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みれいの事情 運転手シリーズ

 肌寒さが忍び寄る空に、満月がこうこうと顔を出している。風はないのにやたらと冷え込んで、一つの季節が終わったと、俺は心の中で言葉を紡ぐ。車の側に立って、なんとなく空を眺めながら、煙草を片手に無用な事を考えていた。あるいは月にまつわる思い出とともに、自己嫌悪に陥るのを、俺は楽しんでいるのかもしれない。現在進行形の出来事になぞるような事をしながらも、自分の置かれている環境が他人事のように感じられて仕方がなかった。境遇を嘆いている訳ではないが、いつまでこんな事をするのかという事が、逃避したくなるきっかけの一つなのだろう。

 配車係に、今日の客は若い女だと下衆な笑顔とともに告げられた。彼の真意に下卑た連想をして、強がった冗談を言った俺も似たようなもの。具体性のない淡い期待を抱いた。

 この仕事を初めて一年半。その間、俺が乗せたのは年配の男女ばかり。平均寿命を鑑みれば、それは当然の事で、これからもこの仕事をするのなら、そういう客層がメインなのだろう。ちなみに若い女と聞いて、思い浮かんだのは「早すぎる」という同情ではなく、興味だ。

「すみません」

 予想していた方角の裏側から声が掛かって、商業施設の駐車場で俺は振り返る。若い女の声にしては、やや低めの響きだった。若い女が時間を守らないのは、死んでからも同じだなと馴れ者のような事を心の中で呟く。

 彼女は細身のジーンズとスニーカー、黒色のスウェットを着ており、小さなバッグを持っていた。まるで日常生活の一つのように死を迎えた自然体だった。

「あぁ。どうぞ。車、乗って下さい」俺の言葉で、彼女は助手席のドアを開き乗り込もうとする。「えっ?」と俺は焦った声を隠すことなく口にした。「あの……。後ろ」俺は、彼女へ声を掛けた。

「はい?」俺の慌てた声色に、彼女は不思議そうに首を傾げる。その仕草が可愛らしくて、こんな状況だと言うのにドキッとした自分が恨めしい。

「いや。まぁこんなクルマですが、タクシーみたいなものでね。普通は後ろに乗るもので」白いセダンの右側で、俺は苦笑いを浮かべながら説明した。

「あぁ……」彼女は俺の言いたい事がわかったように少し恥ずかしそうに頷いたが、そのまま助手席へ乗り込んだ。どうでもよくなった俺も車に乗り込んで、エンジンをかけると「よろしくお願いします」と彼女はお辞儀をした。俺は小さく頷いてハンドブレーキを解除する。サイドミラーへ視線を向けたが、生きている人間は鏡に写り込んでいなかった。

「じゃ、走りますよ」彼女がシートベルトをしたのを確認してから、俺はアクセルを踏む。そしてハンドルを切って路地を左折した。俺は、バックミラーに自分が映らないことが滑稽だったと感じながら、なんとなく溜息を漏らした。

 彼女の年齢は未成年にも見えるが、実際にはわからない。彼女の大きな目は、近寄りがたい雰囲気を帯びていた。色白な肌は化粧をしておらず、素顔のままで美人の部類に属する。自分で自分の事をキツイと表現するような女かもしれないと、俺はふと思った。

「俺は平沢です」

「えっ?」

「いや。名前。初対面の人には名乗る性分でね。別に強要はしませんよ。名乗りたくなければね」

「みれい」彼女は、やや遠慮がちに言った。

「ん。あぁ」名前を褒めるようなお世辞を口にできる程、俺は器用ではない。彼女はそんな俺を見透かしたのか、クスッと笑った。「みれいです。私は」

「あ、あぁ……。みれいね」俺は、彼女の名前を繰り返し、自分の中で馴染ませようとした。

「平沢さんは……」彼女はそこで言葉を切って俺を見る。俺は彼女へ視線を送ったがすぐに前を向く。

「平沢さん?」俺の言葉を待っていたように、彼女はもう一度言った。少し強い口調だったのは気のせいだろうか。

「え。あぁ……なに?」

「平沢さんは死んだ人?」彼女が疑問を口にした時、車は信号で停車した。その時に初めて彼女の表情を見る事ができたのだが、俺が想像していたよりも優しい顔をしていた事に驚いた。そして少し寂しそうにもみえる。

