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セオと運転手

 助手席にセオがいるだけで、気分が重くなるという事を俺は忘れていた。

「何か言いましたか?」

「いや」

 俺が短く返事をすると、彼女は「ふんッ」と鼻息を鳴らしたような気がした。泥でお気に入りのシャツを汚されたような気分に俺がなるのは、彼女の性格が悪いという事ではない。彼女が同行するという状況が問題なのだ。とはいえ、こんな状況でなくとも、セオと俺は冗談を言い合えるような間柄ではないのは本当の事だ。

 誰しもが綺麗に死なない。死に方に美しさを求めるわけではないが、綺麗な死に方というのは、死んだ事に気がついて、きちんと往く事を、俺達はそう呼ぶ。またそうではなく、素直に往かない人の事を、綺麗に死ねないとも呼ぶのだ。

「今回は事故で亡くなった女性です」

「歳は?」

「39歳です。小学生の娘さんがいますね。娘さんも同じ車に同乗していました」

「亡くなったのは、そのお母さんだけか?」

「そうです。64歳の彼女の父親が運転する車に、母娘が乗っていましたが、亡くなったのは彼女だけです」

 父親の運転ミスだと言う。何らかのミスで、車の左側が、分岐点のガードレールに衝突して、助手席に乗っていた女性が亡くなったそうだ。それだけの情報を俺達は与えられている。聞くだけで俺は暗澹とした気持ちになった。命というのは、うたかたの泡のようには儚くない。儚いと言う人もいるだろうが、人の事情というのは案外複雑なものだ。わかっていても、死んだことに気がつかないフリをする事だってある。

「それで彼女は今どこにいる?」

「家に戻っています」

 俺は、単なる運転手だ。それ以上でもそれ以下でもない。乗りたくない人間を乗せる事を俺は進んでしない。死んだ事に気がつかない人間や、気がついていないフリをしている人間を説得するのは、基本的に各支部の配車担当者の役目だ。(といっても、車を運転するのは俺達運転手だが)セオが助手席に座っているのはそういう事だ。

「ところでタガさんは、誰かを待っているのですか?」

 俺がセオの事を苦手にしているのは、こいつが時折俺の事を詮索してくるからだ。俺は自分の事を話すつもりなどない。運転手は運転をするだけ。俺は返事をするかわりに、すいている道でわざとアクセルを踏んだ。

「そうですか」

 セオは諦めて横を向いた。彼女がそんな事を聞く心理を、俺はわからない訳ではない。しかしながら、俺は誰にも話したくないのだ。たとえ同じ境遇の人間であっても、わかり合いたいと思わない。

「それで、どうやって母親を説得するつもりだ?」

「このままだと、彷徨い続ける魂になると脅しをかけます」

「脅しか。怖い事を言うね」

 俺はそう言ったものの、最終的にはそうするしか他に方法はない。説得しろと言われたら、俺も最後にはそうするだろう。
彷徨う選択をした魂は、記憶と時間を奪われる。残されるのは感情だけだ。恨みがある人間は恨み続け、悲しむ人間は悲しみ続ける。それ以外の感情は残らない。それらを苦しみとも呼ぶ。生きている人間には無視をされ、自分の存在が虚無だと思いこんで、対象のない恨みと悲嘆に暮れるだけの魂になってしまう。

「ここだろ?俺も一緒に行ってやろうか?」

 言われた場所に着いた。どうせセオは断ると思って、俺は軽い冗談のつもりで言ったのだった。

「お願いします」

 意外な返事だった。いつも勝ち気なセオにしては珍しい。俺は自分の不謹慎をこっそり反省した。

 死んだ彼女を除いて、家には彼女の夫しかいない。見るのも辛い光景だ。汚れた食器がたまっていた。ここにいない小学生の娘さんは、一命を取りとめたものの、まだ入院しているそうだ。意識はあるが、退院した後も車椅子で生活しなければならないようだ。肝心の死んだ女性は、一人で食事をしている夫の前に座っている。

