「なぜ、文章を書くのか?」は考えておいたほうが良い
■原点の保存には価値がある
こんにちは、なよにです。
今回の記事では、「なぜ文章を書くのか?」という問いに対する自分なりの回答を示しておこうと思います。
この記事の目的は、今後、僕が文章を書くモチベーションが低くなった時に、この記事を見直すことで、
・文章を書くモチベーションが高い時の感覚は、どのようなものであったのか?
・どのような未来に魅力を感じて、文章を書こうと思ったのか?
・文章を書くことで、どのような恩恵を受けていたのか?
これらを思い出して、モチベーションを再賦活化できるシステムを敷いておくことにあります。
「モチベーションが低くなる」という現象は、時間経過とともに、当初それに対して寄せていた期待、思い描いていた魅力のある未来や、実践を通じて受けたインパクトのある恩恵、これらをスッカリ忘れてしまうことによって生じると考えています。
ならば、これらを鮮明に記述して残しておくことで、きれいさっぱり忘却してしまった状態でも、この記事に立ち戻ってくればモチベーションの低下からいち早く脱却でき、継続的に恩恵を受けつつ、歩みを進めることができます。
もちろん、価値観の変化によって、当初と価値を感じる点からズレてしまい、思い出しても効果がない場合もあります。
しかし、思い出した結果、価値観がズレていることに気がついたとしても、当初との比較によって、その時点での価値観をより深く認識できるヒントとなり得ると思います。
そういう意味で、僕は「原点の保存」には多大なる価値を感じます。
なおかつ、その原点が自分の「Why」と強く接続していればしているほど、自分にとっての普遍性を帯びるので、時間経過によって価値観が変わっているリスクも減ります。
「Why」について理解を深めるならば、TEDでも有名なサイモン・シネック氏の以下の2冊がオススメです。
人間のあらゆる行動のガソリンは、モチベーションです。どれだけ高性能なエンジンを積んだ車があったとしてもガソリンが無ければ全く進まないのと同じように、どれだけ素晴らしい行動の選択肢があったとしてもモチベーションが無ければ行動が起こることはないのです。
ということで、ガソリンの供給源は初めのうちに確保しておくことにします。その存在が、継続的な努力を保証してくれることに期待します。
■なぜ、「なぜ文章を書くのか?」が必要なのか?
TOEIC990点を2019/6/23に取得して以来、僕は「TOEIC990点を本気で目指す人に向けて再現性のある理論を提示したい」という想いが徐々に芽生えてきました。
正しくは、TOEIC990点を取得してから芽生えたというより、TOEIC990点を目指して努力していた時点で、その想いは多少なりともあったのだと思います。
だからこそ、Scrapbox(TOEIC-for-990)に勉強しているときに得られた「新鮮な気づき」を保存していたわけですし、そのScrapboxに保管されている気づきをNoteにそのまま書いていけば、ずっとやりたかったことができる!、そう確信していました。
でも、書けなかったです。
実に1年間、何も書けませんでした・・・。
ただ何もせずに1年間を無碍に過ごしたわけではありません。どうにか書けるようになるためにも、情報を仕入れていました。
巧みな文章を書き続けている人からコツを訊いたり、認知科学的に適切なフレームワークを習ったり、上手いと思う文章を分析して自分のものにしようとしてみたり、どういったプロセスを踏んで1から文章を組み上げていくのか、どういった感覚で文章を書き進めていくのかといった実践的な視点を集めたり・・・。
オンラインコンテンツにも、それなりにお金とエネルギーを注ぎ込んで理論を学びました。
確かに、周辺知識は付いてきたので、「文章を書く」という行為へのハードルは下がった気がします。
でも、書けないのです。目の前に、跨いでも越えられるほどにまで下げたハードルが置いてあるのにも関わらず、それを跨ぐ気が起きないのです。
この現象は、「TOEIC990点を本気で目指す人に向けて再現性のある理論を提示したい」という想いが、「文章を書く」という行動を起こす理由として、上手く機能していないことを意味しています。あまり認識したくないことですが、事実として書けていないわけですから、受け入れるほかありません。
(かといって、この想いが消えたわけではありません。今後、伏線回収的に実現させたいと思っております)
このように、「なぜ、文章を書くのか?」という問いに対する答えを見つけておかないと、前に進む必要性を認識できなくなり、現状維持バイアスに打ち勝つことが難しくなります。
人によっては、理由が無くとも感情を抑えて淡々と前に進めるのかしれませんが、僕にはできませんでした。だからこそ、僕は「自然体で進める方法」を模索して見出すしかないのです。
その意味でも、「なぜ、文章を書くのか?」を考えて、文章を書くハードルを跨ぐ理由を自覚しておく必要があります。今度こそ、自分のWhyと関連させた”本物の理由”で設定しておきたいところです。
それからは、一旦悩むことは止めて「なぜ僕は文章を書くのか?」と「自分のWhyは何か?」を自問し、頭に浮かんできた出てきた答えを手当り次第ノートに書いたり、出てきたものをリストにして一覧できるようにすることで、僕にとって一番納得感のある理由を探しました。
そして、ついに「コレにつながっている!」と感じられるものを見つけることができました。
ですが結論の前に、そのWhyを見つけるまでの思考プロセスを書いておきます。
■Whyを考えるときにやったこと