「生きてはいないね」

「私、本当に死んだのですか?」

「まぁね。大した事なかっただろ?」真っすぐを向いたまま、俺は悠揚とした微笑を作り、唇をムズムズ動かしてそう言った。ある種の自虐にも聞こえただろうが、彼女は「本当にそうですね」と軽く笑いながら答えた。

「死んだのに実感がなくて……これって普通ですか?」

「そうだな。でも、そのうち嫌でもわかるから」赤信号と月が並んでいる事に俺は気がついた。今日はやたらと月が目につく。信号が変わると、俺は車を左折させて、山道に入る。街を見下ろす展望台のある山だ。

「そういうモノですか?」死んだ自覚がないという事は、俺みたいな者でもそうだった。

「まぁね」少し冷たい口調で返事をしながら「どこに向かっているのですか?」という質問を、俺は聞かれる前から考えている。

「平沢さんは、おいくつですか?」予想と違う質問が返ってきた事に、俺は少し拍子抜けしたが、何事もなかったかのように「もう四十を過ぎてるよ」と答えた。

「え?  本当に?」彼女は、横を向いて俺の顔をまじまじと見た。俺は彼女の視線と合わないように、視線を前に向けたまま頷く。

「見えないですね」彼女は感心した様子で言った。そして「三十代前半かと思ってました」と続ける。彼女の言葉に違和感があったものの、俺は何も答えなかった。

「ここ、鳥見塚に行く道でしょ? どこに行くのですか? 天国?」

「違う」

「じゃあ地獄?」彼女は、躊躇いがちに言う。

「それも違う」俺は苦笑いを浮かべて答えた。

「じゃぁ……」

 どこへ連れて行くの?  と彼女の言葉の続きが聞こえてくるようで、遮るように「死んだ事を理解できないまま、うろつき回られるのも面倒でね」と俺は言った。

「面倒?」

「あぁ。死んだ自覚がない状態だと、そのまま過ごすだろ?」

 彼女は少し困惑した表情を浮かべた。俺は何も言わずに煙草に火を点ける。彼女もそれに合わせるかのようにバッグから煙草を取り出したので、俺は「吸うんだ」と言った。

「吸います。おかしいですか?」

「別におかしくはないさ」

「ですよね」彼女は煙草を咥えたまま何かを考えるように窓の外へ視線を移す。横目にみた彼女の長い黒髪は、サラサラと音を発しそうだ。化粧をしている訳ではないのに、唇の血色がいいのは若さ故。そして大きな目は、くっきりとした二重で、長い睫毛が唯に似ている。

「平沢さんは、どんな風に死んだのですか?」

「言いにくいね」そう答えながら、俺は煙草を灰皿へ押し付けた。

「病気とか事故とかじゃないの?」

「違うね。自殺だよ」

「えっ?  自殺?」彼女は、俺の答えが意外だったのか、大きな声を出して驚く。気まずい事を聞いた後に訪れる沈黙を避けて「あぁ。そうだよ」と俺はすぐに答えた。それから再びハンドルから右手を離し、胸ポケットから煙草を取り出して火を付けた。一吸いしてから窓を少し開ける。入り込んでくる風が少し冷たいのを感じながら、俺は煙を吐いた。

「ごめんなさい」

「なにが?」

「いや。なんか、その……」

「いいよ、別に」俺がそう言った時、彼女が少し震えたように見えた。

「もしかして寒い?」

「冷たい風」彼女はクスッと笑う。俺は右手に見える夜景に視線を向け、無意識に「あのあたりか」と探すふりをした。街の灯りは、夜空の星とは対照的な存在で煌びやかだ。この街では、星や月を愛でる人間は少数派だった気がする。

「ねぇ、平沢さん」彼女は俺を見ながら言った。

「え?」それから俺は「なに?」と尋ねた。

「せっかくだから、夜景を見ませんか?」

「せっかく?」

「うん。それぐらいいいでしょ?」彼女は悪戯っぽい笑顔を浮かべて言った。

「夜景ね」俺は苦笑いを浮かべながら「まぁ、それぐらいなら」と頷いた。そして鳥見塚という看板を右に曲がり、車を駐車場で停車させる。「これでいいか?」俺は彼女に尋ねた。

 彼女はシートベルトを外しながら、小さく頷いて答える。シートベルトを外した後も、左手で頬杖をつき、外を見続けていた。俺も彼女越しに外を見る。街が一望できるとあって、鳥見塚は、そこそこ名の通った夜景スポットだと思い出した。俺は「行くか?」と彼女に尋ねると「うん」と彼女が頷いたので、ドアを開けて車外へ降りた。

