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裸の14歳

[2222文字]

全ての人は14歳にハマった事を信じていい。
14歳という年齢が限定的では決してないが、
ここでは象徴として14歳と表記している。
そしてそんなに外れた年齢でもないだろう。

14歳。
芽生えたばかりのその自我の持って行き方もまだ分からず、
たいていの場合は喜怒哀楽が過剰な反応を示す。
自意識過剰な上に防御という概念がまだないので、
なんでもない事でも簡単にグサリと突き刺さってしまう。
中2病とか厨房とか揶揄される年ごろの人間は真っ裸に等しい。
これは考え方によっては素晴らしい事であり、
貴重で不可逆性の短期特権と言ってもいい。

よく思春期のココロは繊細だと表現するが、
ココロは恐らく経験を積んだ方が豊かになり、
あらゆる機微を感じられるような繊細さを獲得するには、
それなりの年齢に到達してからではないかと思う。
若いうちは繊細というより単に無防備なのだ。

無防備という事が何かというと、
ココロを守る術を知らないということ。
身の回りに布石を置かず、
妙なフィルターなどもかけていないという事だろう。
経験で得られる意見や偏見がまだほとんどないくせに、
外からの刺激には敏感に反応してしまう年ごろだ。

大人になるとその経験から変に疑い深くなり、
予め石橋を叩いた上に布石を置いてみたり、
身を守るフィルター越しに他者と笑顔で接触したりするものだ。
サングラスもサンバイザーもせずに、
真夏の太陽を直視する様な無防備さを人は笑う。
確かに危険ではあるが、
聞かされただけの耳学問ではなかなか身につかない。
一度は直視してみないと分からない。
だからやってみるのだが、
その様が中二病だとか厨房だと揶揄される所以である。

敏感なくせに無防備で真っ裸なココロで歩いている。
それ故にその頃にしか刺さらない刺激というものもある。
街でたまたま聴こえてきた音楽、
漫画本の隣にあった小説、大人と一緒に鑑賞した映画やドラマ、
絵画、写真、科学、ファッション、ゲームなどなど、
どうだろうか、
時代背景もあると思うが思い返せるものがないだろうか。

僕などは人様より単純に出来ているという事もあり、
未だに14歳の頃のあの刺激が忘れられずにいると言ってもいい。
激しい感動をもたらしたあの「何か」を、
未だに自分の作品にも求めている節がある。
もちろんその後にも多くの優秀な作品に出合い、
大いに感動も得て模倣も繰り返した。
しかしその感動や模倣の最も基礎となる部分は、
裸の14歳が得たあの感動であり、
全ての感動の礎になっているようにも思える。
大人になった今はもうあれを超えることは出来ない。

誰しも14歳の時にビッグバンの様な感動に出会ったはずである。
14歳は次もまた同じ感動、同じ刺激を味わいたいと願って、
その近辺を探したはずである。
きっと似たような感動はあったと思うが、
いつも初回を超えられずにいたんだと思う。
悔しさも含まれたりしながらそれでもまた繰り返す。

その内そのこと自体が身についていることに気付く。
楽しいとも思えるし友人より上手に出来たりもする。
人に褒められたり賞をとったりもしたかもしれない。
それを一生し続けたいと思うが、ある日、
それではきっと生きて行けない、食っていけないと知る。
その辺りから無防備ではいられないことを覚えるのだろう。

僕の場合は考えが甘いだのバカだの言われつつも、
とうとう音楽の道を選択したのだが、
多くの賢明な人らは踏みとどまり進学や就職を選択した。
更にその中の多くに「やりたいことがない」と訴える人がいる。
これらの人にも必ず裸の14歳の時に感動した「何か」があるはずだ。
この人たちはひょっとすると僕なんかより、
もっと多くいろんなものに感動した人たちかもしれないと思う。

感受性が豊かであればあらゆるものに気持ちが奪われる。
そういう人はこれはというひとつに絞れなかったのではないか。
又は親の問題や健康の問題など、
本人由来ではない外的問題によって疎外されたのかも知れない。
しかしそういう子ももちろんみなと同じ14歳の潜在能力を持っていた。
ただ単に発揮する機会を失っていたに過ぎないのだ。
何故なら人間の14歳なら間違いなく全員無防備なのだから。

ならば自分の中二病を思い返せばいい。
再びそれを掘り返してやってみることが先決だ。
それがアイドルを追っかけるでもいい。
野球をやるでもいいし、走るでもいい。
いたずらを仕掛ける。皆を笑わす。一人で妄想する。
食いまくるでもなんでもいい。
そしてこれを消費的にしないようにすればいい。

つまり生産的にするのだが、
生産的とは?とどうすればいいか分かりにくい。
無駄に追っかけてり走ったりいたずらしたり食っても意味はあまりない。
世の中の仕事や芸術が生産的であるように、
それらも生産的にやればいいのだが、
生産的にと言われても小難しくなり分かりにくいので、
対義語の「消費的」にならないように心がければいいと思う。

恐らく今好きな仕事を勝ち取って続けている人々はもれなく、
その仕事へのトリガーが14歳時に既にあったはずである。
それはその人たちに限らず、全14歳に起こった事件である。
14歳以上のみんなに起こった人生の事件である。
老若貴賤を問わず、全ての人は14歳にハマった事を信じていい。