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船の上

 塩気を含んだ冷たい空気が甲板に漂っていた。繰り返す波の体積は途方なく、重い水の抵抗を受けながら傷病兵を乗せた船は陸地を離れていく。船は軍艦でも貨物船でもなく、客船で、水は張っていないが屋外プールまである。空を見上げれば、雪を含んだ鈍色の雲が夕日の影をすっかり隠し、さびしい光を海原に与えていた。華美な外装の客船とは対照的に、これから湧き上がる夕闇が、その船が作り出す白い波を淀ませ、物悲しさを演出している。
 まんじりともせず、切ったばかりの髪の毛を濡らしながら地代所春松は、かわるがわる現われる波の峰と谷を甲板から海を見つめていた。空気の冷たさに、しびれるような頭痛を感じたのか、彼は今しがた出てきたばかりの扉に戻り始める。その途中に、どう潜んで来たとも知れない、いやなさびしさを含んだ風が吹いた。こめかみがじんじんと痛み出したのか、春松は肩をこわばらせ、両手を揉み合わせる。そして、右手で自分の左手首を掴み、彼は手首に巻いてある、銀の鎖のブレスレットの感触を確かめた。張り詰めていた緊張を緩めたとしても、誰も咎める者はいない。しかしながら、春松の心境は晴れやかではないのだろう。恐縮するように体を小さくして、彼は船内へ入る。
 船内に充満している香料の香り、廊下まで響くピアノトリオの響き、天井の物憂いぐらい眩いシャンデリアの光。絨毯が敷かれ、天蓋がついている寝台のある個室。どれをとっても、一介の兵士が乗るには華やか過ぎる。上白んで藍とも紺ともつかなかった軍服の代わりに、背広、シャツ、ネクタイ、下着、革靴を春松は着せられていた。それだけでなく、個室のクローゼットに他の衣類も入っていた。春松の身体の寸法をいつ測ったのか、或いはどう調べたのか知らないが、特注で誂えたかのようである。
 廊下に面している個室の扉が突然開き、出てきたのは春松と同じ背広を着た背の高い男で、彼の手首にも銀の鎖が巻かれていた。「失礼」と言った男の表情は柔らかで優しく、穏やかな顔立ちをしている。春松もそれに応じて詫びて脇によけると、男は無言でうなずき、会釈した。そのさり気ない仕草に嫌味はなかった。男が静かに扉を閉める物腰柔らかな仕草は、船内の装飾と調和し、清潔で品の良い印象を与える。並の兵士とは到底思えぬ、優雅で洗練された身ごなしだった。春松は、悲惨さからは程遠い、その彼の後ろ姿を見送った。
 春松はぼんやりした顔をして、先ほど出て行ったばかりの自室に戻ると、背広を脱いで放り投げる。シャツも脱ぎ捨て、彼は鏡の前に立ち、暗く険しい表情で自分の肉体を凝視した。
「なんなんだ」と春松はつぶやいていた。彼の声は壁に跳ね返り、それを耳にした者は誰もいない。「ここは一体何なんだ?」答えるものがなくても彼は自問を続ける。「一体俺は何者なんだ」と春松は言ってから、壁に拳をあてた。春松の体は失われた。体だけではない。頭も損傷した筈だった。
 革靴の響きが扉を通して聞こえてくる。不規則な足音、どこか不安定な歩き方だ。足音は春松の前で止まった。扉をノックする音に続いて「失礼します」と男の声がする。春松が扉を半分開けると、髪を短く刈り込んでいる男が立っていた。
「なんだ?」と上半身を裸のままにした春松が先に口を開いた。
「はい」と男はうなずいた。彼は女のようなきめ細かな肌をしており、軍人には見えなかった。
「だから、何の用だ?」と春松は言って、わざと不愛想な顔をする。
「あのう。乗務員の田中です」と男は部屋の天井や壁を見回した。
「はぁ?」と春松はつぶやき、彼を見る。
「そろそろお伝えしなくてはいけないと思いましてね」
「何を?」
「ええ。地代所様は戸惑われているかと思いまして」と彼はうつむき気味になり、目をつぶった。しばらくじっとしていたが目を開けると、自ら田中と名乗った男の表情は一変している。何か決意したような真剣なまなざしで春松を見つめた。そのひたむきな眼差しに、春松は思わずたじろぎそうになる。
「自殺をされる方も中にはいますので」と田中は言った。
「へえ」と春松はあくびをする真似をするが、彼の心臓は一瞬のうちに鼓動が強まったようで、身体に力が入ったことは隠せなかった。田中は続けた。
「私ども乗務員は細心の注意を払い、不審な点があれば対処するようにと命じられているのです」
「で、どうしろと?」
「ええ。今回の大戦ではご苦労をされた事でしょう。それなのに、こんな船に乗っている事に違和感を抱いているかもしれませんね」と言い、彼は背広の内ポケットから手帳を取り出し、ページをめくりながら続ける。「地代所様は三十八旅団に所属されておりましたね。編成地は果杏か」と田中は言い「さて」と改めて春松を見つめると言った。
「記憶が疎らでしょう?」男は春松を見つめている。具体的な事を男が何も語らないので、春松はため息を吐き出すように口を開いた。
「一体何が言いたい?」
「私どもはお客様のお手伝いをするために雇われています」彼は背広の内ポケットに手を入れ、手帳を元に戻す。
「そうですね。回りくどい言い方をしてすみません。説明をしましょう」と男は言い、話を続けた。
「ヨー七三一部隊についてです。通称岩倉部隊とも呼ばれている部隊の事から話しましょうか」
「岩倉部隊?」春松はぼんやりとつぶやく。
