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正偽の見方

[9764 文字]
◆怒り氏がやって来た。
見るもの触れるもの全てをけなし、全てに怒声を浴びせ、完膚なきまで怒りの対象を叩きのめす、というのが氏の印象である。そんな風に怒り氏の事を遠巻きに見ている御仁は多かろう。しかし怒り氏が常に怒っているかと言えばさすがにそうではない。氏の中ではちゃんと怒りの矛先を選別しているという。少なくとも本人はそう思っている。しかし残念ながらその表情は常時眉間にしわが寄り、口角は下げられるだけ下げ、肩を怒らせ鼻息は荒いので、いつも怒っている様にしか思われないのであるが、そんな印象のまま居酒屋でも職場でもSNSでも、若者一般や政治家、スポーツ選手などをこっ酷く誹謗するので非常に印象が悪い。
怒り氏は正義感が強く大変生真面目な性格なのである。怒り氏が怒るのは自身の思うに任せない場合と、怒り氏の正義から外れる場合である。氏の正義が何かは不明なのだが、その正義が思うに任せないとなった時最悪な状況になる。怒り氏は自身の怒りで更に怒りを煽り、その悪の対象を次第に膨張させついには巨悪の権化のようなもへと変身させてしまうのである。
この本人が虚飾に虚飾を塗り重ね作り上げた巨悪の権化に対しては、もう異常としか言えないほどの執着と憎悪を示す。意識の全てをこの巨悪に傾け、それがウソでもホントでもこれを憎み、その事実がなくても必ずそうなるに違いなしと決めつけては激高し、その影を見た気がすると言っては胸糞悪しと悪態をつく始末。言わば誰かれ構わず言いがかりをつけるチンピラと何ら変わらない。つまりこれは巨悪なんかではなく氏が怒りの矛先の理想とする悪の虚像であり、それに抗う正義の自分という構図にただ酔いしれていると言っていい。

◆無関心氏もやって来た。
氏は目の前でどんな事件や事故が起きても何も見なかった事に出来るという特異体質の持ち主である。常に自分自身のペースを一定に保とうとする氏は、うろたえた様子を他人に読み取られないようにいつでもどんな時でもあたかも冷静を保っているかの様にして無表情に徹している。その見た目の血の通わない気味悪さがすこぶる不評を呈している事は本人も薄々気付いてはいるものの、それ以外の表情を無理して作り披露する意味を全く感じていなかったのだ。氏はそんな事よりもっと重大な事に神経を削っている気になっている。感情が乱れる様な突発的な出来事が起こらないようにするのが氏の使命である。その基本が1ミリもミスしない自分自身であった。自らミスをして慌てふためくという道化を演じたくないし、その自分のミスで世間を騒がせ注目を浴びるような恐怖は味わいたくないのである。なので氏は日頃から自らの行動を完全制御する作業で全神経を削っていた。そして世の中が事件や事故でどんなに紛糾していようが、いつもゴム製品で作られたような顔をして動揺を見せないようにいている。またそれが知的で大人であり、何よりそれが正義だと信じて疑わなかった。
しかし生きていれば誰にだって大小の差はあれど事件や事故に否応なく巻き込まれる事がある。例えば満員の通勤電車でしたたか足を踏まれたとしても、それでも氏は全く動じずに知らん顔をし続けるのだ。もし踏んだ相手が気付いて「あ、ごめんなさい」と素直に謝って来たとしても、氏は足を踏まれたこと自体を否定しているのでその謝罪を無視せねばならない。もし足の小指の骨が粉砕されていようともせいぜいツンと正面を見て目を合わさず「いえ大丈夫」と小声で言うのが正義なのだ。
氏は平和をこよなく愛する自分を愛してやまない。そんな平和主義者を誰も非難することは出来ないと高を括っている。ところが万が一「ちょっと君」などと他者から自分に向けて非難の影がチラリと見えただけでも氏は精神を一気にかき乱され、自死さえも厭わない心地となり、非難されるくらいならひと思いに屋上から飛び降りてやろうかと夢想だけはしてみる、という極めて脆弱な精神の持ち主でもあった。

