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考えすぎるほど息苦しい世の中よ

指遣いがやたらとエロいベーシストである友人が就活に悩んでいる。noteにてしばし拝見致した。

安心しろ。余も就活で悩んでいる。

余はこれまで就活に備え、入念に個性を磨いてきた。

しかし、個性の鍛錬は、歪んだ価値観を助長させ、まともな人間を直視できないほど、ひねくれた人間に転化させてしまった。おそらく、余が放つありったけの「個性エネルギー」は会社の鉄筋コンクリートをことごとく粉砕するであろう。残念ながら、誰も太刀打ちできまい。

この原因は何だろうか。
一つ思い当たる節がある。

それは、余の卒業研究のテーマが「労働思想」であることだ。

文系理系問わず、研究する上で大切なのは「問題意識」であると思う。「なぜなんだ?!」「これは何だろう?」から研究はスタートするものだろう。

同様に、余も「働くとは何なのか?」という疑問が常々あるのだ。
書店に行けば、「〇〇の働き方」や「働くとは」のような自己啓発本が店頭に並んでいる。ただ現状として、「これさえ読めばカンタン!働き方!」と推す大量の自己啓発本が逆に、働く難しさを余に教えてくれる。

後、新聞を読めば出てくる日本型雇用の問題(終身雇用、年功序列など)に関心があったり、労働組合・同一労働同一賃金について親父と議論を交わしたりするなど、「労働とは何なのか」が頭の中の7割を常に占めているのだ。

大学生がよく気にしがちな周りの人間関係のことなぞ、実のところ、そこまで関心を寄せていないのである。

このような思考回路である以上、就活自体も1つの研究対象に内包されてしまうのだ。実生活と卒業研究は分離しないと、身が持たないが、余も21歳。体力はそこまで衰えておらず、「就活とはなんだ?労働とはなんだ?」と思考エネルギーが無駄に充満しているのである。

余のエントリーシートのそばには、いつも「近代の労働観」という本がある。エントリーシートの記入と文献の読み込み、交互に取り組む余は神経衰弱になっている。これがもう辛い。

出口なおは、かつて近代化の進む明治社会を「けものの世」と言ったそうだが、余にとっては令和こそが「けものの世」である。

ベーシスト君がnoteにて自己PRに悩んでいると言っているが、そこまで悩まなくても良いのではないかと思う。なぜなら、自己は常に進化するからだ。毎日毎日、自己は変わる。人生とは自己を形容するための語彙を獲得する道だと思う。それが大変だからこそ、人間は音楽や芸術や歴史を通して、その語彙獲得のヒントを求めるのである。余はそう思う。


まあ取り敢えず、余のエントリーシートを添削してくれ。

#エッセイ #就活


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