粗末な暮らし四話 下

 ドレ―は声を張り上げてそう言うと、両手で膝を叩きながら立ち上がった。彼はエイコンと津留崎の顔を順番に見る。二人は無言のまま首を縦に振った。僕は誕生日の話をしただけだ。それが一体何を意味するのか、皆目見当がつかない。身長が高い割に、小さな目をしているドレ―は、じろりと僕を見やりながら「君は選ばれたんだ」と再び言った。この言葉によって僕の虚栄心がくすぐられる事などない。むしろ腹立たしく感じるぐらいで、どういう態度で返事をしてやろうかと思った。
「なんだ? 不服か?」
 エイコンが口を開いた後、僕は奴の顔面に拳を叩き込んだ。「おい!」と叫びながら、エイコンは起き上がろうとしたが、僕はその上に馬乗りになって殴ろうとする。津留崎が慌てて止めに入った。
「尾田君。落ち着け」ドレ―がそう言い終わると同時に、僕の頬に衝撃が走った。一瞬の出来事だったが、僕はドレーに殴られたのだとわかった。津留崎に羽交い絞めにされながらも、僕は抵抗をやめようとしない。津留崎を振りほどこうとして、僕は暴れる。「離せ」僕は必死にもがいた。
「尾田君。頼む」ドレ―はそう言った後、ゆっくりと近づいてきて、僕の胸ぐらを掴んだ。僕は力一杯もがいたが、その手は振り払えない。ドレ―の眼光は鋭く、冷静だった。
「私に葬送の言葉を唱えて欲しい」
「それってつまり……」
「あぁ。私は死にたいのだ。もうすぐ百歳だ。わかるか? 体は若くても、年は取っている。どうやら私は物理的に死ねなくなっているようだ」
 戦場でも、戦争が終わってからも幸福を感じる余裕など僕にはない。帰ってきてからというもの、毎日のように恐怖を忘れないでいた。戦場から帰って来た兵士が、自殺をする理由が僕には理解できる。恐怖からの解放は死だという事なのだ。しかしながら、死にたいと言っている目の前の人間の命を、僕が終わらせる事は嫌だ。それが不確定な呪文を唱えるという事でも。
「この通りだ」ドレ―はそう言い、僕の胸ぐらから手を離し、頭を下げた後、おずおずと床の上に座った。どうやら土下座のつもりらしい。
「いやです」
僕ははっきりと言った。
「葬送の言葉を唱えるということは、あなたを殺すということですよね?  僕は何も得しない」
 損や得という事を基準にして、何かをするしないを決めるのは僕は好きではない。しかしながら、ドレ―が言っている事は一方的で、滅茶苦茶だ。誕生日の事も意味がわからないし「世界を救う」と言いながらも、結局は自分のことばかり。「葬送の言葉」が本物かどうかはわからないが、手帳を開く事も馬鹿らしい。
「大の男が頭下げてんだ。唱えてやれよ」エイコンが再び軽い口を叩く。ドレ―が言うように年を取る事が辛いのなら、エイコンや津留崎も死にたいのではないだろうか? そういった事もよくわからない。
「尾田。このアクアタワーを出ると、お前はネズ婆さんのところの者に捕まるぞ。ドレ―の頼みごとを聞かないのなら、ここを出て行ってもらう」津留崎がそう言った。それが僕にとっての損だという事なのだろう。僕は黙り込んでしまった。虎人間の事を思い出したが、僕は何も後ろめたい事をしていない。追われる理由がない。考えれば考える程、よくわからなかった。僕はしばらく黙った後、ドレ―に向かってこう言った。
「わかりました。ここを出て行きます」僕はそう言い、立ち上がって出口に向かった。
「待て!  なぜ出て行く?」ドレ―は慌てふためいた様子で立ち上がり、僕を引き留めようとした。
「なぜって……。だって、あなた方に従う必要なんて僕にはない。 僕はただ巻き込まれただけで、何も知らないし、興味もない。だからここから出て行こうと思います」
「しかし……」ドレ―は困惑した顔つきになり、言葉を失っているようだった。僕はその隙をついて、「さようなら」と言って部屋から出て行った。津留崎が慌てて追ってきたが、構わず水槽の間を僕は歩いて行く。エレベーターホールに着くまでに津留崎に声をかけられた。
「マンボウが三億個の卵を産卵する話は知っているか?」
「はぁ?」こぼした液体のシミが広がる時のように、僕の心はイライラで一杯になる。唐突な質問や展開はうんざりだ。そんな空気を無視して津留崎は僕の後ろで話を続ける。
「ここにもマンボウがいるだろ? 卵を三億個も産むなんて話は、半分は嘘だ」
 僕は黙ったままエレベーターホールに着いて、ボタンを押す。津留崎は引き続き勝手に話をする。
「だが半分は本当だ。マンボウの繁殖や産卵についての知見はほとんどない。しかし、仮に三億個卵を産んだとして、その三億の全てが無事に成魚になったらどうなるだろうな?」
 エレベーターは中々こない。それで僕は、不覚にも大きな水槽に目を向けてしまった。背鰭と臀鰭を左右にふって泳ぐマンボウが、僕を見ているような気がした。
「そしてその三億匹が、それぞれ同じように何億もの卵を産むとしたら、海はマンボウだらけになるよな?」
「何が言いたいんですか?  ここに残ってくれとか言わないでくださいよ?」僕は津留崎の頭にしみこむまで、繰り返して言って聞かせようと思った。
「いや。もういい。出て行けばいい。世界には淘汰が必要だとわかれば、お前はここに戻ってくる」取ってつけたような整った髪は、人工的な雰囲気だった。津留崎は自分の頭を触り、不用意に微笑した。
 エレベーターの扉が開く。僕は何かを聞かねばならないと思ったが、何も思いつかず、黙って乗り込む。津留崎は再び口を開くことなく、扉は閉まった。
 僕は何処にも行く当てがない。そう思うと急に不安になってくる。僕はこれからどうしたら良いのか。そもそも僕はどうしてこんな所にいるのだろうか。「葬送の言葉を唱えて欲しい」と言った時の、ドレ―の顔が浮かぶ。この選択は間違いだったのだろうか。そんな事を思いながら、僕はアクアタワーを出た。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!