◆知ったか振り氏に出会った。
氏は異常な自信家でもある。基本的な常識やトリビア的なプチ知識も身に付いていて、たいていの事だったらお答えしますよというスタンスをそれとなく自身の周りに吹聴し続けるという変わり者である。当然そう誇示するだけの知識は持ってはいるが、知らない事も勿論あり、これに対処するため超高速検索スキルも持ち合わせている。もちろん自分に答えられないことなど何一つない、というような身の程知らずは流石に自ら公言しないが、本当は心のどこかでオレ様は何でも知っていると世界中に叫びたい思いを秘めているので、検索して今知った事をついつい前々から知っていたように話してしまうことが多々ある。知りたいと思う人へ即座に答えを授ける事は氏にとっては正義なのであるそのくらいの嘘は大目に見るのである。
大目に見る事が少々行き過ぎて、お答えする事が三度の飯より大好きとなり、お答えしてる時の排泄に近い快感と、お答え終わった時の感謝や褒め言葉に浸る快感の中毒から抜け出せずにいるのだ。その寄せられた感謝の言葉のほんの一部は正真正銘心からの偽りなき感謝であったが、しかしその他のほとんどが社交辞令や、もうこれ以上語らせない為の口封じ代わりに言われている偽感謝である事を氏は知らない。知りたくもない。
そして今夜ももし誰かが「これってどうなってるの?」などと一連の会話中に口を滑らそうものなら氏は待ってましたとその語尾も終わらぬうちに「それはね」と水を得た魚の如く語り始めるという習性を臆面もなくひけらかすのであった。そのお答えは容赦なくこれまで滔々と流れていた会話の流れを無遠慮にせき止め、別に聞きたくもない本当の話を延々と解説のダムへと貯め込んでいき、その場に運悪く居合わせたものは全員ダム湖底の藻屑と化してお答えの濁流に埋もれ窒息してしまうのだった。
氏はそれでもこれは善意で行っていることであり、世の正義だと信じて疑わない。お答えに窮して困っていた人をたまたま見かけ、たまたま知っていたことをお答えしたまでと嘘ぶく。実の所はお答えする快感を探し夜な夜な暗闇を徘徊しているのであるが、そういう事実だけは決して口が裂けてもお答えしないという矛盾も氏自身の中に秘めているのであった。

◆意志薄弱氏もやって来る。
氏はいつもとにかくヘラヘラしている。本人もこのヘラヘラには気付いていて、これがやめられるものなら今すぐにでもやめたいと常に思ってはいる。しかし右方より今日は天気が良くて気持ちいいという人が現れれば「いやホント気持ちいいよね」と答え、左方から酷く暑くて嫌になる!と言われれば取って返す首で「もう暑くて嫌んなるよ」と言ってしまう。その矛盾した問答に自らの表情を選別する事さえ叶わず、両者に向かってついヘラヘラと苦笑いを向け精神的逃走を図るのであった。
氏は当然それを良かれと思ってやっている。意見を述べる人に向かってあえてこちらから反意をぶつけ、せっかく和んでいた話題や空気をかき乱す必要はないと考えているからだ。かと言って氏に自我の意識や意見がない訳ではない。もし氏が違う事を考えていたとしても平和を乱す事の方が罪深いのだというのが氏の正義であった。
少し正直を言うならば自分の意見を強く言う程の自信も無いのが本当の所でもある。しっかり考えて意見を述べればいいものの、氏は周りの意見に振り回されるばかりで、自身の考えをまとめる時間も根気も全て他人の意見に振り回されることへと浪費してしまうのだった。
その悪循環の原因の一つにいつも幼い妹の嫌われたくないちゃんが氏の袖を引いていたせいもあるだろう。2人だけの時はとても穏やかににこやかに時間は過ぎるのだが、いざ他人がやって来るとなると嫌われたくないちゃんが怖がってしまい保たれていた平穏は乱される。氏は幼い妹の嫌われたくないちゃんが怖がらないように場の空気をなるべく平穏に、相手の心証をかき乱さぬよう細心の注意を払うのであった。
そんな氏が一番恐れるのは意見を求められる時である。意見がない訳ではない。ただ意見を述べて万が一先方が激高でもしようものなら嫌われたくないちゃんが怖がるだろうと思い、それを言うのをはばかっているだけなのだ。なので常にこの場の空気を牛耳る最大勢力に加担しつつ目立たぬようヘラヘラとだけする、それが氏にとっての最大の正義であった。そしてまた嫌われたくないちゃんと手を携えて人気のない所を探して歩くのであった。

