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笑労士の猫屋敷さん

 寝られない夜に浮かべるような、佐藤の険しい眉の角度は「帰りたい」と訴えているようだった。俺は鏡を誰かに持って来させて、彼の顔を反射させてやりたい気分になった。ここは施設内の宴会場で、佐藤の歓迎会が始まろうとしている。
「盛ぉり上がってぇぃますかぁ!?」特殊な言葉を胸の中で整える事ができず、俺はわざと顔に生気を漲らせて大声でそう言った。この後の地獄を容易に予測はできたが、無音が怖くて大声を出すという悪手を選んだ。「まだ始まっとらへんやろうが!」と、首筋に花柄のタトゥーを入れている坂本が、無表情で野次を入れる。俺は破れかぶれになって「盛ぉってぇまぁぁぁすか!?」と頭を前後に振って、勢いのまま同じ言葉を喚き「おかぁりぃぃぃたぁまぁせぇええぇええん!」と意味のわからない奇声を発した。そして、新入りの佐藤に『ブルー・シャトウ』と心の中であだ名を命名した。
「うっさいねん!」坂本は立ち上がると、俺の襟首を掴んで引き寄せた。感情表現ができるようになったとはいえ、彼も笑う事はできない。ここは彼等のように、笑う事ができなくなった人達の為の更生館で、俺は笑労士の資格を持った笑務官だ。
 そんな騒ぎを待っていたかのように、背の高い吉田がどこからともなく巨大な花瓶を持って来て、俺の背後にそっと立ち「どうぞ」と俺の耳元で囁く。花瓶の中には、濃い赤色をしたバラが何本も生けてあった。
「あ、ありがとう」俺はぎこちない笑みを浮かべて薔薇を一本取り、礼を言う。
「いえいえ」吉田はそう言うと、花瓶を俺の背中に押し付ける。身体がぐらつき、俺は吉田の顔色を伺うような視線を送ると、彼は露骨に嫌な顔をした。そして、仏頂面で口を開く。
「新入りの歓迎会ですよ。頑張ってください」それだけ言うと吉田は俺の耳元から顔を離し、床に花瓶を投げつけた。大きな音がしたが、新入りの佐藤はもちろんだが、坂本も吉田も無表情だ。俺はこの仕事を続けるのが不安になってきた。
「かんぱい」予期せぬ吉田の掛け声に合わせて、宴会は始まった。出席者は俺を含めて坂本、吉田、佐藤の四人だけ。俺はグラスに入った赤ワインを思い切り飲み干し、次はボトルのままワインを胃に収めていく。
「ヨネッサンス!」とボトルを飲み干してから燃えるように叫びあげると「意味わからんわ!」と坂本が至極まともな事を言う。確かに「ヨネッサンス」は意味がわからない。俺はどうでもよくなって、円卓の上にあったソーセージを素手でつかんでむしゃぶりつく。そして、咀嚼しながら、正面に座っている佐藤を睨めつけた。
「なんだ、佐藤!  お前、あんまり食ってないじゃないか!」
「腹減ってないんで」と長髪の佐藤は冷たく言うと、大皿からポテトサラダを取り分けて、俺は素手でそれを無理矢理彼の口に運ぶ。
「好き嫌いはよくないぞ!」俺はソーセージの脂にまみれた手で佐藤を指さしたが、坂本に頭を叩かれた。
「ガキとちゃうんやから、自分で食うやろうが!」
「いいぞぉ、いいぞぉ」吉田は無表情でグラスを傾けて、俺達を茶化したが、俺はそれには構わず、目の前の円卓から肉料理を片っ端から取って、佐藤の口に運んでやった。
「そんなに食ったら太るんで」という抗議の声が聞こえたが、俺はお構いなしだ。彼の目は笑っていないどころか、俺を殺しかねないくらいの狂気を孕んでいるようにも見えた。「おい、ブルー・シャトウ。何か挨拶しろよ!」と俺は俺しかわからないあだ名で佐藤に声をかける。「誰がブルー・シャトウですか」と、彼は白けた声で言った。
「お前だよ!  その仏頂面がブルー・シャトウ!」俺は嬉々として叫んだが、坂本に頭を叩かれる。
「お前は宇宙人か!  意味がわからへんわ!」と、坂本が再び的確な事を言ったので、俺は彼を指差して「こいつが悪いんじゃ!」と言った。すると吉田が無表情で立ち上がって「いいぞぉ!」と叫ぶ。
「ええ加減にせぇ」と坂本が頭ごなしに言うので「お前もええ加減にせぇや」と、俺も負けじと応酬した。
 そんなやり取りをしばらく見守っているだけだった佐藤は急に立ち上がり、俺を睨みつける。
「猫屋敷さんでしたっけ?」
