見出し画像

それはクラシックに違いない

[4187文字]
クラシック音楽が好きではない。と同時に嫌いでもない。聴いて何とも思わないかと言えばそうではないという曖昧さ。
その感じをなんと例えればいいかとずっと思っていたが、そろそろ正月の準備をというここへ来てふと、「あ、お節料理だ」思った。
あれば食べないことはないし、中には美味しいと思うものもあるが、普段ならあえて自分から選んで食べたりしないものの集合体だ。

子供の頃は伊達巻と栗きんとん程度がまあ旨いかなぐらいに思っていて、きっともっと大人になればどれもおいしく食えるのだろうと軽く期待していた。しかしある程度成長しても大して旨いとも不味いとも思わないまま青年になり、とうとう57歳になった今もなおほぼ同じ感想だ。昔から脈々と伝わって来た伝統的な料理だから、きっと感動できる何か特別な味があるに違いないとしっかり味わってみるのだが、その期待はもろくも毎年崩れ去るのである。クラシック音楽もこの感じに似ている。

クラシックはよく耳にする好きな感じの曲もあれば、何が言いたいのか分からないまま進行する曲もある。

ほんの少し前まではクラシック音楽を聴こうと思ってもその手段が大変限られていた。そういったコンサートに出向くか、街のクラシックが流れる音楽喫茶に行くか、またはクラシック好きのお宅にお邪魔するかぐらいである。

鶏が先か卵が先か論争になるが、聴く機会がないので益々聴かれなくなったのか、聴かれるニーズがないので聞く機会が減ったのか、どちらにせよ一般的にクラシックは悪循環のスパイラル中にあったが、今はサブスクで手軽に聴ける有難い時代だ。

クラッシックを好きで聴いている人のイメージというのがあるだろう。インテリでお金持ちで権威主義的、とまで言うと言い過ぎか。あくまで個人的イメージなのでクラシック好きの人は気にしないで欲しい。

そしてこのイメージは当然ながら実際とは全然違う場合が多い。僕が知っているクラシック好きの一人は、お金持ちではない大酒飲みで、少々いい加減ではあるもののとても明るい性格の持ち主だ。彼がクラシックを聴く姿も身構えたものはなく、ただのBGMとして下品且つバカ話をしながら聴いている。

その様子は僕が目撃している訳なので彼は一人の時ではない。ひょっとすると家に帰り一人になれば、暖炉の炎に当たりながらシルクのバスローブでロッキンチェアにブランデーグラスを揺らしつつ、ごついオーディオセットのターンテーブルに針を落としているのかもしれないが、恐らくその可能性は10億円当たるくらいないだろう。

お節も正式には、元旦あさイチで先ず家族全員正装し、神棚や仏壇に手を合わせ、めでたくも凛とした文字が書かれた掛け軸のかかる和室の上座に、先ず家長である爺さんが座り、長男次男が順に座を埋めて、家長が元旦の祝辞や1年の豊富、家族の健康などを述べた後、ようやくおめでとうございますのあいさつで日本酒を口にしてからやっと箸が運べる食べ物だったのかもしれない。

我が家のここ数年は注文お節だ。あらかじめ予約しておいたいわゆるお節弁当で、何十種類もの料理が細々と盛られた、縦横50㎝ぐらいのお重を模した紙箱に入っている。
それを酒のつまみにして直箸で「なんだこれ?」とか言いながら皆でつつく。それは知人がバカ話をしながらクラシックを聴くに似ている。

このお節弁当は古式ゆかしい製法だけに基いて料理されたものではないだろう。過去の日本にはなかった世界の味や現代風のエッセンスが、作り手や新しい道具によってアレンジされた味だ。それが成功しているかどうかは別として「これは何だ?」という程度の興味や好奇心はひかれる一品になっている。それはそれで面白いではないか。ではそれを何度も味わいたいかというとまた別の話になるのだが、作り手の意思が伝わって来て一過性ではあるものの楽しめるものだ。

では正式なクラシックの聴き方というのがあるのか。以前はともあれ現代においてそんなものあってたまるかである。コンサート会場ではドレスコードや拍手の仕方や私語についてある一定のお約束はあるのだろうが、自宅で聴くのにいちいちインテリチックに品よく聴く必要はない。そういったクラシックにまとわりついている正装じみたイメージが払拭できれば、少しは聴こえ方も違って味わい深くなるようにも思う。現代の指揮者が解釈した新しい形のクラッシックをもっと身近に感じられるといい。知人程下品でなくとも普段着で聴ければきっとより良いだろう。

現代音楽でもむしろジャズやボサノバなどさっぱり分からないくせに、そういう音楽が流れている店しか行きませんという顔をしてるヤツや、最近では流行りのChill Outなどというジャンルでまとめられたシャレオツを気取った音楽を、さも大昔から聴いていますというヤツの方が鼻に着く。
本当はカレーライスやラーメンが大好きなくせに、そんな事はおくびにも出さない。お節料理に飽きたらカレーライスでいいのだ。

そもそもそのクラシック音楽を作った人達がインテリで金持ちで権威主義的だったかというとそうではない事はよく知られている。

バッハは当時とても優れたオルガニストとの評価だったがそれ以上ではなく、晩年は盲目となり作曲家としては大して評価されないまま死んだ。

ベートーベンは虐待に近い英才教育を受けて育ち、やっと音楽の職に就くが家はひどく貧乏で他の仕事を兼務していた。難聴だったことは有名だが他にも多くの病を抱え、苦しみながら死んだことはあまり知られていない。