「ミサワ・ミヨリさんですね。お迎えに参りました」

 生きている旦那を無視して、セオが彼女にそう言った。その手段は間違いではないが、実務的な響きのする言い方は、無意識に反発したくなる嫌な感じがした。現にミヨリさんは聞こえていないフリをしている。

「私の声が聞こえていますよね。それでいて、あなたの声が、ご主人に届かない事も理解している。受け入れがたいかもしれませんが、あなたは死にました。ここに残る事はできません」

 俺は嘘を言う事が嫌いな性格だ。それに、本当の事を言って怖がらせるのも嫌いなのだ。けれども、セオはさらりと嘘をついた。ミヨリさんはここに残る事もできる。残る選択をして欲しくないのは俺達の事情でもあるのだ。

「主人やミカを置いて逝ける訳がありません。それに、私が死んでしまっては、お父さんは残りの人生、後悔し続けるでしょう。運転していた父は自分を責めています。私は絶対に死ぬわけにはいきません」

 人にもよるが、長くて2か月ぐらいは生きている時と同じ記憶が残る。四十九日とはよく言ったものだ。その期間は、時間の感覚も生きている時と同じ。それで、残された家族や友人たちをずっと見守れると錯覚する。
 しかし、その時間が過ぎると、自分が誰だかわからなくなる。生きている人間には理解も、想像もできない感覚に陥る。それは、常に高層ビルから落ち続けるような感覚だ。俺達は落ちるという事に原初的な恐怖を感じる。それが永遠とも呼べる時間続くのだから、俺達は彷徨う事を勧めない。また、そうなっては、俺達は何もできない。死んでから1週間経った魂は、いつ、そういう状態になるかわからない。何に対してかわからない恨みや、悲しみに囚われる。そうならないように、俺達運転手は早い段階で迎えに行くのだ。

「お気持ちはお察しします。しかしながら、ミサワさん。あなたは死にました。お葬式も終わったのです。笑顔で見送られる事はなかったですが、あなたはここに残れないのです」

 人は正論や本音だけで動かない。言葉にできない感情で動くと俺は思っている。

「私は死んでいません。ここにいます。ここにいないといけないのです」

 ミヨリさんは、セオの方を見て言っていなかった。旦那さんの方でもない。その視線の向け方に俺は違和感を抱いたので、今度は俺がミヨリさんに質問をする事にした。

「ミサワさん。何か理由がありますよね?私達に出来る事は、お客さんを目的地にお連れする事ですが、お話を聞く事も出来ます。『墓場まで持っていくつもりだった秘密までお聞かせ下さい』とは言いません。ただ、何かお困りでしたら、仰って下さい。もしかしたら、力になれるかもしれません」

 隣で聞いていたセオが、俺に何か言いたそうな軽い咳をした。確かに、力になるのは俺ではない。セオの仕事だ。だが、俺がそう言った事で、ミヨリさんの視線は俺の方に向いた。

「ミカが、ミカがあまりにも可哀想で。あの子はまだ一人で病院にいます。意識があるとはいえ、私が死んだ事を知らないのです。あの子がお別れするのはこれが初めてではありません」

「と言いますと?」

 俺はセオを一瞥したが、セオは何も知らないという顔をした。

「私には娘がもう一人いたのです」

「いたという事は、つまり......」

「そうです。ミカの姉、ミユは5歳で亡くなりました。あれは......私の……私のせいなのです」

 ミヨリさんは、自身の境遇への感傷を堪えきれずに泣き崩れた。

「何があったのですか?」

 いつもの俺なら、お客さんに干渉しないが、ミヨリさんを放っておくわけにはいかない。

「私が……私が……あの子の手を……」

 言葉にできないなと俺は思った。俺達は生きている人間と違って、個人の過去について詳しく知る事ができない。予め情報を知っていれば、スムーズに対応できるのだが、それは嘆いても仕方のない事だ。