 空気が随分と冷たくなったなと思いながら、再び煙草を取り出し火を付けた。彼女は俺の動作を目で追った後で、同じように煙草をバッグから取り出して火を点ける。

「ねぇ。平沢さん」彼女は、煙草を吹かしながら言った。

「なに?」俺は煙を吐いてから返事をした。

「どうして自殺したの?」

 気まずい雰囲気をあえて作る彼女に、俺は少し驚いたが、顔には出さなかったと思う。俺が死んだ理由は単純ではあるが、他人には理解できないだろう。

「さぁ、なんでだろうな」

 答えたくない質問をされた時によく使う台詞。そして相手の反応を窺う。彼女は俺の顔を見るでもなく、視線を夜景に向けたままだったが、彼女は「私も死にたいと思った事あるよ」と腕をまくった。

「それは本当に死ぬためにした訳じゃないだろ?」彼女の二の腕の内側に白い傷が何本かあった。俺はそういう事をした事がなかったが、自傷行為というのは、生きている実感を得る為や、自分にかまって欲しくてする行動だと聞いたことがある。

「うん。でも、死にたいと思ったのは事実」彼女は煙草の煙を吐きながら言う。

「まぁ、色々あるわな」始めから感じていた。みれいの顔は唯に似ている。深く聞くと、壊れてしまいそうな気がした。

「そうだね」彼女は、俺の方へ顔を向けて微笑んだ。

「あぁ」街の明かりが低く見える。夜景を見たいと言ったわりには、彼女はそれを楽しんでいるようには見えなかった。

「あの……平沢さん」煙草を口に咥えたまま彼女が言った。

「なに?」

「もうしばらくここにていい?」俺はそんな気はなかったのだが、何故か「いいよ」と答えた自分がいた。彼女は俺の言葉を聞いて「ありがとう」と言って頷いた。そして「寒いね」と続ける。

「そうだな」彼女は、煙草の火を消してから傷を撫でるように袖の上から両腕を擦った。手持ち無沙汰になった俺は自動販売機で缶コーヒーを買う。

「なんか飲む?」

 街灯に照らされた自動販売機のアクリル板に、生きている人間が何人か映っていて、展望台の広場には子供の姿もあった。月が綺麗な夜に、それを愛でる人がこの街にもいるのだと、俺は始めて目の当たりにしたと思う。

「うん。ミルクティー」彼女が言ったあと、振り返らずに俺は自動販売機のボタンを押す。

「はい」

「ありがとう。そうだ。月が綺麗ですね」みれいが口にする。俺は彼女が意図的に言った言葉なのか、単に言っただけだかと考えあぐねいだが「そうだな」とだけ俺は言った。「月が綺麗ですね」は「愛しています」という意味があるらしく、ずっと前に俺は唯に言った事があった。

「ねぇ。意味は知っている?」ミルクティーを啜り、俺を見上げるように彼女は尋ねた。

「あぁ。でも初対面の人間に言う事じゃないだろ?」

「なんだ。知っているんだ」

「俺も昔言った事があるから」

「へぇ。平沢さんって、そんな事を言うんだね」

「もういいか? 行かなきゃならないよ」

「そうなの?」甘ったるい、何となく耳に残る、みれいの抑揚が、ありもしない俺の記憶を呼び覚ます。本当は嬉しいのに困った顔を俺はしてみた。

「なぁ。何で死んだんだ?」

「それ。何でだと思う?」

「知らないから聞いているんだ」

「殺された」

「はぁ?」

 今まで殺された人を車に乗せた事はなかった。殺されたというのがどういう事なのか、俺の想像が追いつかない。

「色々あるわな」みれいが、俺の口調を真似て言う。馬鹿にされたような気にもなったが、それで俺は腹を立てる事はしない。

「車に戻ろう」

「聞かないの?」

「聞かれたいのか?」

「聞きたいから聞いたのでしょ?」無用なやり取りだ。こんな事が昔にもあった気がする。唯に「子供がいる」と聞かされた時も、俺は詳しく聞かなかった。その時も「色々あるわな」なんて事を俺は言ったのだろう。相手の気持ちが見えそうになったら、その中へ深く入り込めない。だから俺は信頼されなかったのかもしれない。

「なら話せばいい」目の前の若い女が、自分とは違う生き物に見えてきて、俺はどうでもよくなってきた。俺は運転手で、目的地に客を送り届けるだけ。個人の事情などどうでもいい。

