見出し画像

たぶん白い部屋

 悟志から離れて坐っている人の咳がケンケンと響き、その部屋が割と広いという事を彼に伝えた。咳をするための腹の筋肉が疲れたのか、その人の咳の音は小さくなっていく。無口な人達が、思い思いに待っているその部屋では、音を立てまいとしても押え切れない、鼻をすする音などが時折する。悟志は、自分が坐っている椅子の右肘あたりを、左手で強く掴んだ。そこには窪みがあって滑らかになっていた事から、大勢の人が退屈しのぎに触っていたのだろう。
 コトコトコトコと扉が開く音が響き「次の方」という女の声は、痰に絡まれたように濁っており、咽喉の奥の方へすぐに落ち込んで行った。そのひび割れた声に反応して立ち上がった人は、最小限の動作音しか発せず、悟志にはそれが男か女かという判断がつかなかった。
「ここよろしいですか」と、悟志の隣りに座る人があった。彼は全く気配を感じていなかったからなのか、少し驚いた様子で「どうぞ」と上ずった声で返事をする。
 かなり以前から蓄積されている疲労が表面に出てきたのか、隣に座った人から軽いため息がもれた。声色や匂いから、悟志はその人が若い女だと判断したようだ。
 しばらくの沈黙の後、彼女の頭が悟志の肩にコツリと当たったので、悟志は首を左に曲げた。彼女は眠っているわけではなく、じっと前を見据えて一点を見つめている。その瞳に何が映っているのか悟志には見えないが、その女の視線の先にはただ白い壁があるだけだった。悟志は、その女との沈黙が苦痛ではなかった。
「あの」と、女が口を開いた。「私、もう駄目なんです」彼女は悟志の肩に乗せたまま前を向いている。他に声を出すものはいない。一時、たじろいで辺りを見回した悟志だったが、彼には何も見えない。
「駄目?」
「ええ、駄目です」と彼女は言った。そして、自分の事を話しだした。
 彼女は一週間後に三十七歳になるというが、肌の張りや艶から判断すれば二十代半ばと言っても過言ではない。彼女は、小学校の教師をしているそうだ。なんとなく甘えたような声から察するに、彼女はお嬢様育ちなのだろう。
「私ね、間違ったんです」彼女の声は澄んでいて耳に心地よく響いた。
「間違った?」と、悟志は反復した。
「ええ、間違ったんです」彼女の声にあった明るさが少し減少したように感じたが、それは気のせいかもしれない。
「それで……」と言いかけた悟志の口を人差し指で押さえ、彼女が微笑んだ。
「それ以上は聞かないで下さい」と彼女は言う。「私はもう駄目なんです。だから」
「だから?」と悟志が言うと彼女は頷いた。
「ええ、ここに来たんです」
「そうですか」と悟志は言い、そして黙った。彼女は前を向き直り、また一点を見つめる。その彼女の視線の先に何が映っているのか、悟志は気になったようだが、彼には何も見えないのだ。
「すぐに案内されないかもしれませんよ」
「どういうことですか?」
「僕はここに一年近くいます」
「そうですか」
 その声に呆れた感じはなかった。彼女は誰かが隣にいれば、安心するタイプの人かもしれない。
「僕は光を失いましたが、あなたは?」
「そっか、見えないんですね」と彼女は言った。ここは自らを傷つけた者が集まる部屋。躊躇ったためにすぐに行く事ができない者の部屋。
「見えないほうがいいですよ」と彼女は続けてそう言った。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!