昨日の事がぼんやりとしか思い浮かばなかった。
「すみません。質問を変えましょう。入江田さんはここに来て、誰かに会いましたか?」
 入江田は、言葉の本当の意味を理解できなかったが、とりあえず自分の知っている範囲で答える事にした。クアオルトまでは、黒い車に乗ってきた。その後は、施設の職員と思われる女性と、その上司らしき男に会っている。そのどちらも、彼が今まで見てきたサイバネティック・アバターの顔と同じだった。そして、アンバー、マテオ、先ほどの黒須……
「入江田さん。今、このクアオルトにいる人間はあなたと私と黒須だけです」口を開きかけた入江田のタイミングを奪って、中村はしたたかに鞭を打つように激しく言った。入江田は見惚れたように呆然として、中村の眼を見ている。白く濁った瞳に、彼は自分の姿を見出せなかった。
「あなたがどういった経緯でここに来たのか知りませんが、サイバネティック・アバターに気がつかれないうちに、ここから逃げてください。誰もいないのに一人で会話している人を、私は何人も見てきました」
「どういう事ですか?」
 中村は、入江田の眼を見て、深く息を吸うと、ゆっくりと言葉を吐き出していった。
「人は誰しも、自分が正しいと思っています。しかし、その信念は、他人の眼には映りません。私は本当の事を言っています。入江田さん。今すぐ逃げたほうがいい」中村は、入江田の返事を待たずして、談話室から出て行った。入江田は、その場に座ったまま、去っていく彼女の姿を眺めていた。
 入江田が談話室を出ると、そこには黒須という医師がいた。黒須は入江田の姿を見ると、穏やかな表情をして、彼に近づいてきた。
「中村さんとはお話しできましたか?」黒須が訊いた。
「彼女はどこに行きましたか?」
「私はすれ違っただけです。彼女は何を言っていましたか?」
「僕にここから逃げるようにと言っていました」
「そうですか」
「僕はよくわからなくなってきました」入江田は頭を抱え「何が正しいのでしょうか? 」と黒須に尋ねた。
「それは、私が答えられる問題ではありません」黒須は何でもないというような素振りでそう答えた。入江田はため息をつくと、「そうですよね」と言った。
「入江田さん。逃げますか?」
「えっ?」
「ここから逃げてください」
 入江田は口を開いたまま、怯えきったような表情を浮かべて石のように固まった。彼は、自分の視線をどこに合わせればよいかわからなくなって、黒須の固そうな髪に焦点をあてている。白髪がまばらにあったので、自分よりも年上だろうと、入江田はどうでもいい事を思った。
「でも、どうやって……」
「とにかく教えましょう。黒のランドクルーザーには鍵がささったままです」黒須はそう言うと、入江田の横を通り過ぎていった。そして、廊下の向こうへと歩いていった。
入江田は、しばらく立ち尽くしていたが、黒須とは反対の方向に向かって歩き出した。「待ってください!」入江田は、声がした方を振り向くと、中村がいつのまにか戻っていた。
「どこに行っていたのですか……」入江田はそう言いかけた。しかし、中村には、彼の声が聞こえていないのか、続けて「いえ。あの、あなたにこれを渡さないと……」
 中村が差し出したのは、一枚のカードだった。入江田はそれを受け取ると、裏表を見たり、透かしたりしたが何も書いていなかった。
「これは?」
「そのカードは、この施設の門を開けてくれるものです。それがあれば、外に出られます」中村は、入江田の手を握って言った。
「えっと……ありがとうございます。なぜ、僕をここから逃がしたいのですか?」
「それは言えません」
「なぜ……」入江田はカードをズボンのポケットにしまいながら、そう呟いた。中村は「早く逃げてくださいね」と言うだけで、入江田に何も言わせないようにしていた。
「はい」入江田は、もう何も聞かなかった。そして建物を出ると、車を確認した。確かにランドクルーザーには鍵がささっていた。
「本当にいいのだろうか?」入江田は呆然とした様子でつぶやいた。エンジンをかけようとすると、彼はアンバーとマテオを見つけた。少し離れた場所にいる二人は、何かを話していたが、やがてアンバーが歩き始めた。マテオはその後ろ姿を見ていたが、アンバーを追いかけるように走って行った。
 入江田は、アンバー達の姿が見えなくなるまでじっと見つめていたが、決心がついたのかエンジンをつけて、車のアクセルを踏んだ。車は勢いよく走り出し、彼は門を目指した。
 門を開けるために、車を降りると、入江田は周りを見回した。遠くの山の姿は、雲の影によって色彩に欠けていた。色合いの薄い景色は透明に近く、それは、消えそうな自分の記憶のようだと入江田は思った。
「双児宮計画か」
 彼の声は、煙り始めた周囲の山の空気に吸い込まれていったようだった。どうやら彼は疑う事を始めたようだった。
 クアオルトの施設から十分ほど走ると、道は二股に分かれた。入江田は、なんとなく左の道を選んだ。そして、しばらく進むと、入江田は道路の脇に車を止めて、降り立った。彼は辺りの様子を窺うと、ランドクルーザーのトランクから荷物を取り出した。
「何が入っているんだろう?」入江田は、取り出したリュックサックを見てそう思った。彼はそれを地面に下ろしてチャックを開くと、中に入っていた物を取りだしていった。

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一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!