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粗末な暮らし5

 「もういい」マテオはそう言い終わると同時に席を立った。
「おい。待ってくれ」入江田は慌てて立ち上がり、マテオを追いかけた。
「どうしたんだよ」マテオは振り向くと、入江田を見て言った。
「全てを疑ったほうがいい」
 闇のなかの吐息のように、マテオの姿はふっつり断ち切れてしまった。入江田は、なんでもない「何処」という概念に微かな戦慄を感じた。絶望的な順序で消えてゆく自分自身をなぜだか想像し、言い知れぬ恐怖を覚えた。
 マテオがいた背景に山があった。方角が北なのだと入江田は悟った。

粗末な暮らし4

 入江田は、クアオルトの窓ガラスに目をやった。平面的な虚像にボコボコした山肌が映っていた。
「佐吉」
 入江田は昨日の記憶を辿った。それは奇妙な遠近感のような気がした。実体のない時間が圧縮されていると言いかえる事もできる。ここが「何処」なのかわからなくなる感覚と同じだった。
「佐吉」
 アンバーの声が、入江田の名前を二度呼んだ。彼女が移動する音を入江田は聞き逃さないようにしたが、振り向くと彼女はすぐそばに立っていた。
「神足通だよ。マテオ・クティもできるよ」
 アンバーは入江田を見上げて微笑んだ。
「なんのこと?」
「なんでもいいや」アンバーはそう言うと、入江田の背中を押しながら歩きだした。
「どこに行くんだ?」
「海」
「海って……。ここは山奥じゃないか」
「でも、行けるの」アンバーは、子供が親の手をひっぱるように入江田の手を力強く握った。彼は、咄嗟にその感触を確かめるように握り返したが、それは一瞬のことだった。次の瞬間には、入江田達は海にいた。砂浜があり、波が打ち寄せている。入江田は、自分が夢の中にいるような気分になった。
「さっきの話だけど、私は何者でもないの」アンバーはそう言って、彼の手をほどいた。入江田の耳元で、潮を含んでいる風がしきりに鳴っていた。アンバーから離れた入江田の手には、粘つく感触が残っていた。
「ただの人間だよ」
 入江田は、怪訝な顔をアンバーに向けた。彼女を羨む事も、憎む事もなかった。ましてや、アンバーを抱きたいとも思わなかった。
「一体、どうやってここに来たの?」
「なんでもいいじゃない」
「全く意味がわからない。マテオが言っていた、トランスヒューマニズムの拡張の結果がこれなのか?」
「うーん。そうだね」
「君は、何をしたいんだ?」
「何も」アンバーはそう言うと、入江田の身体に抱きついた。
「やめてくれ」入江田は、アンバーを引き離した。
「そう」
 断れたアンバーだったが、淡々とした口調でそう言った。そして再び入江田の手を取って山間のクアオルトに戻った。
「佐吉は自分がなぜここに居るのかという事に興味を持つべきだよ」
 アンバーの言葉を聞きながら、入江田は先程マテオが消えた場所に立った。アンバーは、入江田の後ろからマテオのいた風景を見ていた。
「話は変わるけれど、マテオ・クティとはずいぶん前からの知り合いみたいだね」
「そうだ。同じ歩兵分隊に所属していた。飛行機に乗る前のことだよ」入江田は再びアンバーの顔を見た。まだ少女のあどけなさが残っていると彼は思った。なにか後ろ髪をひかれるような感覚が、彼の下腹部を支配した。
「ところで、マテオと君の関係はなんだ? マテオは何も教えてくれなかった 」
「私達の関係?」アンバーはそう言うと、入江田の顔を見て「何でもない。このクアオルトの患者同士だよ」と答えた。
「僕が知っているクアオルトは隔離病棟だ。その中で、マルテが君を尾行するというのはおかしくないか?」
「ふふ。佐吉は純粋なのね」隠すことのない冷笑を唇に含ませて、アンバーは確信した顔つきをした。
「佐吉。君は元の生活に戻れないよ」
「どういう事? 」
「君はもうクアオルトの住人だよ」
「だから、どういう事? 感染症さえ治れば、僕の体は何処も悪くない」入江田は、自分の肉体に目を向けた。
「悪いよ」
「どこが悪いっていうんだ?」
「頭だね。いや。心といった方がいいか。素質は群を抜いているけど、疑う事を憶えないと」
「僕はどうなるんだよ」
「私達の仲間になる」
「それって……」
「私達は、人類を超越した存在だよ。佐吉は、それを知らなくちゃいけない」
「一体どういう事なんだ?」
「それは自分で調べればいいことだよ。双児宮計画を忘れてね」アンバーは、入江田の耳許で囁くように言った。そして、続けて言った。
「二ホン人って真面目なんだね。それとも承認欲求が強いのかな?」
「別にどう思ってもらってもかまわない」
「自分がどう思うかより、人から見て幸せな生活を欲しがっているのかもね」
「どうしてそんなことを気にするんだ?」
「別に。でも、人は自分勝手だよ。幸せになりたいのなら、他人を蹴落とせばいい。それができないから、人に認められようと努力をするんだよね」
「よくわからないな」
「わかんなくていいよ。それより、お腹空いたでしょ。ご飯を食べようよ」
 アンバーはそう言うと、入江田の腕を引っ張って食堂に向かった。彼は何一つ解決していない疑問を抱えたまま、抗う事をしなかった。入江田の思索は、自分の意志を偽ってわざと逃げる選択をしていた。その偽りは、滑らかさを失って凝固していく可能性があった。
「ほら。行こうよ」

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