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能動←中動→受動

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古代インドやヨーロッパ、それに日本にも能動的と受動的の他に中動的という間の表現があったそうです。

自らの意思でもって行動を起こすことが能動的で、他者の意思による行動を被る事が受動的。

つまり「する」と「される」の違いですが、その間とはどういうことでしょうね。
そして何故この中動的という言い回しが今日には使われなくなったのか、僕なりに考察してみました。

中動的というのは、
他の意思による行動に誘導され、自身の意思として行動する事、
らしいです。
言葉にすると小難しいので例え話でいきましょう。

とある日、
さてそろそろランチという時に仕事をしながらせいろ蕎麦を想像したあなたは
「今日は蕎麦屋直行だな」と心に誓い、12時になると同僚を誘って蕎麦屋に向かいます。

ここまでのあなたの行動はとても能動的ですね。
注文を取りに来た女将さんに同僚が
「表にあった天ぷらそばとおむすびセットね」というのを聞いて、なんとあなたは
「あ、じゃあそれ2つ!」ととっさに変えてしまいました。

よくありますよね、こういう事。
これこそが中動的という状態です。

あれだけ事前にせいろ蕎麦と心に決めていたのに、他の能動的行動に誘導されまくりではないですか。
同僚の言葉に誘導され自分の意思で変更を決定しましたが、同僚は誘導したなんてちょっとも思ってません。
これが中動的という状態であり特徴です。

何故そんな事を思い出したのかというと、ここで政治的な話をする気はないのですが、
元法相の河井議員と妻が気前よく配ったお金の意図について、
考えれば考えるほどこれこそが中動的な意思を利用したお金だと感じたからなのです。

真偽の程は別として、配った側は選挙票の取りまとめの意思は微塵もなかったと言い、
もらった側はタイミング的に票の取りまとめを依頼してきたのだと思ったと言います。

地元議員は河井議員から無言でお金を渡されながら、元法相の目の奥深い所で
「君ぃ、分かっとるね?」と言われてる気になります。
そりゃそうでしょう、地元の有力な大臣経験者であり、同じ与党党員であり、取りまとめるべき立候補者はその奥様です。

もしこれを拒めばその後この地域での政治活動や商売、下手すりゃ家族の生活にも大きく響くことは想像に難くないでしょう。
かと言って明らかに賄賂と分かっているお金を簡単に受け取るわけにはいきません。

しかし考えてみれば法務省の大臣が渡してくるお金ですし、
聞けばこの大臣、近頃党から1億5千万の準備金をもらったらしいし、
与党の金ならきっと安全な金なのだろう。
と思い込むようにして受け取る訳です。

渡した側の意図したしないに関わらず、
これは明らかに物言わぬ強制となり、誘導にほかならないのですから、中動を悪用したと言われても仕方ないでしょう。
もらう側は受け取るも地獄、受けとらぬも地獄という構図。
いやいや、そういう金は何があっても受けとっちゃダメなんですよ!

ここで話したいのは政治の話ではありません。
この受け取った側の状態ですが「渡された」と言えば受動的ですが、
「受け取った」と言えば能動的です。
言い回しの不可思議ですよね。
この場合の「受け取らざるを得なかった」という状態がつまり中動的なのです。

全ての物事、事象は複雑に絡み合い、互いに影響しながら必然的に何かが起こります。
何の絡みも影響もなく、完全に孤立独立した状態で唐突に何かが起こるという事はまずあり得ないですよね。
全ての事は何かに起因し理由があって起こっています。
見方によっては誘導されているようにも見えるのです。
また何かを起こす目的で外堀を埋めていき、わざと目的へと誘導する事も日常的に行われています。

また例え話にした方が分かりやすいので、懐中電灯を作ると考えてみましょう。

この時点では誰かに作ってもらう訳ではなく、自分で懐中電灯を作るので能動的で間違いない、と思いますよね。
とにかく作り始めましょう。先ずは材料をそろえます。
電池と電線と電球があれば懐中電灯である最低条件は満たせます。
この場合の最終目的は「光らす」ですからね。

材料を揃えます。揃えるその行為はあなた自身の意思で行うので能動的と言えます。
ではその材料を接続しましょう。接続するその行為も能動的です。
電池のプラスと電球のプラス側に線をつなげ、電池のマイナスと電球のマイナス側を線でつなぐと?ほら光った!
あっという間に完成です。

電池から電線を伝った電気が、電球のニクロム線を熱し光ります。これらの行為は全部能動的に見えますよね。

でもよく考えてみて下さい。
この時、電球は繋がれた電線に電気を流され光りました。
電球からすればそれって受動的ですよね。
電球の意思ではなく繋がれた電線に電気が伝わって来たので、もう光る他なかったのです。

ではその電線はどうでしょうか?
電線も単体では電気は流れません。
誰かが意図をもって流さない限り電線は電気を発しませんからね。
電線も電気を流されたので受動的です。

電池は電気を貯める役目があります。流す役目もあります。
ただ電池だけでは自身に貯められている電気を流すことは出来ず、電線がつなげられたことで流さざるを得ない状態になります。
それは受動的な状態と言えます。

