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作為的であること

 隣で座っていた母は、息を閉じ、質問に答えられずに黙っている私の方に首を曲げ、顔の中心に皺を集めた。そうかと思うと、気のない笑みを顔に浮かべ、私に「答えなさい」と小声で言ってきたのを憶えている。
「おどれます」
 幼い頃の私は自分の顔が冷たくなるのを感じ、母の顔を見てから面接官の顔を見た。今なので、落ち着いて振り返る事ができるが、意図的な違反行為をするみたいで、私は嘘をつく事が怖かったのかもしれない。これは、もう二十年も前に、私が小学校を受験した時の話だ。
 私は、踊りを習った事はなかったのに「踊れない」と言えば怒られると思ったので、そう言ってしまった。面接官達は、私を見透かしているのか笑っていた。彼等の誰も「ここで踊ってください」とは言わなかったが、その代わりに、私に「歌ってください」と言ってきた。
 面接官の内、二人が立ち上がり、私に、目の前の長机の上に立つように言った。もう一人の面接官は椅子を後ろに引いて、座りながら私を見ていて、その表情は堅くて何を考えているか分からなかった。私は長机に立つと「何を歌えばいいですか?」と立ち上がっている面接官に尋ねた。二人は互いに顔を見合わせていると、座った面接官が「なんでもいいです」と答えた。
 その部屋は窓のない部屋で、外の光は入ってこなかった記憶がある。尤も、その日は空が曇っていて、小雨がずっと降っていたので、窓があっても明るくはならなかっただろう。また、部屋は電灯がないのか、照明は幾つかの蝋燭だった。緊張か、恥ずかしさからなのか、私の身体から何かが剥がれていく感覚があった。室内の闇の固まりが私の目の前まで迫っているようで、長机に立った私は、スカートを握りしめて、しばらく固まっていた。そして、少しばかり顔を傾けて、助けを求めようと母の顔をみると、彼女は作り笑いを面接官に向けていた。しかしながら、目は私を鋭く睨みつけていて「早く歌え」感がジワジワと伝わってきた。私は「なんでもいい」と言われたので、「なんでもいいなら」と、ある歌を歌うことにした。
 その歌は、当時見ていたアニメのオープニング曲で、歌詞もメロディーも良く憶えていた。その歌を私はア・カペラで歌いながら、机を降りて三人の面接官の周りを歩いた。そして、歌い終わると彼等は拍手をしてくれた。その後で、座っていた面接官は「ありがとうございました。では、お座り下さい」と言い、私を座らせ、同時に立っていた二人の面接官も椅子に座ったと思う。
 その後の面接も、ねじれに似た感覚を、私にもたらした。絞られる雑巾のように、私は変な汗をかいて大人達の期待に応えようとした。
「それでは、これを見て質問に答えてください」と言うと、部屋のテレビの電源をつけると、画面には髪を綺麗に七三分けにした黒縁メガネの男が「むにゃむにゃむにゃむにゃ」と不思議な風合いを帯びている言葉でしゃべっていた。それは、何らかの総合された騒音のようで、一つ一つバラバラのようでありながら、なにか規則で互いに溶け合う調和を生み出していた。私が知っている言葉とは異なる抑揚を持っていたが、不思議と何を聞かれているのか私にはわかった。
「少し、雨が、降って、いました」と私が答えると、母を含めた大人たちが「ほぉ」と感心していた。
「もっと、歌って、ください」と映像の男が言った気がして、私は再び机の上に立ち、先程歌ったアニメのエンディング曲を歌った。面接は終わり、私は母と一緒に部屋を出た。母は、私の歌が良かったのか悪かったのかはわからないが「よくやったね」と言って、私の頭を撫でた。そして、私達はその建物から出て行った。
「その小学校の受験に合格したか?」と聞かれると、答えは「合格した」である。その小学校は、その地域の中ではもっとも優れた子供が集まる学校だと言われていた。母もそこの小学校を卒業しており、なにがなんでも私をその小学校に通わせたかったようだ。合格発表の時、彼女は「おぉ」と叫び、私を抱きしめて「おめでとう。良かった。本当に良かった」と何度も繰り返した。
 そして二十年が経ち、今度は私の娘がこの小学校を受験する事になった。そのつもりがある事を母に報告すると、彼女は「そう。そうだね。そのほうがいい。がんばってね」と言い、彼女は私と娘の両方を抱きしめた。
「あの小学校の受験に何が必要かわかるかい?」と母は私に聞いてきた。
「歌かな?」
「いいや。違う。面接官は母親を見ているんだよ」と母は言う。
「じゃあ、どうすればいいの?」私は母に尋ねた。
「これはね、母親の気持ち一つで決まることなんだよ」と。
「どういうこと?」
「娘を信じること」と母は言う。
「それだけ?」私は聞いた。すると、彼女は頷いた。「それだけ」と母は言い「踊れなくてもいいし、歌を歌わなくても、訳のわからないビデオを見せられて、何もできなくていい。ただ、質問に何か答えればいいだけ。あなたはそれを促すだけなのよ」と言ったのだ。
「それって、どういう事?」
「どうでもいいじゃないか。私もあなたのおばあちゃんにそう言われただけなのよ」
 母親は作り笑いをしていた。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!