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クロズミさん 京都八木

【6870文字】


それは赤穂浪士が討ち入りして18年後、江戸幕府は開府100年を越え、江戸市中ではめ組の人が威勢よくマトイを振るいながら、大岡越前守が咎人と善人を正確に選別しつつ、与謝蕪村が五七五に世界を封じ込めながらも、徳川吉宗が贅沢を毛嫌いしていたその頃。享保3年、西暦1718年、今から300年以上も前のこと。
江戸から遠く離れ、京の都から更に峠をひとつ越えた所に、その八木村はあった。園部藩に属した八木村は、どうやら現在よりは賑やかな村だったようだ。

藩の中心を貫くように滔々と流れる大きな川があった。地元の者はこの川を大堰(おおい)川と言い、下れば保津峡を超え、京の山城(京都市)は嵐山に至って桂へと流れ出る。大きな合流がある訳でもないのに、大堰川は下るにしたがい大堰川、保津川、桂川と名を変える。

大堰川には園部藩とその民衆を根底から支ええなければならない重要な役割があった。藩の主要産業である材木の運搬も、民衆の憩いも娯楽もまかない、生活水であったり食料源であったりもして、この村の全てを潤す重要な役目を果たしていたのだった。


京都府南丹市八木町は
広い谷間にある町

八木村は東と西に長い峰々を抱き、大堰川が作った大きな谷の平地にひっそりとある。当時八木の里付近に流れる大堰川の流れは現在と違い、その谷の西の山に沿うようにして流れていた。川は北側の村外れの上流部で園部川と合流し、その水量も川幅もぐっと増す。そこから少し下ると東から支流がもう一本流れ込んで来る。京北に抜けられる東の谷山から下って来た小さな支流は、三俣(みまた)川といい普段あまり水は流れていない。しかしこの三俣川が長年に渡り東の山を削り出した土砂と、大堰川が西の山裾を削った土砂は、土地の傾斜が緩やかになった八木村の里付近で堆積し、自然の堤防が積み上げられ流れの緩慢な大きな淀みを作っていた。八木村の最大集落は、その広々と水を湛えるあたりにあり、水辺を中心に民家や商家がたち並んでいる。山間の谷間であるにもかかわらず空の広いこの地は、京や大阪堺の裕福な商人たちが船遊びに興じたりする京の奥座敷的な風情も持ち合わせ大いに賑わったという。古より八木村はこの大堰川の恩恵を最大に享受していた村であったと言っても良かった。

現在旧河川道は国道9号線や
JR山陰本線(嵯峨野線)が走る


合流する三俣川を少しだけさかのぼった所、八木村の集落に少し小高くなった丘がある。その頂に立つと遠く東に屏風のごとく聳える峰々を展望し、その麓から広がる広大な田畑を見渡しながら、足元には陽光照り返す穏やかな水面を一気に望めるのだった。
丘の上には古ぼけた鳥居と小さな櫓があった。倉稲魂命(うがのみたまのみこと)または、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)という神様を祀る小さな神社である。祀られた神々は穀物や農耕、商業の神であり、伏見稲荷大社と同じ御神であるため、村民からお稲荷さんと呼ばれ親しまれていた神社である。その小ささゆえに常駐する宮司などはいなかったが、昼間は子供らの賑やかな声が絶える事がなく、日が暮れる頃は村の長たちが集い、重要な自治懸案の決定なども行い、また収穫の喜びを讃え合うなどの祭事社交の場にもなっている。

なんと言ってもこのお稲荷さんで一番目に付くのはその背後にそびえ立つ樹齢百年ほどの巨大なケヤキだ。空に大きく広げた枝葉はお稲荷さんの全域を覆い、神社独特のひっそりとした静寂を醸し出していた。一里二里と離れた所からもお稲荷さんのケヤキは、黒々と盛り上がってこちらを伺っているのが見えた。
「八木村の子は迷い子にならへんねや、お稲荷さん向いて歩いたらええんねやからな」
小高い丘の上に立っていた事もあって、この巨大ケヤキは近隣在所からも見ることが出来た。当時八木村のランドマークでもあり社交場でもあるお稲荷さんは、村人たちの心のよりどころでもあった。

