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鉄ちゃん論

[3662文字]

僕はいわゆる「鉄ちゃん」ではない。鉄道のことなど何も詳しくもないし、ホームに電車が入って来るシチュエーションで、どうにも写真を撮らずにはいられないという衝動にも、走り出した電車のモーター音に思わず這いつくばって床に耳をくっ付けたくなる気分に駆られたこともない。

だが例えば世の女性の92.3%(私感調べ)が「ヨガ」と聞いて興味はあれど、じゃあすぐやってみよう!というのではなくて、なんとなく気にはなるんだけどという程度の、ちょっとだけ関心があるというレベル。薄っぺらい関心こそあれど決して積極的ではないもの、とでも言うそんな程度の興味具合が多くの世の男性が感じる鉄道というものに注ぐ興味レベルなのではないだろうかと思う。
鉄女に表されるように最近では女性の鉄ちゃんも世をはばからず露出し始めたが、それはやはりまだまだテレビやネットで希少価値と怖いもの見たさの世界の事であり、現実の僕の身の回りには鉄女を表明する傑女はまだ現れていない。

そういった鉄女も含め世の鉄ちゃんらが嬉々としてその世界を語る時、生気みなぎるその手振り身振りから、純粋無垢な少年(ここは女性であっても少年)の笑顔にあふれる様な「楽しい!」を見るにつけ、つられて嬉しくなってしまい気付けば現実をほんのひと時忘れ去っていたと感じるのは大変好きなのである。

僕は「鉄ちゃん」ではないが、車両の筐体とか廃線だとか鉄橋とか切替ポイントとかスイッチバックとか時刻表とかパンタグラフとかが嫌いという事は全くなく、むしろ好意をもってこれらの単語に接する事の方が圧倒的に多く、他の乗り物にはない哀愁や郷愁といったノスタルジックなイメージをも含有するものとして鉄道を捉えていたりするので、世の鉄ちゃんたちが少し遠い目をしながら鉄道愛を語るのを聞いた時、何をチンプンカンプンな!という事はなく、フムフムなるほどさもありなん、という具合に聞けるのである。これは恐らく男性であれば年齢関係なく90.4%から85.9%の人(私感調べ)が首を縦に振るのではないかと思う。

なぜ男は一様に鉄素養があるのだろうか。他所の説明で何故かよく登場するのが原始人なのだが、これは実に眉唾な稚拙な話である。獣の毛皮を羽織って棍棒を片手に髭モジャラな顔したいかにも原始人の男と、その向こうにはこれまた毛皮を羽織ったような姿の女性が乳児に乳を与えている。その傍らには竪穴式住居か自然洞窟があって、彼らはそこで生活を営んでいるのだが、女性はその住居から遠く離れる事はなく、食べられそうな木の実や草の採取、子育て、火起こしや水酌みに一日を費やす。一方男たちはチームを組んで何日も狩猟の旅に出たまま帰ってこないという生活。そう、男というのは本能的に旅に出たり放浪する事が好きな生き物なのだという虚説。
だから旅を連想させる鉄道に男たちは心を惹かれて止まないのだという、実に浅はか極まりない憶測は説得力に大きく欠ける。
ならばもっと身近な車や飛行機、船や自動二輪でも同レベルの哀愁を感じられねばならないがそうではない。鉄道に限ってノスタルジックな感情を炙り出されるのは一体何故か、この話だけでは納得し難い。

ノスタルジックと言っても鉄道なんて産業大革命以降の話で、たかが200年ほどの歴史しかない。男が好きそうで古いものは他にもに刀や甲冑、城や鉄砲などといったものもあり、これらの方が歴史はずっと古い。しかし現在に於いてはこれらの実用性は著しく欠けている。他には、そろばん、金庫、たんす、木造建築、筆、三味線、着物、扇子、茶碗、…。全く響いて来ないのは僕だけであろうか。これらは鉄道よりもずっと歴史は古く、現在も形を変えつつ実用されているものばかりであるが、郷愁や哀愁という部分としてはほんのごく一部の人間の琴線に触れるにすぎず、それは恐らく鉄道程の男女差はないかもしれない。

歴史が浅いとはいえ、人ひとりの一生に比べれば鉄道の歴史の方が倍以上あるのだから、考え方によっては鉄道程度の歴史はその変遷が手に取る様に伝わって来て実感しやすいともいえるかもしれない。

