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創作物を受け取る営みについて

X(Twitter)では文字数的に収まりが悪いあれこれを書く場所が欲しくなり、ブログを新たに構えようと思った。
新居をここnoteに決めた一番の理由は「広告が無いから」である。
なので、何故広告を避けるのかというテーマで最初の記事を書こうと思う。

ブログに限らず、音楽でも漫画でも動画でも出版物でもあらゆるコンテンツに共通して「発信者と受信者の間のノイズ」は可能な限り減らしたほうが良いと考えている。
コンテンツの授受は基本的に変換効率の悪いものだからだ。
創作・表現は発信者の脳裏に浮かんだ何かしらの「良さ」を受信者の脳裏に再構築することが本務となるはずだが、人と人の頭の中は当然違うものなので、再構築された「良さ」は元々発信者にあったものとは形が大きく異なっているのが普通だ。

もちろん発信者たちはそのギャップを埋めるべく多大な創作のエネルギーを自らのコンテンツに費やしている。
のだけれど、発信者の労力が及ぶ範囲はあくまで「発信するまで」であり、そこからコンテンツを咀嚼し、嚥下し、消化し、血流に乗せて全身に沁み渡らせるまでのエネルギーは受信者が担わなければならない。
そして、その双方のエネルギーは概して常に「発信超過」である。

発信者はコンテンツを「他にどこにもいないただ一人の自分のこととして」送り出すが、受信者は「たくさん好きなものがあるうちの一つとして」だったり「たまたま通りがかりに目を惹いた一つとして」受け取ることが普通なので、構造的なコロラリーとして発信超過は避けられない。

これが悪い、という話をしたいわけではない。
受信者はもっと多くの労力を割くべきだ、という話をしたいわけではない。
受信者にはほぼ常に「労力のかけしろ」が担保されている、という事実があるという話をしたいのだ。
私たちはコンテンツを噛めば噛むほどおいしくいただける。
あらゆる創作・表現の分野における受信者側の構えとして私はこの考えを採用している。

というわけで広告の話である。
発信者と受信者にエネルギーの差があり、受信者がより労力を割けばより多くの実りをコンテンツから受け取ることができるが、すべての創作物に対して労力を割くのは非現実的である、という前提に対して、じゃあ環境を良くしましょうよ、という視点が本記事の趣旨なのだ。

広告は「気にしてもらうこと」が仕事である。
ゆえにできるだけ多くの人が集まる場所で、できるだけ目立つ姿で目に留まることが最大の成果をもたらす。
対してコンテンツの受信者は「発信者の脳内にあった素晴らしい何かを自分の脳内に再構築する」という大変な営みを今から実施するのだ。
視界の端に「気になるもの」「目立つもの」がうろちょろしている環境は、受信のパフォーマンスを減衰させる。
映画上映中に館内に響くスマホの着信音と同じような働きを、広告は原理的に常に持っている。
こういったノイズとなる要因はできるだけ視界に入れたくないのである。

画家が郊外の閑静な土地にアトリエを求めることと同じように、
音楽家が自分に合った楽器や音響機器を求めることと同じように、
受信者は「コンテンツと二人っきりになれる場所」を求める。
それは「発信者が発信のパフォーマンスを高める」「受信者が受信のパフォーマンスを高める」という形で相似形を成す営みなのだ。

ここnoteはそのすっきりとしたデザインで、発信者と受信者がコンテンツを挟んで差し向かいで触れ合える場所だ。
ゆえに私はこの場所の理念と営みを支持する。

以後、伝えたいことが僕の頭にある限りはここにいようと思うので、またお目にかかった時はどうぞよろしく。


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