あるとき雨が降った。

雨は3日3晩降り続き、3日目の午後には大堰川も三俣川も濁流渦巻く暴れ川に変貌していた。こんなとき村民は集落で一番近くて小高いお稲荷さんに申し合わせるでも無く避難して来る。何世代も経験で培われた地元ならではの防災意識であろう。
「こりゃいかんな」
「このままやと家も畑も流されてまうで」
「お天道さんのする事や、言うてもしゃあないないやろ」
皆が腕組みし滝のような雨を見ながら途方に暮れていたとき、遠くの東の山から低い地響きが聞こえて来た。
「なんやあれ」
「なんの音や?」
そう言ってるうちにその音の正体は明らかになった。三俣川上流部の竹林や雑木林が次々に薙ぎ倒されるのが見えた。土石流だ。地を這い暴れ狂う龍が、巨大な岩石や大木をもてあそぶようにしてこちらに迫って来る。
「あかん!」
その恐ろしい光景を見た者は瞬時に死を覚悟したが、運良く流れは小高くなったお稲荷さんを辛うじて避け、より低く起伏のない方へと流れていった。しかし流れて行った先には八木村の集落があった。
「家が…」
瞬間にその辺り一帯の家々は飲み込まれ、次から次へと押し寄せる土砂に埋もれていってしまった。
そこの家の者だろうか、突然叫びながら走り出そうとする者があり、またそれをずぶ濡れで叫びながら必死に止める者もあり、お稲荷さんの境内は不安と狂気に支配されはじめていた。

家々を飲み込んだ大量の土砂はその先に合流する大堰川へと達していた。川の向こう岸は山なので、次から次へと押し出される大量の土砂や岩石、流木、民家の屋根などはその辺りでようやく勢いを失い堆積して自然のダムを形成する。轟々と流れていた大堰川の流れは溜まった堆積物を避けるように横へ横へと流れを広げていく。
江戸時代のこの頃、治水工事が隈無く施されていた訳ではない。まして城下中心地から外れた閑村など手付かずは当たり前で、河川は自然の流れのまま放置されている事が普通であった。八木村も例外ではない。

自然ダムのおかげで行き場を失った濁流は、より低い場所を求めてその圧力を高めていく。八木村の中心地に巨大な茶色く濁った湖が出現した。それでも上流からは大量の水が供給され続けるが水の逃げ場はなく、家々があった場所は完全に水没してしまっていた。水圧のエネルギーは一刻一刻大きくなりながら蓄積されていき、遂に水は一番弱い場所を見つけるとそこから溢れ出す。一旦切れてしまうと手の付けようがない。これまで溜め込んでいた莫大なエネルギーがその1箇所をめがけ集中し、再び狂気の水流となって溢れ出すのであった。

八木の中心地より少し上流に行った大藪という所でそれが起こった。濁流は東側に広がる田畑の低地へと流れていき、ありとあらゆるものを巻き込みつつ、地を這い暴れ狂う龍となった。そしてあろうことに再びお稲荷さんめがけ襲って来たのだった。あたりは濁流に飲まれ、逃げ道を完全に塞がれてしまっている。
「もうあかん!」
逃げ惑う者と腰を抜かして座り込む者が渾然一体となり、土砂降りの境内は阿鼻叫喚と化した。

龍の本体がお稲荷さんの丘めがけてまっしぐらに突進して来た。丘の下部に茂っていた竹林をばたばたと薙ぎ倒し、巨大な岩石をいとも簡単に転がしながらお稲荷さんの丘の斜面を駆け上がろうとする。耐え切れず斜面の土が崩れる。次々と山肌はさらわれて消失していく。崩れた部分は鋭利なもので切り落したような断面となり、緩やかな丘陵だった丘は切り立つ峻険な崖になってしまった。
避難していた数人と境内の半分近くがあっという間に消失し、ケヤキの生えてる境内の中心をも飲み込む勢いで荒れ狂う龍が迫って来た。爪を立て牙をむき出し、切り立った崖の足下で龍はこれでもかと暴れ回る。このまま激流の体当たりが続けば、お稲荷さんの丘がすっかり流されてしまうのは時間の問題のように思えた。

ところがどんなに激流が丘に激突し続けてもある一定の位置から丘が崩れる事はなくなったのだ。
少し冷静さを取り戻し不思議に思った村民が、恐る恐るその崖の下を覗き込んでみた。すると崖肌には巨大な一枚の岩石が露出している。この巨大な岩石の壁が龍の行く手を遮っていたのだった。突然現れた岩壁が救いの神となり、村民を守る最後の砦としてそびえ立っていたのだ。龍はそれからもずいぶん暴れていたが、そのうち雨が鎮まると勢いも少しずつ収まり、翌日には雨もやみ茶色く濁っただけの川へと姿を変えていく。

お稲荷さんは辛うじて流されずに済んだ。しかし土石流と大洪水に見舞われた村は、ほぼ全滅と言っていい状態となった。生存者の多くはお稲荷さんに避難した者達で、その翌日から家族や知人を捜索し、村の復旧工事にせいを出した。


