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理由のない涙           :超えられない壁

足の無いような気持ちで、私はカエデに駆け寄りたかった。そうするべきだが、この期に及んで私はタイミングをはかっていた。
というのも、サクラと過ごせた時間も短かったが、私が事故で死んでしまったのは、カエデが1歳になる前だった。カエデが、私の存在を理解するよりも先に抱きしめるのは、一方通行な感じがして、私は気後れをした。
その反面、そんな理由で躊躇している自分を、薄情だと責め立てている私もいる。

この子達の成長を、間近で見る事ができなかった辛さというのは、たとえば、単に暗闇に閉じこめられて「辛い」というものではなかった。暗闇の中で「灯の光を見られるかもしれない」と、期待する辛さだった。絶望しきれない事の方がしんどいのだと思う。「もしかしたら」「いつか」「きっと」という不確定な言葉は、優しい言葉じゃない。どちらかというと、世の中で一番残酷な部類に入るのだと私は思う。

タチバナさんという女の子の『裏』に私は生まれ変わって、希望を押し殺す事ばかりをしてきた。私は『表』に出られる術がわからなかったし、今だって急に『表』のタチバナさんと入れ替わるのではないかと思うと、早く2人を抱きしめるべきかもしれない。

「ケンイチ?」

カエデは、私を気にするよりも先に、その名前を呟いた。
ささやかな予感がした。ここは静かなのに、微かな風が意志をもって騒ぎ立てるような前触れという感じだろうか。そんな曖昧な表現しかできない。その風は、やがてとんでもない悪意という風になって、とても重い空気を運んでくるイメージを私は思い浮かべた。その空気は固体になって、私の四方八方を塞いで、私を窒息させるような苦しみを連想した。

「やあ。久しぶりだね」

ケンイチと呼ばれた男は、穏やかな口調でそう言った。なぜだかわからないが、私は彼の声を聞いてはいけないと思った。どちらかと言うと、そう思ったのは、サクラとカエデの事ではなく、私は『表』のタチバナさんの事を気に病んだのだった。まだ生きている彼女の体に傷をつけてはいけない。それは娘たちへの愛情とは別次元の心配だった。

「心配しなくていいよ。もう終わりなんだよ。もう俺は終わらせようと思う。そんなことよりも、ここの桜は綺麗だろう?」

何の事かわからないけれども、私もカエデの目を追いかけて、首を上に傾けた。
無数の桜の花弁が空を舞っていた。
そして私は理由のない涙を流した。

娘たちと桜をみた。その事で十分だ。
サクラが生まれた日、カエデが生まれた日、
私は幸せだった。
それで十分だ。

涙に理由なんかいらないのだろう。

わたしは訳もなく、娘たちの元へ駆け寄り、抱きしめた。

「ごめんね。ありがとう」

それで精一杯だ。
それが私の精一杯だった。

つづく


一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!