シュレディンガーの猫と うちの猫
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『シュレディンガーの猫』は物理理論の世界ではとても有名な猫。
この猫は見る人によって生きてたり死んでたりするらしい。
物理学の少し難しい例え話だけど、ミクロの世界では本当にある話なんだそうだ。
うちにいる猫は今のところ生きている。
昔いた猫は死んでからもう何年とか何十年とか経つ。
死んでしまったあの猫たちもシュレディンガーの猫のように、他の誰かから見ればまだ生きていたらいいのにと思う。
でも、そう思えば満足かというとそんなことはない。
もし本当に誰かから見て生きてるなら、僕だって生きてる君たちをもう一度見たいし、触れたいし、抱き上げて撫でてあげて幸せそうにゴロゴロ喉を鳴らすところを間近で聞きたいと思う。
知らない他の誰かにそれが出来て僕にそれが出来ないなんて酷い話じゃないか。
あんなに長い間一緒に暮らし、思い出だって沢山のあるのに、どこかで生きてるのに会えないなんて。
君が死んじゃった時、悲しくて悲しくてどうしようもなく辛かったのに、なのに僕が知らないところで誰かとまた暮らしてるなんて酷くないか。
かと言って、それならやっぱりいっそ死んでいて欲しい、とも思えやしない。
生きているならそれはそれで本当に良かったと思える。
人間が持つ愛情と呼ばれる思いなんてどっちつかずな曖昧なものだ。
ひょっとして今うちにいる猫たちって、長く誰かと生活した後に死んでしまったはずの猫なのだろうか。
僕の死んだはずの猫がどこかで生きてるならあってもおかしくはない。
そんなはずないとは思うけど、でももし本当にそうなら、申し訳ないけど前の飼い主には、この猫がうちにいる事を内緒にしたい。
僕がそう思うように前の飼い主だってこの子を見れば手放したくないと思うにきまってる。
僕も猫に死なれて辛い思いをしたことが何度もあるから、その飼い主の気持ちもわかるし。
だからお互いの為にもうちの猫の居場所は知らせない。
悪いけど知らせたくない。
でも僕が飼っていた死んだ猫には会いたい。
シュレディンガーの猫は見る人によって死んでたり生きてたりするらしいけど、シュレディンガーの猫を飼っていた人も、死んだはずの猫には会いたいくせに、猫が生きていたら会わせたくなかったりするんだ。
時々テレビやネットで前の子にそっくりな子を見る事がある。
あれは本当に他人の子?
何かの間違いで僕に見えてはいけない死んじゃったあの子が見えちゃったんじゃないだろうか。
僕の目では直接見ることは出来ないけど、テレビやネットに映し出された猫は、僕じゃない他人の目で録画したり写真に撮ったりした猫だから、映像を通して見えちゃうこともあるんじゃないの?
そんなことを考えてはみるものの、気持ちの根っこでは「他人の空似」と思っているし、あり得ないと思っている。
死んだはずの猫がもし本当に僕を避けるように生きていたら嫌だし。
そもそも猫自身はどう思ってるんだろう。
もちろん猫になった事がないから分からないんだけど、飼い主の事は決して悪くは思ってないだろう。
甘えてみたくなる相手の様だし、居なきゃ寂しいとも思ってそうだ。
でも彼らはいつもケロッと忘れる。
さっきまであんなに人の膝の上で甘えていたかと思えば、1秒後にはすとんと膝から降りて何もなかったようにグルーミングを始めたりする。
猫は3日と覚えていられないと言われる所以だが、当然そんなことはなくいろんなことをずっと覚えている。
長年猫と暮らせば誰にだって分かる事だ。
僕にはひとつの説がある。
きっと彼らには未来や過去という概念がないのだと思う。
彼らにあるのは常に現在だけなのだ。
今甘えたい、今お腹空いた、今恐ろしい、今楽しい。
この連続が彼らの人生のように思える。
だからもう十分と思ったり足がかゆいと思ったとたんに膝からストンと降りてしまうんだ。
