天ヶ瀬の子守唄          :超えられない壁

いちとせ(一歳)
にとせ(二歳)
ちとせと(千歳と)
ときつむぎ(時紡ぎ)

ぼんはぞんぜぬ(坊は存ぜぬ)
はなふぶき(花吹雪)

あまがせのはる(天ヶ瀬の春)
もうまぢか(もう間近)

はよこんか(はよ来んか)
はよこんか(はよ来んか)

ぼんにも(坊にも)
ひつぜん(必然)
おとずれて(訪れて)

いつのまにやら(いつの間にやら)
はなはちる(花は散る)

独特な節で口ずさんでいた。輪郭からはみ出ないように、神経質に色鉛筆を塗りたくった塗り絵みたいに、音程を取っていた。
その唄を口ずさんでいたのは、ケンイチだった。
私はリエコである前に、ケンイチの母だった。本当の名前は霞んでいる。あの子は春を迎えることなく死んだのだった。
その子守唄は、一回目の私が、あの子にここで歌っていた唄だった。

過去からつながっている時間の感覚は、まっすぐではない。脱ぎ捨てた浴衣の帯のように、ぐしゃぐしゃになっている。それを巻き取るように、思い出すこともあるだろうし、帯の一ヶ所を見て、霞んだ部分だけに注目する事もあるだろう。あの子が子守唄を憶えていた。本当の名前と、その唄が霞んでいた部分だ。唄だけを思い出した。

「思い出した?俺に歌ってくれた唄だよ。俺は前から気がついていたけどね」

ケンイチは、自信を誇示するような笑みを浮かべながらそう言った。私があの子を抱いていられたのは、僅かな時間だった。なのにどうしてケンイチはこんな村に執着するのだろう。

「もういいよ。殺さないでいいよ。もう十分なんだ。今は満足しているんだ。見えるだろ?」

心を見透かしているのに、私の問いに答えてくれなかった。私は、そんな事を気にしていないような表情を浮かべ、頭を傾けて空を見上げたのだった。

「花吹雪」

私はつい口にした。
ここには桜の木が何本もあった。遠くの街からこの村に、わざわざ花見に来る人が大勢いた。満開の時期よりも、散る頃の方がその数は多かったと思う。

つづく



一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!