◆意志薄弱氏には優柔不断氏という弟もいる。
弟だけに優柔不断氏も意志薄弱氏とよく似たヘラヘラ笑いをするが、少々軽めのヘラヘラ笑いという印象である。氏のヘラヘラは口癖の「いいよいいよ」とか「OK!OK!」といった簡略的且つ軽薄な肯定と共にされる事が多い。一見すれば器のデカさや爽やかさといったポジティブな印象を持ちそうになるが、2~3言の会話でそれが怪しいという事に気付かされる。
優柔不断氏には年の近い妹の嫌われたくないちゃんが居るが、この妹は前述した通り長兄の意志薄弱氏にべったりで、優柔不断氏にはあまり寄り付かない。優柔不断氏は兄の様に妹をかばったりはしないからだろう。妹より兄の意志薄弱氏とよく似ていると言われる氏であるが、一番似ているのはそのヘラヘラ笑いで、次に自分の意見を言わないという所であろうか。言わないのではなく言えないのだけど。兄と明らかに違うのはその明るさである。とにかく氏は暗い雰囲気を大変嫌う。同じヘラヘラでも兄がネガティブなら氏はポジティブなヘラヘラなのである。優柔不断氏は重い雰囲気を異常に嫌悪し、それは全ての人もそうであると信じており、都度の話題などは関係なくそういった暗い要素は排除するのが正義であると考えている。それは時に場違い発言も産んだりして場を凍らせてしまう事も度々だが、肝心の本人はなぜ今一瞬時間が止まったのかと思う程度にしか感じられないのだった。
他人が提示する話題の中身に関心がないので、誰に何を頼まれても「OK!OK!」と安請け合いをする。必然ドタキャンしたり失念したりして目的が達成されることはほとんどない。今さえ明るく皆が楽しく過ごせればそれで最高というその場主義な氏のやり方ゆえである。氏の本性を見誤り何かを氏に頼んだり氏と約束した者はたまったもんじゃなかった。しかしその他人の痛み以上に氏は己の正義が前に立つと思っている。なのでいつも「また今度やっとくよ」「そんなに熱くなるなよ」「心の狭いやつだな」などと益々先方の琴線を乱しまくる発言を繰り出す。ところが氏には悪意がないという。氏はこういった関係をフランクな良い関係だと思い込んでいる節がある。全てをヘラヘラヘラッと笑って済ます事が出来る大変健康的で良好な関係だと信じて疑わないのだ。

◆自慢氏に見つかった。
氏は辺りを見回しては氏より弱い立場の者を照準に据える。満面の笑みで獲物と目が合うのを待つのだ。運悪くその視線で囚われた者はメデューサと目が合った如くその場に凝固化し、氏はまるで人畜無害の様な顔を携えて近づいて来て「最近どう?」などと会話の呼び水を投げて来る。しかしその言葉には相手の様子を伺う意味などは全くなく、その証拠に返事を返せない間髪で再び氏が話し出してしまうのだ。「いやぁ、まったく参ったよ」と始まるとそれはもう止まらない。まるで何十何百という舞台を経験した講談師の如く己の武勇伝を流暢に、そして長々と語り始めるのであった。氏の話によれば氏に関わる同僚や部下、上司に至るまで全員の能力は非常識的に低く、または氏の能力が大変高かったため氏が居なければ何一つ上手くいかなかったというものが全てであった。「だからいつもオレが言ってるだろ」「オレの言う通りにしときゃ問題ないんだ」「あれはオレがやったんだ」「まぁ自慢じゃないが…」「オレが居なかったらどうするつもりだったんだ」これらの氏の口癖は呼吸をするより滑らかに語られ、聞いている者を呼吸困難に陥れた。
氏は自分の功績を語りながら実の所途中からそれを人に話している事を忘れ、かなり事実とはかけ離れているであろう仮想の想い出を自分自身の優越感にだけ聞かせて酔うのである。そうなのである、氏は全くウソをついている自覚がなく、事実そのままを記憶に沿って語っていると思い込んでいるのだった。まるでこの世の成功例は全て氏が仕組んだ事か、または入れ知恵か、または助言してやった事のようにして語り、そして逆にこの世の失敗例は全て氏の助言を聞かなかったせいであるが如く嘆くのであった。そして何故かいつもそれらの自慢は周りをはばからず、たまたまその付近に居合わせた赤の他人の耳にも届く大声で語られるのであった。それは明らかにその赤の他人達にも聞かせるつもりで語っているのだろう「俺は凄いんだぞ」と。
褒めてもらいたいだけなのだろう。すごいですね!と言われることで自分を鼓舞し、褒めてやりたいのだ。数多の実績ある自分に任せておけば大抵の事は大丈夫だと言いたいのだ。結果はどうであれとにかく誰かに頼られたいのだ。氏は安心して自分と付き合えばよいと言っているのである。それはつまり自分は寂しいのだと言っているのに等しかった。一人にしないでくれと言っているのであった。しかし人が人をつなぎとめる方法は他者から敬意を得る事であり、それは自分を強く大きく見せる事だと信じて疑わないのであるが、実際の所そんなに自分は強い訳ではないという事はさすがに知っている氏である。なので少しだけ、ほんの少しだけ話を盛っている意識もある。それで人が寄って来てくれて、尊敬してくれて、慕ってくれれば自分の人生は完成だと信じているのだ。それが人間の普通の感情で自分は正直に生きているのであるとも信じ込んでいる。しかしそれは猿山の猿にも劣るただのマウント本能に過ぎない。