なので彼らは未来を心配したり、過去を悔んだりは一切しない。
失敗したくはないとは思うだろうけど、それも今だけの話で、失敗して恥ずかしい思いをしたくないとか、失敗のせいでずっとびっこを引いて歩くかもしれないなんて1mmも考えない。
かわいそうな事にもし本当にそうなったとしても、彼らはその失敗を悔んだりしない。
なぜなら彼らには過去という概念がないのだから。
僕の勝手な想定だけど猫の生き方をそう思って見れば見るほど、もうそうだとしか思えなくなる。
では一方の人間はどうだ。
あんなに長年苦楽を共にして、互いにもう全てをやりつくして、しっかりとお別れの気持ちも伝え看取ったというのに、それでも死んだ猫の事をいつまでもグズグズと思い返しては後悔と悲哀の谷から這い出せずにいたりする。
そしてまたこんな思いをするならもう猫を飼う事はよそうと決めたりもする。
言ってしまえば人間という生き物は、過去の後悔と未来の畏怖の中でしか生きられないのかも知れない。
つまり現在がない。
現在の自分は常に過去の後悔と未来の畏怖に突き動かされその慣性だけで生きているのかも知れない。
こうだったから、こうなるかも知れないから、それだけが現在を生きてる理由であって、実際には過去と未来しか存在しない。
だから人間は、現在だけを見つめて生きる猫に憧れるんだ。
過去を振り返らず、未来を恐れない猫の姿に心底惚れてしまうんだろう。
そんな猫がもし僕が知らない所で生きていて何かの弾みでたまたま僕と出くわしても、「いやぁ、ひさしぶり」というあっさりした感じだろう。
感動の再会の場面なんて猫的にはあり得ない。
もう過去になった僕の事なんて見向きもしない。
だからきっとクヨクヨなんて全くせずに今の飼い主と現在を生きているに違いない。
僕と過ごしたあの時の様に、その飼い主と共にこの先を生きる事をその猫は心配もしてないだろう。
猫ってすごいんだ。
強いんだ。
あんなにしなやかで、甘えん坊で、温かくて、ふわふわで、可愛いらしいのに、実は僕ら人間なんかよりずっとずっと強くたくましい。
弱々しくいつまでもシミったれてるのは人間の方なのだ。
シュレディンガーの猫は見る人によって生きていたり死んでいたりするらしいが、僕が飼った猫たちは死んでしまった猫と生きてる猫に完全に分かれている。
これは僕に限らず人間全般にそう見えている。
それは僕ら人間が弱々しくいつまでも悲しみを引きずり、死ぬまで何十年もの間彼らの事を思い返すような未練がましい生き物だから、せめて現実では白黒はっきりさせる為、ある時点でもう2度と会えない点、つまり「死」というトピックを神様が作り、キリがない後悔を少しでも諦めさせようとしているんじゃないかと思ったりしてみる。
だとすれば猫程強い生き物にはそういうはっきりとした点は必要なく、死んでもなお飼い主と現実を生きているのかもしれない。
そう思いたい。
少なくとも死んだ後悔や、あの頃は良かったという様な悲哀などは彼らには微塵もないに違いない。
だとすれば人間が思う程死ぬこととはそんなに彼らにとって悲しむべきことではないのかも知れない。
過去と未来に翻弄されるが故に「とうとう死んでしまった」とか「あの頃はあんなに楽しかったのに」とか「もうこの先二度とこの子とは会えない」などと人間は自ら悲しみを増幅させ必要以上に悲しむのだけど、その悲しみのほとんどは悲しむ本人だけのわがままであり、死んだ当の猫にはきっと同等の悲しみはない。
そういう風に思えれば少しは気が楽になれるような気もする。
どこかの誰かと又暮らしているならそれも良い。
ならば僕もまた、偶然出くわした昔誰かの所にいたかも知れない猫を、子猫から飼ってやるのもお互いさまでいいかもしれない。
物理学で言われるシュレディンガーの猫はこんなことを証明するために生まれてきた理論じゃないと思うけど、いいのだ。
僕が納得すればそれでいい。
飼い主が納得すればそれでいい。