ひと月後お礼参りに村人と役人がお稲荷さんに出向き、お供えと丁重なお祓いを済ますと、近辺の被害状況を詳しく調べて回る。調べるも無くまず驚くべきは、川の流れが変わってしまった事であった。
これまで流れていた場所から500メートルほど東にズレてしまっていた。お稲荷さんより500メートル西を流れていた大堰川は、今お稲荷さんの東側の足下を流れている。これまで田畠だった所を切り裂くようにして川が流れていた。以前の川底には水が溜まり、長い沼のようになっている。
濁流にさらわれ半分だけ残ったお稲荷さんは、奇跡的に祠と象徴と言えるケヤキの木が残されたが、鬼門を守る神を祀った祠と、鳥居や参道などが地面もろとも消失していた。
村民とお稲荷さんの丘を守った巨大岩壁の岩は、新しく流れる川面から突き出して、丘の頂上まで達している事が分った。見えてる範囲だけでも十数メートルはある一枚岩である。あれだけの激流にもめげずびくともしなかった岩は、川底に突き刺さっている部分も含めればいったいどれほどの巨石であるのかと、想像をたくましくせざるを得ない。
ケヤキの巨木は長時間の豪雨にさらされ、根っこの部分を一部露出させていた。その光景を見た人々は一様に絶句し目を疑った。驚いたことにその露出した巨大な根は、まるで鷹が足で大きな岩をむんずと掴むように伸びていて、まるでケヤキが意地でもここを離れないぞと言ってるように見える。

更に1年後の享保4年、人々は消失した参道を整備し直し、鬼門除けの神を祀る小さな祠を再建。直径2メートルほどの大きく平たい盃状の石を配し、遭難者の鎮魂と村の安寧、平穏を祈る祭りを以後毎年賑々しく催した。またこれまではお稲荷さんらしい木製の赤い鳥居だったものを、頑強な御影石製の鳥居に造り直した。新造され真新しく白く輝きそびえる鳥居を、村の人々はどこか誇らしげに眺めたのだった。

ケヤキがつかんでいる岩石の他にも、境内には幾つかの岩石が露出した。どの岩も波をうったような不思議な模様がある。村人はその模様がなんなのか推測し合った。あまりの激しい濁流に押しつぶされ、折れ曲がり、湾曲した岩石の成れの果てであると言う者があれば、いやいやあれは龍神のウロコが削り落ち重なって固まったものだなどと言う者もいた。おそらく古代より幾度となく土石流を起こした三俣川から流れて来た岩石が、この巨石によって出来た淀みに積みあがったものであろう。
この時八木の村に突然現れた龍神は、人間が爪に火を灯すようにして少しずつ整備して来た人家田畑、そして人命を一瞬にして消し去って行った。しかしその龍神でさえいつもどうしても駆逐出来ないのがこのケヤキのお稲荷さんの巨石だったのではないか。村人はそれゆえお稲荷さんを頼りにし、信頼し、信仰し続けた。と同時また必ず龍神は報復しにやって来るのだと語り合い、父は息子に、母は娘にと代々自然の脅威を忘れてはならぬと伝えて来た。実際に龍はその後も姿形を変え何度となくこの八木村を襲っているが、お稲荷さんだけはいつも無事であったのだ。
お稲荷さんはその後も長きに渡り村人旅人の憩いの場であった。そして南丹市八木町となった今でもあのケヤキは悠然とその勇姿を誇っている。しかし現在お稲荷さんの境内はいつも人影がなく、脈々と伝えられて来た筈の悲惨な水害の教訓を町の者が語ることすらなくなってしまった。どうやらお稲荷さんの存在など町の者の意識から、すっかり消滅してしまっているらしい。

お稲荷さんは現在
クロズミさんと地域の住民に呼ばれている


雨の降り続く日は
今もその小高い境内に立ち
よく耳を澄ますが良い
今もなを深山に屏息する
竜神のうめき声が聞こえてくるだろう
大地が霞み
雨霧に全てが白くなろうとする
その境目に目を凝らすが良い
そう 淫雨の奥深く
虎視眈々と狙う龍神の碧眼が
こちらを伺っていることに
気付くはずである