「なんか、冷たいね」そう言って彼女は俯きながら笑う。俺はそれを見下ろしながら、溜息をつきたくなるのを堪えた。彼女の今後の事はわからないが、後から俺の事を振り返った時に「あの運転手は最悪だった」なんて事を誰かと会話するのだろうか。そう考えると、俺は良い印象を残したいとふと思うのだった。

「送るよ」俺がそう言ったと同時に、彼女は下を向いて、両手でミルクティーの缶を持ちながら俺を追い越していく。俺は缶の残りを一気に飲み干して、車へと向かった。

 黙って助手席へ座った彼女は、シートベルトを右手でカチャカチャといじりながら「私を殺したのはね」と言った。

「ん」と俺は返事をする。「ん?」と聞き返す疑問形の「ん」ではなく、軽い感じで短く「ん」と言った。

 彼女は俺を見るわけでもなく、どこか遠くを見たまま話す。俺は黙って頷いた。「ただね」と彼女は続けたが、その続きはなかった。いや、言い淀んだという方が正しいのかもしれない。俺は何を言えばいいのかわからなかったので黙っていようと思った。

「ねぇ」しばらく間をあけてから、彼女は俺の方を見て「聞いてもらってもいい?」と俺に尋ねた。

「何を?」俺は聞き返したが、彼女はそれには答えずに「私の話」と言った。

「うん」俺はバツの悪い顔をして相槌を打つ。

「私ね。高校に行ってたけど中退したの」彼女はそう言うと、右手で自分の太ももを撫でたのが、レバーを動かす時に見えた。その撫で方は、嫌な過去を思い出す時の仕草かもしれない。

「へぇ」と俺は単調な返事をする。車の中は静かになったままだったが、エアコンの音が少し煩いくらいに思えた。

「それから居酒屋でバイトするようになって、車で迎えに来てくれる男ができたわけ」男という言い方が、なんとなくしっくりこない。唯も昔つき合っていた恋人の事を「前の男」と言って、子供の父親の事は「パパの男」と言っていた。じゃあ俺の事は何て言っていたのだろう。いや。唯は俺の事など誰にも言っていないだろう。

「それで?」俺は続きを催促する。

「そのうちね、その男は結婚していて、子供もいる事を知って」みれいはそこで一度溜息をつくように息を吸い込んだ。

「はぁ?」俺はそう言ってしまった。みれいは「何? 」と俺の顔を覗き込んだ。

「いや。なんか凄いな。十五、六の女が不倫相手か」俺の言葉に彼女は「そう?」と頷いただけだった。

「それで、その男は幾つだったんだ」俺は彼女の話の結末が気になった。

「三十歳半ばくらい」みれいは思い出すように答える。

「女子高生の歳からしたら、結構な年上だな」その男にとって、みれいは、単なるそういう対象だっただけだろう。

「うん。でも、その男は奥さんと子供を捨てて私と一緒になるって言ったの」

「へぇ」俺は相槌を打つ。彼女は再び右手で自分の太ももを撫でた。「でもね、その男は嘘ばっかりで。奥さんと別れないの」

「だろうな」俺はそう言った後「しまったな」と思ったが、彼女は気にしていないようだった。

「ある日、その男が車で事故を起こしたの」みれいは淡々とした口調で話す。「それで?」と俺は相槌を打った。

「飲酒運転でね、私もその車に乗っていた」

「それは大変だったな」と俺が言った後、彼女は「うん」と頷いた。

「それで、男の家族に私の事がバレたってワケ。ちょっとした事件だったよ。あ、事故は大した事なかったよ。ジソン事故ってやつ。ブレーキとアクセルを踏み間違えたって」彼女はそう言って笑った。

「酒飲んで、事故するような奴は、色々と勘違いして生きているヤツが多かったな」俺達の乗っている車は鳥見塚を離れていく。下り坂は来た道とは違い、少し細く、カーブも多い。

「そうかもしれないね」彼女は前を向いたまま話した。

「それでどうなったんだ?」

「うん」彼女は頷くだけで、続きを話す気配がなかったので「終わりか?」と尋ねると「ううん」と首を振り、そして暫く間をあけてから「平沢さんは、結婚とかしていた?」と尋ねた。