「Why」についての前提事項を、簡単に書いておきます。
人はだれでも「1つのWhy」を持ってあらゆる行動を起こしています。それは、言うなれば、「朝ベッドから出たいとワクワクするもの」、「ありのままの自分における最高の状態を示すもの」です。欲求の状態に応じて多少Whyに基づかないブレた行動を起こすこともありますが、自然体の行動の理由は「1つのWhy」に収束して行きます。
またWhyは理性的なものではありません。「感覚」や「感情」に深く根付いているものです。それゆえに、言語化するのは難しく、根気強く自己分析をして初めて言語化することができるようになります。なので、これまで感覚を言語化する習慣が度々ある人ならば、素早く見つけることができると思われます。
自分のWhyを考えるときには、常に「過去の経験」にヒントがあります。そしてWhyは、最終的にたった1つの文章に集約して表すことができます。
この前提のもと、「なぜ、文章を書くのか?」を考え直す上で、僕が参照した事項が3つあります。
それは、以下の3つです。
①過去の、文章を楽しく書けていた瞬間
②過去の、文章以外における「楽しさ」の共通点
③過去の、文章に対する思考・言動・意味づけ
それぞれ紐解いてみます。
①過去の、文章を楽しく書けていた瞬間
僕が過去最高に情熱を持って文章を書いていた瞬間は、「10000問ノック」を書いていたときです。毎日TOEICの模試を問いた後に、その日のうちに復習記事として、ミスを分析したり、ミスの再発防止策を考えるツールとして文章を使っていました。
このときは不思議なことに、文章を書くことに対する苦痛を感じていませんでした。むしろ、文章を書きつつ分析するプロセス自体が楽しいと感じていましたし、自然体でどんどん書き進められていました。
書き進める中で、学習して得られた気づきを記述することができたので、その気づきが積み重なって新たな気づきを産むという好循環が発生し、どんどん学習が前に進んでいき、《望む結果(満点)が出力される可能性が上がっていく感覚》が好きでした。そういう意味で、文章を書くことに熱中していました。
このことが実感できてから、文章を書くことは、毎日でも取り組みたい報酬になっていたことを思い出しました。
②過去の、文章以外の行動報酬の共通点
今思えば、これまでの僕の行動は、ある特定の感覚を再現しようとしていたような気がします。その感覚は、印象的な出来事から共通点を見出すことができました。
手をつけるゲームはすべて、そのゲームをやり尽くすくらいに熱中していました。
(世界3位、日本1位になったゲームもあります)
高校の勉強でも、高校2年生から卒業まで学年1位を維持していました。これは、この結果自体を出せることが嬉しいということもありましたが、各科目の勉強自体を楽しいと感じており、それらを習得する努力をする中で《望む結果が出力される可能性が上がっていく感覚》に熱中していたから、そうなっていたように感じられます。
大学でやっていたライフル射撃もそうです。目標は出来るだけ多くの点数を獲得することなのですが、そのためのプロセスとして自分の身体の“揺れ”を制御し、「動きを止める」ということに意識を集中させることで、《望む結果が出力される可能性が上がっていく感覚》を得ていました。
その他詳細は省きますが、就職活動や卒業研究、薬剤師、TOEIC、筋トレにおいても、《望む結果が出力される可能性が上がっていく感覚》に魅了されていたことを共通点として見出しました。
細かいニュアンスとして、「望む結果」よりも「可能性が上がっていく」という方に重点があります。結果よりもプロセスに魅了されている、という感覚です。要は、僕にとっては「可能性が上がるように努力すること」自体が報酬なのです。
このことを踏まえて「なぜ文章を書くのか?」を考えると、僕が文章を書く理由は、「とある目標の達成の可能性が上がるように文章を書くのが好きだから」が答えになりそうです。
③過去の、文章に対する思考・言動・意味づけ
この記事でも「文章が書けませんでした」とたくさん書いているように、自己分析の結果、「文章を書けないことはダメなことだ」と意味づけしている自分がいるに気づきました。
「ダメだ」と意味づけているということは、「ダメじゃない状態」が存在することを意味します。
つまり、「理想」を持っているということです。その理想から乖離しているからこそ、「ダメだ」と感じます。
では、その理想は何かというと、先ほど②で見つかった答えである可能性が高いです。
実際に「とある目標の達成の可能性が上がるように文章を書く」(理想)と「文章が書けない状態」(現状)を比べると、大きな乖離があるのが分かります。この乖離が埋められなかったからこそ、不安な感情に苛まれていたのだと分かりました。
■目標ありきで文章を書くことが僕にとって重要
「とある目標の達成の可能性が上がるように文章を書くのが好きだから」
これこそが、僕にとっての「なぜ文章を書くのか?」への1つの答えです。
もちろん、これは僕のWhyの1つの側面でしか無いので、より深いところにもっと根本的な充実感を覚える感覚が存在します。
しかし、1つ答えを出せたことが重要なのだと思います。
この答えを仮説として、自分が書きやすいように文章を書いていき、再び書けなかったり、進捗が滞ったら、またこの記事に立ち返って考え直せば良いのです。
この答えを解釈するとなると、「目標」の存在が不可欠であることがわかります。
自分が少しでも魅力を感じる目標を掲げて、それを達成するためにどうすればよいかを考えながら文章を書く、そんなスタイルで今後は書き進めてまいります。
なよに