※ 一部物語はフィクションです


そもそもこの丘に何故お稲荷さんが祀られたのか。大いに想像を膨らませてみよう。
お稲荷さんと言う呼び名は稲荷大社創建以降なので、8世紀以前ここはまた違う呼び名だったはずだ。
そして更に遡り人間さえもまだいなかった古代、人間如きの想像をも絶する未曾有の巨大な水害で遥か三俣川上流から流れ出た大岩は、いずれ八木になろう場所に腰をおろした。神々がようやくこの地に人類を配した後人々は、この場にあったこの大岩を見て、その威風堂々とあたりを払う姿に神を感じ、ここを信仰の場としたのではないか。
普段流れのないこの三俣川は、その上流部が急峻であるがゆえに、山々に降り注いだ雨水を集中的に集め、岩石などを含む土石流を起こしやすい。そういった水害をくり返しその時々の土砂は大岩を埋めて丘のようになったが、人々の恐怖と信仰心が埋もれる事はなかったのではないか。現在三俣川の最上流にはダムが作られ、廻り田池を形成している。大堰川上流にも大規模な日吉ダムが出来、この排水調整により災害は劇的に減少、八木の現住人は安心して生活する事ができる。

序章でも書いた通りこのお稲荷さんは現在、御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、または宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)であり、それを主祭神とする伏見稲荷大社の稲荷大明神を祀っている。また同町内西田に鎮座する住吉神社のお旅所でもあった。お旅所とは、祭礼のとき神輿を本宮から移してしばらく安置する場所のことを言う。更に明治以降には黒住教会堂が立っていたとのこと。そのため現在地元の人は今はここを親しみを込めて『クロズミさん』と呼ぶ。

その後大堰川はやはり定期的に氾濫を繰り返した。その都度八木の集落は水に浸かったが、クロズミさんが流される事は1度たりともなかった。また川の流れが現在より西寄りにあった事は、地元の古い人間であれば伝え知る事実として語られる。現在クロズミさんより少し上流に、川を挟み北広瀬と南広瀬という土地がある。ここはまだ川が西寄りにあった頃、広瀬というひとつの在所であったが、大堰川の移動により南北2つの在所に分断され今も地図に記されている。


江戸末期に愛宕参りが流行し「あたごみち」と書かれた多くの道標が幹線道路に敷設された。クロズミさんから南に100メートルほどの場所にもこの石造りの道標が立っている。クロズミさんはその愛宕道沿いにあった。今も小高い丘の上から川の流れと町並み、そして広々とした田園風景を眺められる場所だが、その昔はこの幹線道路を行き交う人々も多く、大きな木陰で旅の疲れを癒す旅人や、その旅人に屋台で癒しを提供する者など、クロズミさんの境内はそれはそれは賑々しかったのだろうと想像する。

享保3年から300有余年、現代の南丹市八木町のクロズミさんであるが、祠は縮小され御影石の鳥居は片柱のみが残り、石の巨大盃は地面に放置されたままになっている。盃状の石の由来が書いてあろう立て札は、恐らくそう古くない最近に立てられたものだろうが、風雨と紫外線のせいか文字の姿がない。今や祠を訪れる人も少なく、褪せた色合いの小さな社殿がなんとももの悲しい。

しかしあのケヤキの木は今も生き生きとその勇姿を誇っている。幹周りは4・7メートルもあり、高さは20メートル程ある。そしてその根は今ももちろんしっかりと岩石を掴んだままである。岩石の不思議な模様も現地に行けば見ることが出来る。ケヤキが大きく広げる枝葉は、今も境内全体に神秘的な陰と湿気を醸し出していた。
境内の裏手は今も崖になっている。大岩の全容は現在コンクリートに阻まれ一部しか見ることはできないが、その急峻な斜面と高さは、神々しくもたくましい一枚岩の姿を想像するに易い。


今も町中の路地を行けば、建物の間から黒々としたケヤキの盛り上がりがその場所を明確に示している。そちらに進めば今も大堰川が迎えてくれるのだ。クロズミさんの丘を利用して現在の土手が造られているので、参道は必然的に土手になる。牧歌的な堤を歩くとクロズミさんの境内が見えて来るのだが、現状は今や悲壮と形容してもよい状態である。樹齢4~500年と言われるケヤキの木の嘆きが聞こえて来そうだった。

そしてやはり目を奪われるのが片柱だけが立つ一本石鳥居だ。近付いてみれば横に渡す石柱を通したであろうほぞ穴が空虚にぽかりと空いている。享保4年という年号は別資料にて調べたもので「石鳥居に刻まれている」となっていたが、現物で確認した所、享保の文字は見付けられなかった。しかし一本石鳥居に刻まれた「八月~」の文字はある。その消えかけた刻み文字が痛い痛いとこちらに訴えかけるようだった。


(2011年著 一部改定2024年)