◆陰口氏には気をつけろ。
氏は自分より社会的地位が高い者に対する腰の低さは尋常ではない。にもかかわらずどういう訳か彼らのいない所で彼らに対する否定論を恐ろしい剣幕でまくし立てるのだ。上下左右前後に本人が居ないことを確認すると「あんなやり方じゃ上手くいかない」「現場が見えてない証拠なんだよ」「あれで経営してるつもりだから困る」「横暴な権力主義者だ!」などと陰口は激しい。まだその場に居合わす者も互いに同調意識のある冗談レベルならいくらかは調子を合わせる事も可能ではあるが、氏は陰口が過ぎて悪口から罵倒へと変化してしまうので皆引いてしまいとうとう誰も追従できなくなってしまうのだ。
更に悪い事に氏は権力者に限らずその場に居ない者であれば誰かれ構わず非難したり悪い噂を流したりしてしまうという悪癖の持ち主でもあった。それを聞かされる者は相槌も打てず否定もしにくく、ついには行き場を失ってその場で干からびる他ないという。また視界に陰口氏が居ない場合、どこかの物陰で自分の酷い誹謗中傷を誰かに語っているのだろうと容易く想像が出来た。
大圧力や悪に対し抗する姿勢は正義そのものであると氏は信じている。大きな権力で悪行三昧を呈する者らにとって耳の痛い部分を大いにやり込めていると思っている。氏は地下に潜る抵抗勢力の先頭で、旗を振る革命家のつもりかもしれないが、他から見ればタダの陰口氏なのだ。
氏は自身の事を明るい性格だと誤評価している。誰とでもすぐに打ち解け合い、ずっとおしゃべりをして盛り上がっていられるという大いなる勘違いをしている。しかしそれは本人の知るところではない以上氏には悪意のかけらもない。むしろその場を盛り上げて良い事をしているぐらいにさえ感じているのだ。今後もどんどん人と楽しくおしゃべりして、どんどん盛り上げて、みんなでもっともっと幸せになろうと思っているかもしれない。しかし氏はいずれ居場所を失い孤独になって行く。そして場所を変えて今度こそはと気合も十分、益々その場を盛り上げてみんなと仲良く幸せになろうとするのである。そうやって自らの悪評を広げてしまうのだった。

◆完全無欠氏に会いに行った。
とうとう疲れ果ててしまい、より常識的でより建設的な世界を取り戻すため試しに完全無欠氏の居場所を探し、この惨状を訴え助けを乞おうと考えてみた。

最初に怒り氏に完全無欠氏の居場所を尋ねてみた。「お前は相変わらずの低脳野郎だな」といきなり罵倒された。「結局完全無欠氏におんぶにだっこで、お前は何一つ努力なしに楽をしようって考えなんだろうが」と。そんなつもりはなかったのだがそう言われればそうなのかもしれない。言い返す事もなく黙っていると怒り氏は「フンッ!」と鼻を鳴らして行ってしまった。