「あぁ」俺がそう言うと、彼女は「平沢さんは、フリンしたことある?」と続けて聞いてきた。

「まぁな」嘘をつけばいいのに、俺はみれいに、濁した言い方で正直に答えた。

「それって、普通の感覚なのかな」彼女はそう言うと、俺の顔を横目で見る。

「普通の感覚がわからない」俺はハンドルを切りながら答える。

「そうだよね。普通って誰が決めるんだろうね」俺は車のエンジン音と振動を感じながら運転する。助手席のみれいを見ると、彼女は前を向いていた。視線は窓の外ではないどこか遠くを見ているようで、何を考えているのかわからなかった。

 道は平坦になり、俺は速度を速める。急いでいる訳ではないが、アクセルを踏むのは癖みたいな事。

「平沢さんは、遊びでフリンしていた訳?」

「遊びって言い方はどうかと思うが、まぁ、好きだった」

「それって、奥さんと離婚する気はあったの? そういうカクゴとかしてたわけ?」彼女は俺の顔を覗き込んで尋ねる。俺はアクセルを踏む足の力を緩めた。

「いや」俺はそれだけを答えた。

「じゃあさ、フリン相手と結婚することとか考えなかった?」彼女は前を向いたまま言った。

「いや」俺も彼女の方を見ずに答える。そういえば、死んでから唯の事を冷静に考えた事はなかったと振り返った。

「もしかして、その事が原因で平沢さんって死んだの?」みれいは、そう言って俺の方を見る。

「違うよ」俺はそれだけ言った。何が原因で死んだなんて事は俺にもわからない。自分の事なのに、自分の事ではないような感じがする。

 車はトンネルに入り、前を走る車と速度を合わせる為に更に速度を緩める。みれいは気がついていないが、このトンネルは生きている人間には見えない。何処にでもある造りなので、違和感がないのだろう。

「相手の女の人って若かった?」

「俺よりも六歳若かった」

「って事は三十代かな」

「うん」

「その人は独身だった?」

「独身だが、子供はいた」

「って事は、シングルマザーってやつ?」

「いや。子供は男が育てていて、一緒には住んでいなかった。向こうは向こうで、男とも子供とも会っていた」

「なにそれ?」

「まぁ色々あるわな」

「また言った」トンネルはまだ続いている。前の白色のセダンも死人を乗せているのだろう。闇の中でオレンジ色の光が連続し、車の中が明滅しているように見える。彼女の顔が、トンネルの光と影で正体が消えそうに見えて、俺は横を向くのが何となく嫌だった。

「平沢さんってなんか、暗いよね」

「自殺した人間は、陽気じゃないよな」

「ははっ。確かにそうだね」みれいはそう言って短く笑った。

「私ね。自分が嫌いだったの」トンネルを抜けて、前の車との距離が開く。前の運転手はアクセルを少し強く踏んだのかもしれない。

「なんかね、全部が嫌だったの」みれいは助手席で、何かを思い出すようにそう言った。彼女の中で言葉が浮かんでは消えるようだったが、会話として成立しているかは怪しい。

「わかるよ」と俺は言った。俺と彼女が違うのは、俺はそれを行動に移したという事だけかもしれない。

「平沢さんは自殺したもんね」みれいの言った事に対して、俺はそれを否定しようとも思わない。かといって、笑いながら肯定しようともしない。

「私がまだ高校に行ってた時ね」みれいは前を向いたままで話し続ける。

「同級生の男とやっちゃったのね」

「はぁ?」何の話なのだろうか? みれいは言いたい事を単に言っているだけ。話に付き合うのが俺はしんどくなってきた。

「そしたら向こうは私とつき合っているつもりでいてね、毎日連絡してくるの。『おはよう』とか『今日も頑張って』とか」

「うん」

「気持ち悪いでしょ?」

「そうかな」

「何でそんな事するのって聞いたの」

「うん」

「そしたらそいつ何て言ったと思う?」

「さぁ。何て言ったんだ?」

「好きだからって」

「へぇ」トンネルを抜けてから見つけた月は、高く上がっていて、道の先を白く照らしている。俺が気のない相槌を打ってからは、車内は無言になった。

「平沢さんは、私とやりたくない?」みれいの言葉が聞こえなかったように、俺はぼんやり運転する。自分が何を見ているのか、俺は意識を定めることができなかった。

「ねぇ?」みれいが俺の肩を叩く。

「運転中だ」俺はそれだけ言うと、再び無言になった。みれいは諦めたのか、助手席のシートに深く体を沈める。

「ねぇ平沢さん?」

「うん」

「私って、魅力ないかな?」

「はぁ? いや。あるよ」

 俺は運転しながら、そう答えた。みれいは「ならいいじゃん」とつまらなそうに言うが、何か俺の答えに納得していないのはわかった。きっと彼女の求めている答えは違うのだろう。けれども俺にはそれを答える事はできなかったし、その気もなかった。

