見出し画像

ADHD名人

[4454文字]
「注意欠如・多動症/注意欠如・多動性障害」とも呼ばれ、不注意(集中力がない)、多動性(じっとしていられない)、衝動性(思いつくと行動してしまう)といった症状が見られる障害。 

我が子のADHDを心配する親御さんが多いと聞きました。
しかしこれはむしろ少子化時代が要求した自然な結果なのかもしれないかも知れません。
そんなことを言うと問題でしょうか。

この症状、もう驚くほどドンピシャ完全一致で、これは少年時代の僕のことであります。
ただADHDとか多動症とかという言葉はまだなかった頃です。
当時のことを振り返り僕の母は、交通事故か何かで僕が死んだり大怪我をするのを前提に「その時が来てもこの子の運命」といつも腹を決めてたといいます。

僕は25歳で起業して25年間法人の代表でした。
しかし各種行政手続きとか経理とかは本当に苦手でした。
僕がおろそかにした仕事は他のスタッフが責任もってやってくれていました。
作業分担でそれぞれの負荷を抑えて効率よく仕事が出来ましたと思ってます。
僕自身は僕が得意とする仕事が別にあります。
他の人なら思い付いてもなかなかやらないことを本当にやってしまうエネルギーがきっと人一倍あったと思います。
それをする事が他のスタッフの為でもあり、会社や社会の為でした。
今はこの代表取締役ももう辞めて、他の思い付きで別な目的をもって、50歳を過ぎてから他の会社の正社員(サラリーマン)をやっています。

当時ADHDという病名は存在せず置き換える言葉がなかったので、母が腹を決めざるを得なかった子は世間では「変な子」と言語化されました。
しかし残念ながら僕は世間にとって未だに「変な子」かも知れません。
社会に居ると一般論とか常識をバイブルにしている人達とも仲良くやって行かねばなりませんし、ほとんどの場合実際に上手くやっていると思っています。
でも先方から見ればきっと「変な子」のままかも知れません。
でもそう思われる事は正直言ってちょっとうれしいんですよ。
人と違う事ってちょっと楽しくないですか?
「凄いなあ!」「何でそんな事が出来ちゃうの?!」とか、そう言われて悪い気がする人は少ないでしょう。
でも僕の親や姉や祖母はきっと相当心配したと思います。
それも十分わかっています。

学校で大勢が同じ方向を向いている中、1人とか2人が違う方向を向いていれば大人はそこを注意しますよね。
みんなに合わせろと。
でもそれだとみんな同じものしか見えません。
それの何がいいのでしょう。
大勢をまとめる大人にとって都合がいいだけじゃありませんか?
みんなと同じものを見たければ本人がそう望んでそうすればいいのですが、人と違うものを見たいと望む子も相当数いる筈です。
しかし学校という集団生活の中ではそれは反抗行為として見なされ怒られてしまいます。
未だに学校はこんな当たり前の事をも変えられないままでいるんです。

今でこそ大人ですから多動性の影はほぼ消していますが、確かに当時はなぜ他の子が1時間もじっと教室の席に座っていられるのか不思議で仕方ありませんでした。
ある時とても楽しいと思える授業があり、これは毎授業いつまででも席に座っていられましたが、
その他大多数の授業はそれはもう退屈で退屈で仕方ありません。
楽しい内容なら休み時間も、給食の時間も、掃除の時間もずっとそれに集中出来ましたが、
それはそれできっと怒られますね。
子供の頃は怒られるので他の時間に続けることを避けましたが、大人になってからはやってます。
集中すると朝から晩まで風呂も食事もトイレだって、省けるものは全部省きます。

大人になれば止める人もいなければ止まる理由もないので、やり始めるともう止まらないのです。
子供の頃の方が理性的だったという訳じゃなくて、学校のくくり方が大人都合だったのだと考えています。
子供を監視しやすくするため、大人都合の集団組織を構成し、そこへ子供らが放り込まれたという感じ。
子供を知育体育共にのびのび伸ばす場所のはずが、大人都合の枠に囲ってしまったら本末転倒ですよね。
ともあれ1時間じっとして授業を聞けと言うなら、聞きごたえのある授業をしてくれと思っていました。
きっとお子さんもそう思ってるはずです。
友達と遊ぶのだって面白くない遊びなら面白くしようとみんなで考えたものです。
その行為がまた楽しいのです。
ただ抑圧的に「いいからじっとおとなしく授業を聞け」と言う横暴な大人の言い分には納得も理解もいきませんでした。

宿題を忘れるとか遅刻といったようなことはしょっちゅうですが、全て分かってやってる感じです。
如何に押し付けられた宿題を結果的に少しでもやらずに済むかを自分に課しているような状態です。
そうやって遊んでるわけではなく、宿題が面白くないので苦痛でしかないのです。
可能な限り苦痛を避けているのですが、宿題を忘れ続けると体罰的に別な苦痛がやって来るので、
その釣り合いが取れる辺りで宿題を忘れるのがコツです。
つまり宿題は苦痛でしかないので、やったとしても全く身に付きません。
なので何のために宿題が存在するのかが本当に理解が出来ませんでした。