「大丈夫ですよ。無理に話さなくても構いません。私達は、ミサワさんをお迎えにきましたが、無理矢理、現世と呼ばれるこの世界から引き離すような手荒な真似をする訳ではございません」

 そう言ったものの、俺は着地点を用意して、話している訳ではなかった。どうすればいいかわからずに、ただ話している自分がもどかしかった。突然死ぬという事は、混乱がつきものだ。俺達は待つことも必要なのかもしれない。
 セオはというと、しおらしく黙っていた。彼女の方がこういう経験が豊富なのに、ただジッとミヨリさんを見つめている。

「わかっています。私は死んだのです。わかっているのですが、ミカも主人も、お父さんも不憫で仕方ないのです。ミユは道路に飛び出したところを車にはねられました。私が、あの時、もう5年前ですね。あの子の手をしっかり握っていれば、あの子は死ななかった。そればかりではありません。私さえ気を付けていれば、あの車を運転していたお嬢さんにも辛い思いをさせる事はなかった。だから、今回、私が死んだら、父はずっと後悔するでしょう。私はわかっているのです。なによりミカにどう伝えたらいいのでしょう。主人は、私の父は、あの子にどう伝えるのでしょうか」

「では、ミカさんの元に行きましょう。ご存じの通り、ミサワさんはどこにでも行ける訳でないのです。私達が車で病院までお連れいたします」

 セオが口をはさんだ。優しそうな言葉にも聞こえた。
 死んだ魂はある意味では自由だが、生きている時と同じように簡単に歩く事ができない。自分の意志が足に伝わりにくいのだ。風船のように誰かに糸を引っ張ってもらうか、自分が住んでいた場所に戻るしかできない。病院に行くことは、無理な事でも、規則違反でもないが、行ったところで、娘さんに何かをできるわけではない。それに、一度車に乗った魂はもう現世と呼ばれる世界に留まる事はないのだ。
 セオらしい発想だと俺は思った。俺はセオを責めはしないが、ミヨリさんを騙すような事にしたくなかった。

「ミサワさん。あなたは、残された人達の事を心配する優しい方です。何も知らない私が口を挟む余地はありません。ただ、死んだ人間が、生きている人間の目の前に現れる事はないのです。あなたがお別れを言う事で、伝わるわけではありませんが、せめて幼いミカさんの枕もとで『さよなら』を言ってあげてください」

 再びミヨリさんは泣き崩れた。彼女も察しているのだと俺は思った。少々、卑怯な手段かもしれないが、ミヨリさんを家の外に連れ出す事にした。
 旦那さんは、ダイニングテーブルに座って、真っ黒なテレビを見つめながら、ゆっくりとまだ食事をしていた。これからの事を考えているのか、無気力に陥っているのかわからない。ミヨリさんの手を握っていたセオが、一度その手を離した。

「少しの間、私達は外に出ます。5分ほどでもどります」

 セオにしては優しい気づかいだと思った。俺も黙って外に出る事にした。

「タガさん。ありがとうございました」

 外に出てから、セオが恭しく頭を下げてきた。俺は正直なところ、戸惑った。

「お前らしくないな。何かあったのか?」

「いえ。深い意味はありません。ただ、タガさんは何故運転手であり続けるのかという事が気になっているだけです」

 俺達は似たような境遇で、こうして死んだ人をあの世と呼ばれる目的地に案内している。今の俺達では、そこに行くことが許されていない場所に、俺達は魂を送り届け続けている。
 俺は単なる運転手だ。それ以上でもそれ以下でもない。
 セオもまた、同じような境遇だ。

「病院には寄っていくぞ。お客さんを騙すわけにはいかないからな」

「わかっています。後の手続きは私がやります」

 お別れを言える事は幸せなことだと思う。
 それが相手に届かなくても、それは幸せな事なのだと俺は思う。


おわり

 
 

 


一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!