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粗末な暮らし17

「普段は吸わないんだね」
「あぁ。ネタがない」
 頭の中にある音律を、入江田は調整しようと試みる。アンバーは皮肉な横目でありながら、それでも優しい眼を彼に投げかけた。二人は、水の中を歩くような重い足取りで慶仁邨に向かっている。入江田の脳内で、低い調子の伴音が震動した。同時に、網膜の奥がポッと熱くなった。 

粗末な暮らし16

 二人の視界の先には、物々しい鉄張りの扉があった。白い塀が続いていて先が見えない。空は澄み渡っており、その塀が半透明に光っていた。
「この門は?」
 入江田は、充血して真っ赤になった目をアンバーの方に向ける。彼のむき出しの腕には、太い血管が浮き上がっていた。
「これが慶仁邨通りの入り口」
「通りに門などあるのか?」
「この辺り一帯を封鎖してるの」
「こんなところに何の用がある?」
 入江田はさりげなく尋ねてみたが、語尾が不自然に上ずった。アンバーは憐憫な微笑を浮かべながら「殺しを頼みたいのだよ」と彼にささやく。
「はぁ?」
「兵士だったから訳ないでしょ?」
 アンバーは、笑いに似た息を口のすみに漏らす。その息は皮肉な吐息とは違い、邪悪な要素を含んでいた。
「俺に何のメリットがある?」
 入江田は、何の疑問も持っていない口調だった。それに対してアンバーはおどけた態度で「うそだよ」と笑ってみせた。
「佐吉はマジメだね」
「馬鹿にしているのか?」
 アンバーは、今度は入江田の耳元で「バラキに会いにいって」と囁き、彼の背中を押して門の前に誘導した。入江田は「バラキってあのバラキか?」と尋ねるも、彼女は無言で生体認証のため、門扉に手をかざしている。
「ほら」
 アンバーは醒めた眼になり、ここで別れるという空気を発した。消え入るような、さびしい雰囲気がして、入江田は妙に心細くなった。狷介ではないと自分に言い聞かせるような、言い訳がましさが彼の心の底にある。
 アンバーはジョイントに再び火をつけて、薄青い燻煙を鼻から吐き出した。一瞬だが煙に光の筋があたる。
「慶仁邨は知っているのでしょ? じゃあね」
 それだけを言うと、アンバーは明るい光の中の遠い一点に吸い込まれていった。入江田は心細さを悟られたくないように、その一点が消失する前に門をくぐりぬける。慶仁邨は廃墟が立ち並んだ街ではなかった。コンクリートの建物に人の息遣いが含まれているのを、入江田は感じとったのだ。その息遣いの狡猾なリズムが、彼の肌に静かに染み込んでくる。 
 
 

 

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!