とぼとぼと歩いていると向こうから無関心氏がやって来た。挨拶しないのも変なのですれ違う直前に「久しぶり」と言ってみた。ところが氏は視線も合わさずスタスタと通り過ぎようとする。先ほど怒り氏に罵倒された直後でもありちょっとイラっとしたので、通り過ぎざまに氏の腕をつかんでこちらへ強制的に向けさせてみた。「おや、気付かなかったな」と明後日の方向を見ながら氏のわざとらしい発言だったが、無関心氏らしいと思うようのしてそれには触れず、完全無欠氏の居場所を尋ねてみた。しかし無関心氏は「さぁ」を繰り返すばかりで全く要領を得ない。何を聞いてもツンとしたゴムの表情で目も合わさず「さあ」を繰り返す。

益々イライラしている所へ背後から「知ってるよ」と言って突然知ったかぶり氏が現れた。なんせ知ったかぶり氏のいう事なのであてにはならないのだが暖簾に腕押しの無関心氏より少しはマシかもと思い一応完全無欠氏の事を尋ねてみた。「完全無欠氏の事だから無駄な場所にはいない筈さ。きっと一番居なきゃいけない所に居るに決まってる」別のイライラが加算された。答えになっていないと言うと「僕のお答えが違うというのか?!」と軽く逆ギレされてしまった。もう一度どこに居るのかと聞いてみた。「君に中にも居るはずさ」やかましいわ!

そこへ丁度意志薄弱氏が通りかかったので無理やり引き留めて、君はこの知ったかぶり氏の言い分をどう思うよ!と尋ねると、氏はヘラヘラと気味の悪い笑みをたたえながら「知ったかぶり氏の言うことだしね…」と力なく答えた。それを聞いていた知ったかぶり氏がそれはどういう意味か言ってみろと意志薄弱氏に詰め寄った。「あ、いや深い意味はないかな…」などと適当な事を言うので「君はどっちの見方だ!」と知ったかぶり氏と共に声を合わせると意志薄弱氏の背後で小さな女の子が鳴く声が聞こえた。氏は背後をかばうように「ぼ、僕はたまたま通りかかっただけで、じゃあもう行くね…」とヘラヘラと逃げるように行ってしまった。

知ったかぶり氏は自分が知っていたことをどうしても証明したいらしく、ゴソゴソとポケットからスマホを取り出した。優柔不断氏ならきっと味方になってくれる筈だと思ったのだろう、直接聞く事にしたらしい。スピーカーにしたスマホの電話口に出て来た優柔不断氏の声は明るい。「やあ久しぶり!なに?」「完全無欠氏の居場所なんだけど、彼は居なきゃいけない所に居るに決まってるよな」と知ったかぶり氏。「ああそりゃそうだろうよ」ほら見ろという顔を知ったかぶり氏が向けて来たのでスマホを取り上げ、「居なきゃならん所って、それは具体的な居場所を知ってることにはならんだろう」と電話口に言ってやると「それもそうだね、知ってることにはならんよね」と真反対の事をケロリと言い放つ。おいコラ!と激高気味の2人をしり目に優柔不断氏は「おいおい君たちは相変わらずだな」知ったかぶり氏が何が相変わらずなんだと聞くと「2人とも心が狭いんだよ。じゃあまた話そう」と言って早々に電話を切ってしまった。カチンと来た。

「よう、どうよ最近」と言いながら現れたのは自慢氏だった。たまたま通りかかったという。「オレがたまたまここを通らなかったらもう一生完全無欠氏とは会えない所だったぞ」と肩をポンポンと叩くので益々カチンと来ながらも、居場所を知ってるのかと聞くと知らないと言う。じゃあ何なんだと聞けば「昔オレが同窓会の幹事に頼まれて恩師の居場所を探してくれと泣きつかれた時の話したっけ?それと同じよ」全く何の話か分からなくなってる内にいつの間にか知ったかぶり氏は姿を消していた。逃げたか?!と思ったが、ちょっと性格が似ている自慢氏の事が苦手だったのかも知れない。「結局このオレが1級前の連中に聞いてみろと言ったから解決したんだが、オレが居なかったら同窓会は出来なかっただろうな」だから何の話だ!そんな話はどうでもいいのだ。完全無欠氏の居場所だと言うと自慢氏は「だいたい完全無欠氏があんなに皆に慕われるのもオレのお陰で…」と全く的を射る様子がないのでこちらからその場を脱した。