「え?  あ、はい……」名前を呼ばれた事に驚いて、俺は思わず敬語になる。
「やっぱ、帰ってもいいですか?」佐藤が真顔で言ったので、誰もが呆気にとられた。
「お、お前……舐めてるな!? ここを出る事はできんぞ」
「いや、マジで」佐藤はそう言うと、俺を無視して扉まで歩いて行き、ドアノブに手をかける。
「ちょ、待てよ」と言ったのは吉田だった。「いきなり帰るとか、なくなくない?」と無表情のまま続けて言った。
「いや、帰りますよ」佐藤は言うと、少しだけ口角を上げたが、それは笑顔というより嘲りの類いに見えた。
「おい!  マジで帰るのか! 女の子ももうすぐ来るんだぞ」と俺が怒鳴ると、佐藤はドアノブから手を離して振り返り、俺を睨みつける。その目は常人の目ではないように感じたので俺は少し怯んだ。
「何人?」と予想に反して佐藤が食いついてきた。「何人ですか?」「え、いや……四人くらいかな」
「やっぱ、帰ります」佐藤は無表情のまま再び断言すると、再びドアノブに手をかけた。
「ちょ、ちょっと待て! やっぱ五人!」俺は佐藤の肩を掴んで呼び止めようとしたが、彼は乱暴に俺の手を振りほどく。
「よし、わかった! さらに五人! 全部で十人じゃ!」
「じゃ、残ります」佐藤はそう言うと、振り向いて椅子に座り直した。
「なんなんだよ!  お前!」俺は悪態をついたが、彼は何も答えずに「肉ください」と言って坂本に皿を突き出し、吉田に酒を注いでもらっている。佐藤が女好きだという事がわかり、歓迎会は続く事となった。俺は壁に取り付けられた電話で、コンパニオンがいつ来るのか本部に問い合わす。九人は呼ぶ事ができるが、足りない一人については、小柄な職員に女装させて寄越すという返答があった。
「お待たせしました」ノックがあってから、先頭の女の子が挨拶をする。俺はどの子が女装した職員なのかに興味があって、嬉々として見ていたが、一番最後に入って来た女の子は金髪で、化粧も濃くて太っていた。
「お前だな」と俺が呟くと、小太りの金髪は首を傾げて満面の笑みを浮かべる。
「こっち、こっち」と佐藤が呼びつけたのはその金髪で、手招きされるままに佐藤の隣に座った。コンパニオン達は適当に座り、俺は一息つけると安心した。
「なんていう名前?」佐藤が、金髪に向かって言った。「私はみぃこです」小太りの金髪はそう言うなり、右手を頭の横まで上げてピースサインをする。
「どんな字?  ひらがなで?」佐藤が尋ねると、みぃこは「ローマ字」とだけ言った。
「ふざけんな! ボケ!」坂本が声を荒げると、みぃこは「こわぁい」と泣き真似をして、吉田の腕に絡みつく。
「そういうのいいんで」佐藤が無表情で坂本に言うと、みぃこは口を尖らせてすねた振りをして、紙片を見せる。そこにはローマ字でMikoと書かれていて、隣の席にいた坂本が覗き込んで「それやったら『みぃこ』やなくて『みこ』じゃボケ!」と怒鳴っていた。
 歓迎会は続き、吉田がどこからかステッキを持ってきて、佐藤の為に手品をすると言い出す。吉田がステッキを振ると、みぃこのスカートの中からカエルが出てきた。女の子の何人かが「キャー」といって騒ぎ出す。当のみぃこは佐藤に「いやだぁ」と言いながら擦り寄っていたが、佐藤は無表情のままでカエルをつまみ上げると、自分の前にあった皿にカエルを乗せた。そして吉田が「ちちんぷいぷい」とベタな呪文を口にすると、皿の上からカエルが消えた。吉田は笑う事ができないが、優しい性格の持ち主だ。
「魔法使いなの?」とみぃこが聞くと、吉田は「その心は」と、なぞかけでもないのにそう問いかける。
「え?」
「その心は?」
「なに?」
「その心は?」と、吉田は繰り返し、しびれを切らした坂本が「はよ、答えろボケ!」と怒鳴り散らす。坂本は怒りの表現はできるのだが、他の感情表現がまだできないでいる。まだ時間がかかると俺は思った。
「みぃこ、わかんない」
「お前もう帰れ!」坂本がそう言うと、女の子達は笑っていたが、坂本も吉田も佐藤も笑えないままでいた。俺はこれからこの三人を笑えるようにしなければならないのだ。

つづくかどうかはわかりません。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!