粗末な暮らし六話 上

 大通りには、水の中を歩くような重い足取りの人が何人もいる。
「あの人たちは何であんな歩き方なのですか?」
 僕は助手席に座っている佐吉さんにそう尋ねた。運転手は、さっきの場所にいた同じ顔の男のうちの一人だ。
「鎮痛剤の過剰摂取だ。こっちの世界でも、あの手のクスリの力を借りなければ生きて行けない人間がいる」
「こっちの世界?」
「あぁ。尾田君は記憶喪失だったな。俺とお前さんは、あっちの世界で出会っているんだよ。桃花とは小学生の頃に会っているらしいがね」
「はぁ……」
 頭を打ってそれほど時間が経っていないからなのか、佐吉さんの言っている事が全く理解できない。僕は深く考える事を止めて、窓に目を移し、ツタがびっしりとからみついたビルを視界に捉える。そのビルの前には仏像が置いてあった。
「ドレーに会いにいくぞ」
 車は白いビルの近くで停まり、佐吉さんはシートベルトを外しながら、僕に顔を半分見せて急かすようにそう言った。咄嗟の事だったが、僕は「誰ですか?」と言葉をこぼす。
「尾田君」
「はい」
「手帳は持っているね?」
「えっ?」
 佐吉さんは質問に答えずに、僕の右胸に指を指してそう尋ねた。僕は地面に立って車の扉を閉めた後、胸ポケットに手を当ててみる。確かに手帳らしき物が入っていた。
「よし。行こうか」
 僕はドレ―が誰なのかという事と、手帳に何が書いてあるか気になったが、佐吉さんは何も確認することなく階段を昇り始めた。
「エレベーターを使わないのですか?」
「なんだ。エレベーターという言葉は覚えているのか。ここのエレベーターは壊れている」空気をひっかいたような掠れた佐吉さんの声は、説明を省略している印象。僕は質問をやめるべきかと悩んだが、他に話す事がない。
「そのドレ―と言うのは誰ですか?」
「お前さんは一度会っているんだよ。ついさっきだ」
 階段の途中で佐吉さんは振り向くことなくそう言った。僕は少し考えてみたが、全く思い当たる節がない。
「最上階に行けばわかるかもな」
 三階まで来たところで、佐吉さんはそう言って階段を駆け上がる。四階の踊り場に来た時、上から誰かが降りてくる音がした。そしてその誰かが、僕らの姿を見ると立ち止まり「おい」と声をかけた。
「イリエダか? そして、そっちはさっきの腑抜け野郎だな」
 男は目を細めて、不愉快そうな表情を浮かべた。当然の事だが、彼の顔を僕は知らない。「エイコンだな」
 佐吉さんは男の名前を知っているようだ。
「こんな所に何の用だ?」
 エイコンと呼ばれた男は、僕を睨みながらそう訊ねる。「葬送の言葉をドレ―に聞かせに来たんだ」佐吉さんは淡々とそう答える。
「記憶喪失だと?」
 エイコンはその言葉を聞き、さらに不快そうな顔になったが「ふん!  まあいい。手帳は持っているな?」と僕に問いかけてきた。僕は「持っていますけど……」と答えると、エイコンは「見せろ」と命令口調でそう言った。僕は言われるままに、上着のポケットから手帳を取り出し、エイコンに差しだそうとする。
「尾田君。ここではやめたほうがいい」
 佐吉さんの言葉を聞いても、僕はいまいちピンと来なかった。エイコンは「まぁいい。じゃあ行くぞ」と言って階段を昇っていく。
 最上階の踊り場には鉄の扉があった。エイコンはドアノブを回し、扉を開ける。そこは広い空間になっており、大きな水槽がある。その水槽の中には、多数の魚とマンボウが泳いでおり、水槽の上の方を見上げると人が浮いていた。
「ドレー」
 佐吉さんがそう問いかけると、その人は水槽から出てきた。ドレーと呼ばれた男性は身長が高く、頑丈そうな肉体の持ち主だ。三十歳前後の黒人で、体格とは対照的に知的な雰囲気を醸し出している。僕は裸の彼を不躾なまでにじろじろ見つめながら、うっかりと「初めまして」と言った。よくよく考えれば、記憶をなくす前に僕はドレ―に会っているのだから「初めまして」はおかしい。それでもドレ―はニコリと微笑み、「こちらこそ」と答えた。
「葬送の言葉を聞きたいか?」
 佐吉さんは落ち着いた口調でドレ―にそう言うと、彼は軽く頷いた。僕はその会話の意味がわからず、横目で佐吉さんを見るが、彼は何も言わなかった。佐吉さんは僕の肩をポンと叩き、ドレーに背中を向けた。そして、後ろ手に手を組んでその場から離れていく。僕が佐吉さんの行動を理解できずに困惑して突っ立っていると、ドレーは僕の方へゆっくりと歩いてくる。僕は何をされるのかと思い、身構えたが、特に変わった事はされなかった。彼は右手を差し出し、握手を求めてきたのだ。僕はそれに応じて彼の手を握り返す。彼の手の感触は冷たくまるで死者のように思えた。彼が握る力を少し強めると同時に、僕は自分の身体に異変を感じる。僕の脳裏に、映像が浮かんできた。
 

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!