ここに互いの表明に矛盾が生じ始めるのです。
電線も受動的だったと言い、電池も受動的だったと言うのです。
どちらかが能動的でなければ、お互いに誰から被ったのか分からない状況に陥り矛盾が生じます。
こういう時に「中動的だ」と言えればいいのかも知れません。

大元の考えである「懐中電灯を作ろう」という意思が働いた段階では、全てが能動的にしか思えませんでしたが、いざ逆算していくとどうでしょうか。
これはつまり「光らす」という目的のためにそれぞれが皆受動的に作用誘導されていたのだと、真反対な状態を主張し始めるのです。
「私の意思ではない」とね。
摩訶不思議ですよね。

これってまるで犯人探しみたいではありませんか?
実行犯、連絡役、見張り役、リーダー。
この鉄壁のチームは、犯行を計画し実行するまでは一丸となってとても能動的なのですが、犯罪は得てして成功しないモノ。
全員お縄となり拘束され、事情を聞くうちに、やらされた、そんなつもりはなかった、言われたとおりにやっただけ、という受動的なやらされた感満載な言葉が並ぶのが常です。

では実行を計画し指示したリーダーの所に能動的要素が集中し、全員をたぶらかしたという事で、悪いのはこのリーダーだけなのでしょうか。
でもリーダーにもこの犯罪を思いつき、起こさざるを得なかった、
と言いたいきっかけがあるはずです。

金欲しさでもいいです。
なぜ金が欲しいのか。
なぜ博打ばかりやって借金を増やしたのか。
何故まともな職に就かなかったのか。
何故幼少時代に辛い思いをしたのか。
何故、何故、何故、…。

遡っていけばキリがありません。
育った環境や親のせいにしようが、
貧しく社会から取り残された環境のせいにしようが、
国のせいだろうが、歴史のせいだろうが、
全てがやむを得ずそうなって、仕方なく誘導されて、
その気はなかったのにせざるを得なかったという中動的な状況となり、
現象の全てが中動的という事になる訳です。

こう考えると能動的とか受動的とかってすごく近視眼的な一部分だけの事象であって、
ぐっと俯瞰していくと「する」と「される」が全く逆だったりという不思議な現象を引き起こすので面白いです。

しかも「現在進行=能動優勢」であり、「過去への回顧=受動優勢」になりやすい性質があるとも言える様です。
そういう意味で言えば中動的という考え方で俯瞰して物事を見た時には、森羅万象全ての事が中動的と言っても良い訳ですから、「過去・現在・未来の世界=中動」かも知れませんね。

じゃあこの世は中動ばかりであって、能動や受動は、つまり「する」とか「される」という事象は不要、又は存在しないのか?
というとそんなハズもありません。
したりされたりが折り重なって現在が存在してるわけですから、「リアルタイム=能動+受動」でもあるのです。

さあ、頭が混乱してきましたね。非常に哲学的です。

バタフライ効果という気象学の言葉があります。
ブラジルで1匹の蝶が羽ばたくとそれが次々と物理的に連鎖して、ついにはテキサスで竜巻を引き起こすという考え方です。

この蝶が起こした風は大小に派生し、そのドミノ的な連鎖は多岐に渡り、テキサスで竜巻を起こす以外にも当然何か他にも巻き起こしていたり、又は起きるべきことをかき消していたりしたかも知れないのです。

しかし人間の脳で解釈できる範囲は自然の現象を当然網羅できず、
「する」と「される」とか「明るい」「暗い」とか、「高い」「低い」、「良い」「悪い」、「正義」「悪」などの2極化で物事を解釈しようとする悪い癖があるのです。

ところが実際の所この世の事象の全ては、「その間」にあると言っていいでしょう。
完全に明るい訳でも真っ暗なわけでもない間であり、完全に高い訳でも最低でもない間なのです。

しかし能動と受動を解釈しない限り分かり得ない「中動的」という状態自体が人間には難しく、その言葉が自然に消滅したのかも知れませんね。
そして残された「する」と「される」ばかりがクローズアップされ、現実に一番則しているはずの「せざるを得ない」が忘れられてきたという事実はあるように思います。

私たちはこの社会の「せざるを得ない」状況の中で常に何かに突き動かされ、
その行動がまた何かを突き動かす原因となっている事を、もっと意識するべきかもしれませ
ん。

一つの現象は思ったほど単純な原因で起こったのではないのだという事を、もっと日常的に感じたいところです。
そう思えば目先の現象ばかりが事態の収拾につながるとは考えにくく、
前出の選挙違反の例であっても、またこの新型コロナウイルスにあっても、経済の停滞にあっても、有色人種差別であっても、
それぞれの脈々と連鎖した中動的な現象を追えば、何らかの根源的な要因を突き止められる可能性だってある事を肝に銘じたいものです。

近視眼的対処法ばかりに陥らず、もう少し大きな視点で現状と、過去や未来も俯瞰視できれば、
根治的な対策が少しでも見つかるのではないかと感じます。