「ええ、そうです」と男はうなずきながら、少し首を傾げた。
「マッカサルのヨーに駐屯しておりました陸軍の組織です。終戦直前に解体されました」
「それがどうした?」と春松はぼんやりとした声で言う。
「ええ。地代所様の持っているだろう疑問にお答えします」決めつけた言い方で、田中は更に続ける。
「岩倉部隊は、表向きは兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究が主任務でした」
「それで」
「はい。岩倉部隊が、本当は何を研究していたかは想像できますか?」と田中は突然尋ね、春松は「さぁ」と首を横に振った。
「マッカサルに来たヨー七三一部隊は人体実験を行っていました」
「はぁ」と春松は気の無い返事をする。もしかすると、状況がよくわかっていないのかもしれない。そんな彼の様子を気にせず、田中は事務的に言葉を続けた。
「再生医療の実験の為に、捕らえたマッカサル人を使ったのです。彼らの肉体を欠損させ、そこから肉芽を成長させ、もとの肉体に近づけるという方法です。脳の損傷部分まで回復させる技術も完成させたのです」
 春松は茫然として「もしかして……」と言ったきり、次に出てくる言葉を失ったようだ。田中はじっと春松を見つめ話し続ける。
「ええ。地代所様が驚きになるのも無理はありません」
「岩倉部隊は、極秘裏に実験を行っていました」春松の様子を尻目に、田中は再び言葉を選んでいるかのようだが、再び決めつけた言い方をする。
「ご想像通りかと思いますが、地代所様も施術を受けております」
「俺の記憶があやふやなのが、その実験をした結果だと?」と春松は聞いた。
「ええ。ただ、実験とは違うようで、治療と呼んだ方が正確かと。それで、何かお困り事はないですか?」と田中は言うが、言葉の意図がつかめずに、春松は不機嫌そうな顔を作り「いや。どうも何か……」とつぶやいた。
「なにか?」と田中は言って、春松の方を見つめる。口元を歪めた彼の表情に浮かんでいたのは人間性にこびり付いた汚れのようだ。
「地代所様は、華休国に戻って、会いたい人がいるのですよね?」
「は?」と春松は驚き、声を上げた。
「いるのではないのですか?」
「なんのことだ」と彼は慌てて言ったが、田中は気にするでもなく続ける。
「その人に会うために生きたいのではないですか?」春松は何も答えなかった。その沈黙は、彼が肯定したわけではなく、相手に対して警戒を抱いたからなのだろう。
「いいのですよ。それで。地代所様は選ばれたのですから」春松は何もしゃべらなかった。ただじっと閉めかけた扉をみつめているだけだ。
「ほら、体が元に戻っているではありませんか」田中は春松の左頬を指差し、得意気な顔でそう主張する。榴弾砲が塹壕に命中し、近くにいた春松は雪の中に倒れこんだ。爆弾の破片が彼に当たり、それが左頬の上顎と下顎の間を貫通していた。上の歯と歯茎のほぼ全てと、左半身の一部を失い、脳も損傷し、春松の意識はそこで失くなっていたのだ。
「これは、どういう事だ?」
「そうですね。再生治療を施しても、皆さんが治るわけではないのです。また、脳を再生しても混乱して自殺する人もいるのです。ただ、地代所様の回復力は素晴らしいものです。脳の損傷から回復したのは地代所様だけらしいですよ」
「あんたは医者か?  それとも科学者か?」胸の動悸を隠すように、極めて冷静な態度で春松は詰問をするが、田中はそれを上回る落ちつきぶりで「医者ではありませんよ。乗務員です」と答える。それが彼の気に障ったのか、春松はため息を吐き出すように声を出した。
「それで?」と彼は田中に向かって言うが、田中は表情ひとつ変えず「わかりませんか?」と答えただけだった。
「わからない」と春松は言ってから大きく息を吸い込んで思い当たったように「それと、これは何だ?」とブレスレットを田中の目の前に突き出す。
「それで地代所様の精神や健康状態をモニターしてますよ」
「モニター?」
「ええ。目覚めた後は不安定ですからね。それで健康を測定してます。あぁそうだ。部屋にカメラはないですよ。ご安心下さい」
「よくわからない。俺はどれだけの間、寝ていた?」
「ほんの三日ですよ」皮を被った脅威のような田中の態度が春松を苛立たせているようであるが、彼は少しずつ会話に依存している。
「あんたらの目的は何だ?」
「さぁ。私は乗務員ですからね。そこまではわかりませんよ。ただ、お客様のお手伝いをするようにと雇われています」
「誰に?」
「まぁまぁ、落ち着いて下さいよ。順を追ってわかりますから。そうだ。もうすぐ夕食ですので、リストランテに案内します。そう。ドレスアップしてくださいね」
「何のためにネクタイなんか?」
「慣例的な事です。腹が減ってはなんとやらですからね。何か質問があればどうぞ」田中は歯を剥き出してニタニタと笑って、黙っている春松を見つめ「なんでもないのなら結構ですが」と言い、腕時計を眺めた。春松はわざと不機嫌そうな顔を作り「なんなんだ」と言葉を漏らしたが、田中はそれを無視した。
「では、もうじき別の者がお迎えにきます。私は他に仕事がありますので」田中はそう言うと扉に向かい「失礼します」と言って部屋から出て行った。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!