一遍上人とか朴烈とか。

アナーキーとは「無支配」
捨てて捨てて、捨てる自分さえ捨てきって、
無一物で生を愉しむ。
どうやら、これがオイラの生きる道。

一遍とか、ランダウアーとか、大杉栄とか、
いろいろアナキストのことを栗原 康さんが書いていたので
自分もそうありたいと思った。

思っていたら、おととい映画「金子文子と朴烈」を観た。

関東大震災のとき濡れ衣を着せられ、殺された6000の朝鮮人たち。

人殺しの支配者たちに抵抗しようと
仲間と地味に活動していたカップル。
何も壊したり殺したり損ねたりしていない。
ただ思いを文字にして雑誌にして配っただけだ。
が、つかまって、文子は死んで、
その後、時代の急変とともに朴烈は祖国の英雄になった。

彼らはコミュニストではなくアナキストだった。
朴烈の身なりやしぐさを視ていると、
どんどん自由になれる自分に氣づいた。

地を這いずって、殴られて、血まみれになって、
それでも口を閉ざさない。
拷問迫害されたあげく、
朝鮮の官服で盛装して、文子はチマチョゴリで着飾って、
裁判に出席したり、そのまま記念写真を撮ったり、
その写真が新聞に載ったりした。

死刑は免れたが、彼らは喜ばなかった。
無期懲役。
文子が死んで(死因は謎のまま)
朴烈はわりと早くに釈放され、
太平洋戦争が終わって、英雄視された。

彼はひとり生き残って、どんな思いだっただろう。
なんかあまりうれしくなかったんじゃないかな。

ボロい人力車を引きながら、手間賃を道に投げられながら、
口汚く相手を罵りつつ、地面に手をついて銭を拾う。
仲間と酒を飲み、女を愛し、主張して主張して主張する。
そんなころの朴烈が、もっともっと生きてるように見えた。

そこに自由があるから。

ドロドロの血まみれでも、
空氣といっしょに自由が吸い込めればいい。

オレも死ぬまで、そんな自分でありたい。


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