「ねぇ平沢さん」みれいは、また俺の肩を叩く。

「うん」俺は気のない相槌を繰り返す。彼女はそれを気にした様子もなく、質問する。

「何でフリンなんかしたの?」

「なんでだろうな」唯の求めていた事に、俺は何もしてやれなかったのかもしれない。彼女の二の腕にも傷があって、初めて抱いた時に、それに気がついた。唯は自分の傷を気にしていて、あとから「中学生の頃、何度か傷つけて、一度血が止まらなくなって病院に行ったこともある」と語った。「色々あるわな」と言って俺は傷を見なかった事にした。自分が駄目な人間だと気がつくのが遅すぎた。せめて、その時に優しく彼女を抱いてあげればよかった。

「私がその女の人だったら、絶対に平沢さんみたいな男と一緒にならないな」みれいは独り言のように言った。

「そうか」関係は二年も経たないうちに終わった。俺は未練を残し、唯は俺を見捨てた。

「平沢さんって、優しいよね」そう言うとみれいは笑った。その言葉が、俺の事を慰めるような意図を持っていたのか、退屈だという意味で言っているのかわからない。「そうか」と俺は答える。俺の人生は優しいものではなかったし、俺自身、優しさを持ち合わせていなかった。見せかけだけで、心からは優しくできない。俺は、唯の事が本当に好きだったのかどうかもわからなくなっている。

「ねぇ平沢さん」彼女はしつこく俺の肩をトントンと叩く。

「うん」彼女の方を向くと、みれいは俺に笑いかけた。

「唯って名前じゃなかった?」

「はぁ?」

「その人」

「何を……」

「そうでしょ?」俺の反応を見て、驚きと呆れがみれいの顔に浮かんでいる。

「私、ママに似ているんだよ」と無邪気に笑う。

「ママって……」俺はそう言って絶句したが「ねぇ?」みれいはそう言って、もう一度俺の肩を強く叩いた。俺が何か話す前に彼女は続ける。

「ママといて楽しかった?」彼女は少し間を置いてから言った。そして俺の顔を見ると「何その顔?  ウケるんだけど」と言って笑った。「いや」俺はそう言って口をつぐむ。

「好きだったんでしょ?」みれいは俺の顔を覗き込む。

「何でそんな事を聞くんだ?」俺がそう聞くと「ママって私が小さい時に家を出て行ったの」と彼女は言った。唯が子供の話をしたのは一度きり。その時に俺は詳しく聞こうとしなかった。子供と言うから、もう少し幼い子供の事だと思っていた。

「でもね、三年ぐらい前にママが急に家に来た。私はすぐに『ママ』なんて呼べなかったな」三年ぐらい前というのは、俺と唯が関係を持っていた時期だ。

「パパはママの事ずっと好きだったみたい」

「そうか」妙な話だ。男と逃げた母親が急に帰ってきて、その時、その母親は他の男と関係を持っていて、その男とその娘が同じ車に乗っている。

「私ね」みれいはそこまで言うと「はぁ」と溜息をついて、大きく息を吸った。

「あのさ、平沢さん。私って、ちゃんと生きられたかな?」みれいは突然、真面目な顔をしてそんな事を言う。不安定に動く彼女の言葉を聞いて、俺は何を言えばいいのか思いつかない。

「生きている時にね、色んな事考えたんだ。何の為に生きてるんだろ? 何で生きてんだろうって」と言った。

「そうか」俺は前を向いたままで、適当に相槌を打った。

「生きるって何だと思う?  意味とか理由なんて必要ないし、かといって意味がないものって必要ないじゃない?」

「難しい事を言うなぁ」

「私はね。ただ、生きてみたかったんだよ。でも、死んでもいいかなとも思っていた」

「うん」

「平沢さん、何か言ってよ。『そんな事ないよ』とか」彼女はそう言って少し笑ったが、俺は何も答えなかった。何を言えばいいのかわからなかったし、死んだ人間に生きる事の意味や目的を説いたとしても意味はない。

「私って馬鹿だったんだよねぇ」みれいは窓の外を見ながら言った。

「もっと勉強しておけばよかったなぁとか思うんだけど、もう遅いじゃない? 死んじゃった」彼女は俺の方に顔を向けて微笑んだ。その微笑が、彼女の母親とそっくりだと俺は思った。ただ、唯の微笑はもっと力強かったし、みれいのように無邪気に笑う事はなかった。

