粗末な暮らし五話 上

 外に出ると、停まっている黒い車があった。助手席にはネズ婆さんが座っている。
「遅かったじゃないか」
 僕と目が合うと、ネズ婆さんは窓を開けた。目じりに皴を作って笑っている顔は、怒っているようには見えない。運転席からマテオが降りてきて、僕に「大丈夫そ?」と言いながら、後部座席に乗るように促す。僕はどうしていいのかわからなくなった。発熱した時のように、正常な判断ができない。
「どうだい? 吸うかね?」
 マテオに従って、僕は車に乗り込んだ。彼は本当のマテオではないかもしれないが、車から降りてきた男はマテオの顔をしている。
 車内に入ると、ネズ婆さんは僕に煙草をすすめてきた。僕は煙草を持っていないので、車内で一本貰う。味は嫌いじゃないが、煙の量が多くて咽た。
「ドレ―から色々と教えてもらったかい?」バックミラー越しにネズ婆さんと僕は目が合った。しわだらけの顔、黒目がちの小さな瞳。ドレ―達とネズ婆さんの関係がよくわからないので、僕は返答に困る。
「僕を追っていたのではないのですか?」
「質問に質問で返すんじゃないよ」
 ネズ婆さんは、今度は少し苛立った様子で言った。そして「あんたはここのルールを知らなすぎる。だから私はルールを教えなきゃならないんだ」と続けた。
 マテオの顔をした男がハンドルを握り、しばらく走るとアクアタワーが見えなくなった。どこに向かっているのか気になったが、僕は黙ったまま窓を見る。慶仁邨の町並みから、車窓は一気に海岸になった。
「慶仁邨は、あんたがいたところとは別の世界だよ」
 そう言いながら、ネズ婆さんは煙草を灰皿に押し付けた。
「別の世界?」
「あぁ。並行世界ってところさね。聞いてないか?」
「並行世界……?」 僕はまたわけがわからなくなる。しかし、考える間もなく次の目的地に着いたらしい。そこは白い塀に囲まれた大きな建物だった。門の脇には「クアオルト」と書いてある。
「ここで、あんたの身体を調べてもらうんだよ」
「僕の身体を?」
「そうだよ。このままじゃいけないと思ってねぇ」
 門をくぐると、広大な庭があり、その奥に大きな建物が見えた。建物は三階建てくらいの高さがある。敷地の中にはプールや芝生や、花壇があって公園のような場所もあった。僕はそこで車を降りた。すると、どこからともなく、黒いスーツを着た男が現れた。その顔もマテオだった。
「大丈夫そ?」マテオの顔をした男が丁寧に頭を下げて言う。
「マテオ。こいつの面倒を見てあげな。それから、今日は私もここに泊まる」
 マテオと呼ばれた男は、黙ったまま再び一礼して、僕とネズ婆さんの後ろについて歩き出した。マテオという男はたくさんいるのだろうか。運転席にいる別の男を見て、僕はどうでもよくなった。
「こちらです」マテオの顔の男が建物のドアを開ける。広々として天井が高く、豪華なソファーが綺麗に並べられていて、ホテルのロビーに似ていた。そこには、マテオの顔をした何人もの人間が、与えられた役割をこなすように行き来している。
「桃花もここにいるよ」
 何か意味ありげな、甘い眼つきでネズ婆さんは僕にそう言った。僕は一瞬ドキッとした。その動揺を隠すために、僕は無表情を装って「そうですか……」と言った。
「まぁ座りなさいな」
 そう言ってネズ婆さんはソファに腰かけた。僕は向かい側の椅子に座ったが、すぐにマテオがコーヒーを持って現れた。マテオはテーブルの上にカップを置きながら、「大丈夫そ?」と言った。
 僕は「大丈夫です」と言って、目の前に置かれたカップを手に取った。「あの、ここはホテルですか?」
「いいや。クアオルトは研究所だよ」
「研究所?」
「あぁ。あんたがこれからどうなるのか、調べる所さ」
「それはどういう事でしょうか?」
「そのままの意味さ。あんたのこれからを、ここで決めるのさ」
「僕は何をすればいいのですか?」何から聞けばいいのかわからなくて、漠然と聞いたという感じの問いかけ。それでネズ婆さんが困る事はなかった。
「何もしなくて良い。ただ、ここでゆっくりすれば良いのさ」
 僕は黙り、ネズ婆さんの顔を見た。
「入江田中佐はここにはいないのですか?」
「どうしてだい?」
「いえ。中佐の手帳に書いてあった葬送の言葉を読んでから、僕はおかしな状況に巻き込まれている」
「佐吉もここに来るだろうよ。あんたは自分で考える事に慣れるべきだ。これは試練なんだ」
「試練?」
 それからネズ婆さんは何も言わなかった。しばらく沈黙が続き、僕の視界に、部屋の中を行き交う一人のマテオの顔が入った。マテオは無表情のまま、黙々と仕事をしていた。僕と目が合うと、小さくお辞儀をする。
「あんたは、自分の運命を考えた事があるかい?」
 ネズ婆さんは急にそんな事を言ってきた。
「え?」
「この世界に生まれて、死ぬまでの道のりを考えてみた事はあるかい?」
「いえ。考えた事もありません」
「あんたは、今、その道を歩いている最中なんだよ」
「道?」
「そう。今まであんたは、ずっと決められた道を歩いてきたんだ」
「僕が?」
「あぁ。でも、あんたはもうすぐ曲がり角を曲がらなきゃならない」
 ネズ婆さんはそう言いながら、両手を広げて、どこか楽しそうな顔をした。その時ロビーにベルが鳴り響いた。
「何があったのですか?」
「まぁ見ててごらん」
 人生を道に喩える話に僕は何の興味も関心もわかなかった。それよりも、止まらないベルの音が気になる。僕は立ち上がって、ドアの方に向かう。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!