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憐れ路

 生活に没頭しなければならない。食べる物のために沈み切ったどん底から求めるのは救済。しかしながら、もらった銭は、いつも右から左へ人手に渡っていく。
「今晩も来ている」と通りに浮かんだ人影を眺めて、俺はそう思った。その太った体を見る度に、俺は自分の心の企みに戦慄を感じた。栄養を十分に摂取できているという事と、奴の身なりだけで俺の心はざわつく。嫉妬とは恐ろしいモノで、奴が生れながらの運命をつかんでいると俺は思いこんでいるのだ。そして、それを奪う事が頭によぎる。
「どうぞ」
 奴は俺の前を通るたびに、音のなる銭ではなく札を俺の鉢に入れていく。それを見た他の乞食も、この通りに列を成していくようになって、ここを「憐れ路」と誰言うとなく呼ぶようになった。今日も奴から銭を受け取った。俺だけでなく、この通りにいる乞食が今日も奴から同じ額の施しを受ける。その何ともない紙の札を見て俺は無性に悲しくなった。それが悲しみであるのか苦しいのか全くわからない。
「オイ」と奴が俺の顔を下から覗き込んできた。そんな事は初めてだった。
「なんでェ?」
「泣いていやがるぜ」と奴は言うのだ。確かに俺は涙を流している。理由などあったもんじゃない。
「こんなものに振り回されやがって、辛かろうよ」と奴は言って、悪人よりも始末が悪いと思わないわけにはゆかない笑顔を俺に見せてきた。乞食の列の向かい側には、夜店が続いていて、焼鳥の匂いがしている。その店々の灯の向こうに街がきらきらと華やいでいる。その華やぎが揺れているようだった。
 俺は奴から目を逸らして通りを見た。俺の目は灯と闇の間を忙しく行きつ戻りつしている。しかし、何も見えてはこない。
「オイ」と奴がまた言った。
「なんだ?」と俺は言った。
「貴様は何者だ?」と奴が訊くので、俺は考えた挙句に「海を渡ってきたんだよ」と答えた。俺がそう言った後、街が静かになったような気がした。そして灯のゆらめきも焼き鳥の煙の匂いも全てが俺の前から消えた。ただ、奴の「そうか」と言う声が聞こえ、彼は俺の鉢から入れたばかりの札を握ってきた。
「何をしやがる」と俺は奴の腕を掴んだ。
「貴様は何者だ?」と奴がまた言った。
「俺は、俺は、海を渡ってきたんだよ」と俺は奴の腕を引っ張ると、奴の手から札がこぼれ、地面に散らばる。俺は地面に散らばった札を集めようと身を屈めると「俺も同じだ」と奴が言う。俺は奴を見上げた。奴は俺を見下ろしていた。「俺も海を渡ってきたんだ」と奴は言った。
「お前は何者だ?」と俺は言った。
「俺は貴様と同じだ。そういう貴様は何者なんだ?」
「俺も同じだ」と無毛な問答が続く。俺は奴に腕を掴まれ、そのまま引き起こされた。「貴様は何者だ?」と奴が再び訊く。
「俺は、俺は、貴様と同じだ」と俺は言った。
「そうだ」と奴は言って、財布から全ての札を出すと、それを俺に渡してきた。そして「ついてこい」と言うのだ。
 俺は奴に腕を引かれて夜店の連なる道を抜け、街はずれの寺まで行った。寺の境内は広くて、その奥に墓地がある。奴はそこで立ち止まると、「貴様は何者だ」とまた聞いてきた。
「俺は、海を渡ってきた」と同じ答えを言った。
 奴は墓石の一つをずらすと、そこから小さい壺を取り出して俺に渡してきた。それは冷たい石でできているのに重く感じられた。
「これは?」と俺が訊くと「骨だ」と奴は言った。
 俺は壺を奴から受け取ると蓋を開けた。中には小さな白い骨が入っているが、それが何なのか俺にはわからなかった。
「貴様の骨だ」と奴は言った。
 俺は壺の中身を覗いて「俺の骨か」と呟いた。そして、そこから視線を上げると、寺の境内には灯が一つもともっていなかった。その闇の中で、俺と奴の影がぼんやりと浮かんでいたのが見えた。
「貴様は何者だ?」
「俺は骨だ」
「そうか」と言って奴は笑った。俺も一緒に笑う事にした。そして、壺の中の小さな白い骨も笑っているようだった。そして風が吹き抜けると、その骨がカタカタと鳴った。
「俺は何者だ?」と奴が訊く。俺は壺を奴に渡して「お前も骨だ」と言った。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!