遅刻の原因はとにかく朝が起きられないの一言です。
無理やり起きて顔を洗ったり着替えたりするのは、もう本当に身体的な苦痛でしかありませんでしたね。
頭はボーっとしながら起き抜けから低血圧的な頭痛があり、血行が隅々まで行き渡ってない感じで思ったように体が動かせません。
無理に体を起こせばコップは倒すし、家具の角でどこかを強打するという始末。
これを不注意というならそうなのでしょうけど、僕が思うテヘペロ的不注意とはずいぶん違います。
気合が足りんとよく言われましたが、そんな状態から寝起きの子供がどうやって気合を入れるのか、気合い一点ばりじゃなく先ずそこから教えてやって欲しい。

知らない事に出会った時、はじめて何かを見つけた時、何か思いついたら自然と体が動きませんか?
特に子供の頃は知らない事ばかりですから、世界は好奇心を刺激しっぱなしです。
それが場合によっては危ないかもしれないぐらいは、いくら子供でも感じています。
大人や親が思う程子供は馬鹿じゃありません。
でも時々痛い目にも遭います。それがまた楽しかったり勉強になったりもするんです。
この手の不注意と衝動性は未だに顔を覗かせますが、これも歳とともに減りつつあります。
それがとても楽しかったということを知ってるだけに、実は今の本人にとってはちょっと残念な事のひとつなのです。
ウッカリど忘れとかが歳取ってからの方が多いのは皆さんと同じです。

ADHDの3要素、不注意、多動性、衝動性。
でもこれは非常にネガティブな言い方であって、
これをポジティブに解釈するなら、視野が広く、行動力があり、アイデアに満ちていると言えるわけです。
一言で不注意と言いますが、注意をしていないわけではなく他が気になり他にも注意を払った結果、一つ一つの注意が減ってしまったというの実際です。
多動性については上記の通りいろいろ気になるのでこの目で、この手で実際に確かめたくて仕方なくなるわけですから、そりゃその場にじっとしていたんじゃ欲求の達成は不可能ですよね。
衝動性こそが本人にとって一番やりたいことと言ってもいいんですが、色々見聞きした結果、色々思いついちゃうんです。
色々多くの情報が頭に入って来てそれらが結びつくと新しいものが生まれる。
それを確かめなきゃいけません。
もうワクワクしかない訳ですから、本人は辛いどころか楽しいばかり。

こういう人は起業して新しい世界を開拓していくのに向いているのかもしれません。
今後日本は少子化していく社会で、AIと共に1人で数人分の仕事量をこなせる人材が必要です。
そんな時に前例に照らし合わせつつ言われた仕事だけこなす様な、これまで優等生と言われた人材は価値を失うでしょう。
その手の仕事ならAIが完璧にやってくれますからね。
失敗を恐れることなく実力を発揮し、専門的知識と斬新な価値観で社会に貢献できる人こそ今後必要とされる人材だと思います。
その子自身の人生における成功とか失敗を今から危惧したらした分だけ遅れを取るぐらいの気持ちでいいかもしれません。
もしお子さんを平均化しようなどと安全策の檻を作っていたんならすぐそんなものはぶっ壊してください。
人生は本人のものであり、その本人が楽しかったと言えて初めていい人生ですよね。
お子さんは他のお子さんとは違い、もう既に何が楽しくて何が楽しくないかを自分で判断できています。
嫌なものを嫌だとはっきり態度で明言しているのですから。
それを大人の価値観や都合で無理やり押さえつけてはいけません。

親御さんの中にはお子さんを病院に連れて行ってADHDだと診断されて、正直ホッとしてる人もいると思います。
その通りこのADHDという病名はお子さんの為ではなく、親御さんの為の病名です。
お子さんがADHDだと診断されたからといっていい治療方法がある訳ではありません。
というかそんなものがあってはたまりません。
もしADHDの薬があってこれを飲むと瞬く間にお子さんが他のお子さんと同じになると言われてその薬を与えますか?
せっかく秀でた個性があったのに薬のせいで没個性化してしまうのです。
お子さんは既に秀でているのです。
お子さんの特性をよく理解して、それを捻じ曲げて直そうとするのではなく、
もっと大人の方がお子さんを理解し、お子さんが楽しめる様に枠を外してあげて下さい。

1,000人中1人だけとかクラスや学年で1人だけという事が恥ずかしい事だと思っていますか?
才能は平均の束には存在できません。
画期的意見が大多数になった時点でそれは画期的ではなくなります。
大多数意見以外にしか画期的意見はありません。
先ず他と違う事を認めて理解するようにしてください。
お子さんには得意な事がある筈です。
かけっこ、お絵描き、歌、楽器、算数、おしゃべり、何でもいいんです。
それをすることを推奨し応援してあげて下さい。
いい結果が出たらほめてあげて下さい。
お子さんの好奇心や楽しみをつぶそうなんて残酷な事は思わず、どんどんやらせてあげて下さい。
お子さんはちゃんと不自由や不合理を感じたらちゃんと社会に合流する力は持っています。
不自由や不合理を正当に感じられるためにも、お子さんの基軸になる「好きな事」を自由にさせてあげてそれを認めてあげて下さい。

正直言って本当は平凡こそが本物の幸せなのだと思います。
大きな負荷もかからず、責任もなく、大勢に埋もれることも出来る。
日々穏やかで安穏な暮らしは本当の意味での幸福と言えるでしょう。
しかし残念ながらADHDの人の人生はなかなかそうはいきません。
ADHDの人は自分に嘘がつけません。
本人が気づいてしまうのでそれを放置する方が苦痛なのです。
波乱万丈な人生かもしれません。
でもきっとそれが一番幸せになれる近道ではないかと思うのです。
どうか応援してあげて下さい。