僕が子供の頃と今では鉄道の様相は一変している。
昭和40年代の世田谷線はまだ木製の車両が多く走っていた。黒光りする木製の床にはサラサラとしたオイルが塗り込められ独特な臭いが立ち込め、料金箱も窓枠も全て木製だったが、その全てはしっかり何かでコーティングされていてプラスティックの様に艶々していた。青い起毛立った座席シートは中のスプリングを感じる事が出来るほど薄っぺらかったが、座り心地は悪くなかったように思う。現在現役の木製車両などは何処を探してもなかなか見当たらないだろう。
デザインなんかも大きく変わり、その時代時代の「カッコいい」が見事に反映される分野でもあったように思う。小田急線の特急と言えばロマンスカーの通称で知られるが、昭和40年初頭時に幼稚園児だった僕にはこれが夢の乗り物に見えたものだ。シルバーの車体に印象的な朱色と白のラインがペイントされ、前照灯が左右ひとつずつ飛び出すような形で付いている。先頭車両の運転席は2階席の位置にあり、まるでジェット機のコックピットの様だった。
そして何よりあの警笛音。あのメロディーを奏でるような音はドップラー効果も相まって、それを耳にした少年らの心を根こそぎ骨抜きにして行ったのものだ。

ただそれらを思うなら自動車も似たような歴史観であり、より目にする機会も多く身近であったはずであろう。ここ100年ほどの自動車の機能やデザインの変遷も目を見張るものがある。だからやはり男どもは廃車同然の車をクラシックカーとか旧車と言ってもてはやし、新車が発売されると聞けばそのスペックや内装外装を隅々まで吟味したがるのだ。この様に確かに世の男どもは自動車にも心を奪われがちのように見受けられるのだが、しかし僕に言わせれば鉄道との差異は歴然としていて、自動車などとは全く比べ物にならないほどの誘引力が鉄道にはあると断言してもいい。

自動車好きのほんの一部にエンジン音や自動車組み立てロボット、インターチェンジの造形などに心を奪われたマニアと言われる強者がごく稀に存在するにしろ、自動車好きと言われる多くの者らが道路そのものやガソリンスタンドのノズルにまでこだわったであろうか。旧トンネルやバイパス化され廃止となった旧道にまで気持ちを注げただろうか。

鉄道の魅力は鉄道車両自体も当然ではあろうが、なんといってもその周辺を構成する鉄道辺縁造形物や現象、歴史に関する魅力を語る鉄ちゃんの多さに尽きるのではないかと思う。乗り鉄、撮り鉄はもちろん、音鉄、古鉄、絵鉄、切符鉄、駅鉄、地下鉄、橋鉄、廃鉄、フォント鉄、箱庭鉄、鉄哲、鉄女などなど、既にその魅力は無限と言っていい。

僕は決して「鉄ちゃん」ではないにも関わらず、先ほどもチラ出ししたような古い個人的鉄道アルバムと言ってもいいような小さな思い出を数多く有している。これは僕に限った事ではないだろう。もちろん他の乗り物の思い出もない訳ではないが、その数は圧倒的に鉄道が勝るのだ。船や飛行機というのが少ないのはまだ分かるが、自動車と比べても鉄道が優勢なのはやはり、自動車は国家が免許を与えるまでは拒絶される乗り物という感じが強く、鉄道は子供料金があるというくらい子供時代から一個人として認めてくれていたという許容の広さを感じる。

言っておくが僕は鉄ちゃんでもなく自動車廃絶論者でもない。どちらも好きである。しかし子供時代になればなるほどその思い出は曲解され、浄化され美化され、ついには昇華されしている分印象も非常に宜しい。青春期とはいえ18歳以降の思い出は生々しさと痛々しさも含まれていて、映画で言うところの前者はトトロで、後者はシザーハンズといったところか。言っておくが僕はどちらの映画も好きである。

この様に鉄道の魅力は多岐に渡りながらも細部のこだわりにも厳正であり、個人の歴史との融和性も高い事にあるからだと言えるかもしれない。僕が鉄ちゃんでない理由は、先ず多岐に渡る魅力そのこと自体には触れることなく、これを謳歌している多くの人々、つまり鉄ちゃんたちの様子を広く俯瞰する事が好きなのであり、自分には鉄道の持つそれぞれの細部にハマりに行く様な瀟洒な清興もないことが要因と思われる。

しかし現世の人であれば生まれて間もなく鉄道と関わりつつ生きるは必定であり、その思い出の端々、節々には美しい記憶の像が残されてゆく。これは誰のものでもなく紛れもなく己1人だけの記憶であり、他の全人類の何人たりとも侵すことのできない唯一の思い出である。他人がどうであれその鉄道の思い出は自分の中での価値は非常に高いものとなる。

さて僕は鉄ちゃんではないが、決して鉄道は嫌いじゃないという微妙な線がこれで抽出できただろうか。
抽出する必要も本来ないのではあるが。