「それで、誰に殺されたんだ?」車を停めて、俺は自分でも驚くほど自然にその質問を口にした。それを理解する為に知りたいという欲求も働いたが、自分が何故そんな事を聞いたのかも理解できないでいる。前を走っていた白いセダンの姿はもう見えず、月は相変わらず空で光っている。

「あはは」みれいは俺の質問に答えずに笑った後で、急に真顔になって俺の顔をまっすぐ見る。それからゆっくりと顔を近付けて俺にキスをした。舌が俺の唇に触れて、俺は彼女の体を離そうと腕を動かした。でもやめた。唯とそうしたように、俺はみれいをそのままにした。

「何?」唇が離れてからみれいは聞いた。

「いや」と俺は答えるが、自分が何をしているのかわからなかった。彼女が何故俺にキスをしたのかもわからない。「ねぇ。何か言ってよ」みれいは笑ってそう言うと、俺の首に腕を回す。

「もうやめよう」俺はそう言って彼女を押し返す。「やめてもいいけどさ」みれいはそう言って少し黙った後で続ける。「ママと私、どっちの方がよかった?」

 俺は何と答えたらいいのかわからず、黙っていた。彼女は俺の顔をまじまじと見てから「ねぇ。何か言ってよ」と言う。俺が黙っていると、みれいは俺の首に腕を回して再び唇を重ねる。何度もついばむような短いキスを繰り返しながら、みれいは俺に体をもたれさせる。

「死んだらこういう事ってしないのかな」彼女はそう言って俺の顔を見てから、俺のベルトに手をかけた。「ちょっと待て」俺は彼女の手を掴んだ。彼女は一瞬驚いた顔をして俺を見る。「何?  するんでしょ?」そう言ってみれいは笑ったが、俺は少し迷った後で「しない」と短く答えた。

「なんでさ。私って魅力ないかな?」

「そういう事じゃなくて」俺がそう言うと、彼女は再び俺の顔をまじまじと見てから聞く。「じゃあ、何?」

「わからない」俺がそう言うと、彼女は俺の目を見てから「あははははははは!」と大きな声で笑った。

「何よそれ!  馬鹿みたいじゃん!  もういいよ!」みれいは笑いながらそう言って車から降りると、そのまま走っていった。しばらく一人になりたかったが、彼女をこのままにする事はできなかった。俺が車から降りると、彼女は少し離れた位置で立って俺を待っていた。俺が彼女の近くに行くと、彼女は「平沢さんてさ、馬鹿なんだね」と言った。

「あぁ」俺は答える。彼女は俺の顔を見た後で、しばらく何かを考えているような顔をして黙っていたが、やがて口を開く。

「ねぇ」

「うん?」

「ママの事、本当に好きだったの?」みれいはそう言って俺の顔を見る。その質問には答えずに俺が黙っていると、彼女は笑った。そして自分の腕を俺の腕に絡めて体を寄せる。彼女の髪からはシャンプーの匂いがした。俺は手を振りほどき「好きだったさ」と言った。「そうなんだ」みれいはそう言ってから「あのさ、実はね、私を殺したのはママなの」と俺の耳元で囁く。「は?」俺がそう答えると、彼女は少し間を置いてからまた笑う。

「あはは!  ビックリした?」

「冗談か?」俺はみれいの顔を見る。彼女は、俺の顔を見ながら少し間を置いてから言う。「いや、冗談じゃないけど」そう言って笑った後で「本当に」と続ける。

 俺は混乱して言葉が出ない。唯の事など何も知らない自分が滑稽で笑える。唯がそんな事をする訳がないと思いつつ、彼女の何を理解しているのか、そんな説明など俺にはできないのだ。

「何でそんな事になった?」

 俺がそう聞くと、彼女は少し考えてから「生きていた時間って、消えていくのかな?」と抽象的な事を俺に尋ねてきた。ひっそりと夜が更けていき、音という音が絶え、白い月が震えているようにみえる。