するとそこに陰口氏が立っていた。「ずっと陰で聞いてたよ。酷いね皆、怒り氏は頭ごなしに人を怒るし、無関心氏は一切我関せずでツンツンしてるし、知ったかぶり氏に至っては自分の正当性しか口にしない。意志薄弱氏も優柔不断氏も自我というものが全くない返答ばかりで、自慢氏に至ってはお話にさえならん。君も辛いところだね」そこで無駄と知りつつもこの陰口氏に完全無欠氏の居場所を尋ねてみた。「居場所なんて知らないよ。知ってどうするんだよ。だいたい完全無欠の野郎ってさ、いっつも何一つ間違っていませーんみたいな顔をしやがって、自信満々に生きてるああいう感じのヤツってなんかムカつかね?無欠って言うけど無血のほうなんじゃねーの?」と悪口が止まらなくなったのでもういいわと言って別れた。

◆完全無欠氏はその直後に現れた。
氏は教会に居たのだ。確か前回会った場所はモスクで、その前は寺の本堂だった。氏は一人じゃなく何人かいるのかも知れない。氏はあまりにも尊いので何千年も前から多くの人に崇められ尊敬され手本とされた。氏について書かれた本も大昔から世界中にあるが、完全無欠氏が尊ばれ過ぎてその本でさえ誰として踏んだり燃やしたり出来ないほどである。それは氏があまりにも完全無欠で超越的で宇宙的でもありカオス的でもあるからであろう。
しかし完全無欠氏を崇める一部の信者氏が時々暴走し世界は恐怖に陥る。信者氏は完全無欠氏を馬鹿にするなと言っているだけだったが、次第に過激になる事がしばしばあったのだ。
そしてそんな時いつもしゃしゃり出て来て話をこじらすのが正義氏である。

◆問題児の正義氏。

正義氏のいう事はいつももっともらしく、これを信じる信者氏は少なくなかった。しかし落ち着いて客観的にしっかり見ると、実は正義氏が双子である事が分かる。なんと正義氏に対抗する側にも似たような正義氏が居るのだ。双子で見分けがつきにくいので彼らは自陣に居る方が正義氏であり、対抗側に居る方を敵氏と言っていた。そして互いの勢力は互いが信じる正義氏を祭り上げては、相手の敵氏を罵倒するのが慣例であった。
完全無欠氏がそういった状況を望んだ訳ではないだろうが、一部の信者氏は完全無欠氏を極端に崇めるあまりにそれ以外を認める余裕を失っているのであった。つまり敵を認める余裕がないのである。敵とは前述の通りまた別の正義の事である。

あなたの正義以外の敵とは怒り氏?無関心氏の事であろうか、知ったかぶり氏の事?意志薄弱氏に優柔不断氏だろうか?それとも自慢氏?陰口氏?それとも臆病氏、見栄氏、貧乏氏、性欲氏、酒氏、仕事氏、不眠氏、これ以外のもっともっとほかの誰かだろうか。
彼らを疎ましいとか不快、煩わしいと思う心の多くが実はあなたの中の正義氏の仕業である。正義氏は常に周りと自分自身を厳しく見張り、それが正義氏のモノサシに叶うかどうかを監視し続けている。正義氏は不公平を嫌い考え方が違う者を不正義と捉えるのである。そして私は間違っていない!相手がおかしいのだ!これは正義だ!と思ったとたんに人は正義氏の虜になり自制を失い敵氏を責め立てるのである。これは別に完全無欠氏の信者氏に限ったことではない。正義氏の名のもとなら何をやってもいいと勘違いしてしまう、人間にありがちな恐ろしい常態だ。
そうなる前に一歩留まり一呼吸置いて考えてみるといい。相対する側にも双子の正義氏が居て、その虜になっている者らがこちらへ憎しみの視線を送っているんだと。所詮正義氏はともに双子、表現が少々違うだけで言ってることはほぼ同じだ。
怒り氏にも無関心氏にも知ったかぶり氏にも意志薄弱氏にも優柔不断氏にも自慢氏にも陰口氏にも、みんな全員に正義心はあって、自分は間違っていないと思っている事を忘れてはいけない。どんなにウザくても面倒臭くても正義氏の後ろ盾なんかに頼らず、自分の素直な判断で行動する事である。悲しければ悲しめばいい、残念であれば落胆を示せばいい、全てを怒りで表す必要はないのだ。これが正義である!と思った時点で、それは決して正義ではないという事を肝に銘じよ。正義という都合のいい免罪符なんて何処にもありはしないのだ。

一番厄介なのはやはり皆の中にある正義氏であろう。