モーツァルトも親の期待の中で英才教育を受けて育ったが、まともに人と話すこともままならず変人扱いされた。音楽の仕事は不安定でアルコールに依存する日々が続き、借金に苦しむ日々の中若くして死ぬ。

他の有名な音楽家のほとんども生前は全く評価されず、お金や病に苦しみながらこの世を去っている。それは現代の「27クラブ」と言われたロックミュージシャンのように、音楽的天賦の才能を授けられながらも精神を病みドラッグやアルコールに走って27歳で死んでいった、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、カート・コバーンらと何も変わらないではないか。

当時彼らはその演奏力では評価され、宮廷や貴族などに遣わされる。当時はスマホもサブスクもないので、どんな時も全て生演奏だ。これらの職は名誉職であり、単に再生ボタン代わりに利用され、現金収入は雀の涙程度だったようだ。
むしろ庶民向けの演劇やオペラで演奏したり楽曲提供する方がお金にはなったらしい。ただし中世ヨーロッパの庶民生活はこういった娯楽を頻繁に行えるほどの余裕はなく、今と違いその仕事の絶対数は彼らの才能と等しい報酬を与えられるものではなかった。

宮廷や貴族たちは大変見栄っ張りで、金銭的に窮した生活にも関わらずそのきらびやかさを互いに競いあった。その中のひとつが召し抱えの音楽家たちだ。音楽家たちはその名誉ある場面での演奏や作曲をあまり快く受けてはいない。望まれた楽曲がいつも前時代の古臭いもので、貴族らの偽のきらびやかさを演出するものだったからだ。

そんな中でもバッハやベートーベンやモーツァルトのそれぞれは、その時代の中で常にこれまでになかった真新しい音楽を生み出して来た。
しかし前時代主義の宮廷や貴族にその新しい音楽は受け入れ難いものだった。受け入れ難いというより、恐らく意味が分からなかったのではないかと思う。彼らはあくまで自分たちが知っている様な、以前に存在した形を望んだのだ。

これははっきり言って今の時代も全く変わっていない。音楽の仕事にはスポンサーが存在する場合が多くある。お金を出す彼らの望むものが絶対な世界なのだ。ところがスポンサーは音楽のプロではない。何が新しくて何がいいものかを判断する能力は彼らには備わっていない。そこで交わされるやり取りは「誰々の様な」「以前売れた曲みたいな雰囲気で」という前時代主義的な古臭いイメージの模倣を要求することなのだ。

ではアーティストが自分のアルバムを作る時なら自由に出来るかと言えばそうでもない。アルバム制作やその広告は事務所やレコード会社の投資で行われる。お金を払ってくれた人にアーティストはなかなか逆らえない。投資した額ぐらいは何とか回収したいと思う事務所やレコード会社はそこでやはり二番煎じを要求する。「荒井由実の音楽性に中島みゆきのインパクト歌詞を載せパフュームのステージングを」とかあり得ないだろ。

きっとモーツァルトもこういった要求には辟易としていたに違いない。しかし現代同様背に腹は代えられず泣く泣く従わざるを得なかったのだろうと想像する。その結果アル中になったり病を患ったり精神を病んだりしたのだ。おそらく仕事の合間合間で自由な音楽を作り、今もそれらの作品は残っているのだが、金にならない作業は多くの時間を割けなかったに違いない。
彼らが生きている間は日の目を見なかったそれらの楽曲は死後になってからようやく光出す。音楽家同氏はさすがにそこは気付いていて、こいつはスゲェ!という曲が脈々と引き継がれて今に至っている。

お節料理の例えをまた持出すことはないのだが、お煮しめや田作り、紅白なます、黒豆、数の子などなど、最初はどれもきっと普段は口にするどころか、目にすることもないほどの超豪華料理だったに違いない。
クラッシックもそうだろう。貴族はその固定イメージから遂に抜け出せず、時代時代の音楽家を苦しめ続けたのだろう。それは決して昔の事ではなく、形を変え今も似たような事態になっていると知るべしだと思う。

作り手はどんなにヘンチクリンだと思っても、イメージしたモノに忠実であるべきだ。それが何度やっても何年たってもどうして昔あったような曲にしかならなかったとしたら、ここまでは才能が芽生えなかったと思う他ない。
どこにもないものはどんどん出来るが、到底人様に褒められたようなものではないという作曲家は、あともう少しという所かも知れない。

では過去にあったような曲によく似ている曲ばかり作り、それを良しとしてカッコつけて酔っている人がマズいかと言えばさに在らず。古き良きものには相応の価値がある。新進気鋭は旧態依然の上に成り立つ。しかし当然ながらそこに新しい刺激は求められないが、やっている本人が気づかなければそれはそれでとても幸せな事だと思う。
ただし僕個人の意見で言うなら、それらを聴いてもまるでクラシック音楽を聴いている様な、お節料理を食べている様な、そんな気分以上にはなれないのだ。
真新しい新曲であっても、既にあるような古いタイプの音楽はクラシックに違いない。