「わからない」俺はそう答える。

「だよね」みれいはそう言うと、一度窓の外を見てから「ねぇ」と俺の顔を覗き込む。

「平沢さんって、なんにも考えずに生きていたの?」

「なにが言いたいんだ?」

「わからないってばっかりでさ、つまらないよね」

 俺は煽られたから答える訳ではないが「生きている人間の記憶にいる事が、死人の価値かもしれない。時間があった証拠はその記憶だな」と言った。

「へぇ。やるじゃん。じゃあさ、人の記憶から消えた時、その人は価値がなくなるって事?」

「そうだ。価値のある人間は何百年も語り継がれる。逆もありえる」

「平沢さんは? ママの記憶にいると思う?」

「さぁな」俺はそう答え、しばらく間を置いた後で「消えた時に、初めてわかるんだろう」と答える。

「なるほどねぇ。そういう考え方もあるんだ」みれいは感心したようにそう言ってから「でもさ、だったら、私は価値がなくなったのかな?」と真面目な顔をして言う。

「俺の記憶に新しく残る」俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑う。それから少しして、思い出したように付け足す。

「死人の記憶に残る事も価値なの?」

「どうでもいいことだ」

「そうだね」彼女はそう言って、彼女は溜息をついてから口を開く。

「あのさ、さっき言ってた飲酒運転の男なんだけどね、あの男って、ママとも関係を持っていたの。私はそれを知っていて、そいつに近づいたの」彼女は俺の目を見る。

「何で?」

「ママへのあてつけ」

「あてつけ?」俺がそう聞くと、彼女は頷いてから話を続ける。

「ママは私なんて産みたくなかったって言ったの。でも堕ろすのも可哀そうだから産んだって。それから出て行ったって」

「唯がそんな事を言ったのか?」俺はそう聞く。

「うん」

「じゃあ、なんでみれいとみれいの父親の元に唯は戻ったんだ?」

「本命の男に捨てられたから、パパに頼ったんじゃない?」何の意味もない微笑をフッと彼女は唇のふちに浮かべて「私は平沢さんの事も知っていたよ」彼女はそう言って、俺の顔を覗き込む。彼女の顔の凹凸がよく見えるのは月明りのせい。

「俺のこと? 俺の何?」俺がそう聞くとみれいは頷く。

「ママの子供」

「え?」俺がそう聞くと、彼女は笑う。

「何がおかしいんだ?」

「平沢さんて、馬鹿だね。自分の子供が何人いるか知っている?」

「何を言っている?」生きている時に俺は結婚していて、子供は二人いた。みれいが口にしているのは、その子供達の事ではないだろう。

「ママ、妊娠したんだよ」

「え?」

「三年前だったかな。それでパパに言ったよ。飲酒運転の事故の事も、平沢さんの事も。平沢さん、ママのアパートに通っていたよね?」

「なんで? 見ていたのか?」

「ママが私を殺した理由が見えてきた?」みれいはそう言って笑う。

「あぁ」俺がそう答えると、彼女はしばらく笑っていたが、やがて笑い止むと俺の方に顔を向けて「ねぇ」と言う。

「なんだ?」俺はそう聞くのが精一杯だったし、彼女が何を言っているのかわからなかった。

「平沢さんってさ、馬鹿だね」

「もういい」俺はそう答える。

「ま、今度の子供はパパの子供じゃないのは事実。だって、パパ、検査してたもん」みれいはそう言って、また声を上げて笑う。

「私を産んだ時は私を捨てたくせにね、ママは今度は子供を育ててんの。訳わからないよね。パパもパパで、ママを追い出さない。異常だよ」

「それが許せなかった?」

「それが普通だよね。ママの事など無視すればいいけど、平沢さんの知っている男にも私は近づいたよ」

「俺が知っている?」

「あ、知らないか」表面的な自分の意識を引っ剥ぱいで見ると、その下には知りたい欲求があって、ドン底には徹底したものが一つに固まっているのかもしれない。その元になるのは嫉妬や執着のようなドロドロしたもので、それが愛欲と結びついて、憎しみにも変わるのだろうか。

「ねぇ、車出してよ。私をどこかに連れていくのでしょ?」

「あぁ」俺は運転手だ。それ以上でもそれ以下でもない。何も知ろうと思わない。そう言い聞かす。

「つまらないね。ホント」俺は客の目的地を本当に知らない。別の白いセダンが俺達の脇を通り過ぎていった。少なくとも今日は三人の人間がこの街で死んだという事。

「俺みたいな人間が、入れないところの手前まで」煙草を取り出し、火をつける。開けた窓ガラスの向こうで、煙は月の光を浴び、気まぐれな流水のように渦を巻く。

「送っていくよ」

 俺もみれいも、それからは一言も声を出さなかった。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!