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歴史を学ばせる意義―学問の奥義―

いつものように研究室で勉強していると、教採を受ける友人と「社会科(例えば日本史)を教える意義とは何か」について話し合う機会があった。

はっきり言って、そのような学問の奥義が学生にわかるわけないだろう。しかし、1つ挙げるとしたら、友人の言う通り「現代社会を考える素材を提供する」ことではなかろうか。

特に昨今、自明の論理となりつつある「自己責任論」は「生活保護バッシング」などでよく持ち上げられている。組織より個人の時代だと雑誌や新聞でもよく言われ、そのしわ寄せは全員ではないにしろ、ある種の「息苦しさ」を与えていると言えよう。

『新聞ダイジェスト3月号』より

 この連合による賃上げ要求に関する記事を見ても、意思疎通が取れているとは言えない。組織となって一律の賃上げを要求する連合に対し、それは「時代遅れだ」と述べる経団連。個人の成績・評価を重視する風潮は現代の企業を見ると顕著である。この先、労働組合を結成したところで、「意味もないし、時代遅れだ」と言われる日もそう遠くないような気がする。

 このような社会では、「生き抜いてやるぞ」と躍起になる人もいれば、「不安で仕方がない」と思う人もいるのではないだろうか。

 そのような状況の中で考えるきっかけとなるのが、歴史ではなかろうか。江戸時代の「村請制」を教えるのは、当時の相互扶助ネットワークの存在を教えるためだと考える。村請制については「年貢は村単位で納めなければならないので、もし自分の割当分の年貢を払えない人が出てきた場合、豊かな人がその人の分を肩代わりしてでも、決まった額を払わなければなりません。豊かな人がみな貧しい人に優しかったというわけではなく、そういう仕組みになっているから、という理由で、貧しい人を助けなくてはならなかったのです。」(松沢、2018)とある。他にも引用があるだろうが、時間が無いのでご了承いただきたい。

 この「村請制」を良い悪いと言うのが歴史ではないにしろ、このように現代では考えられないような制度がかつての日本にあったと考えるのは間違いではないはずだ。それを「吹き込む」のが教育の役目だと思うし、より庶民レベルで伝えるのが新聞だと思う。

 私は高校までの学生時代、そこまで謳歌した人間ではないので、「楽しい学校」というのは今でも幻想に過ぎないと思っている。ただ、高校で「村請制」の存在を教えてくれなかったら、後々、このようなブログの記事を書くことは無かっただろう。実際、私も「村請制」自体、懐かしいと振り返ったばかりである。しかし、現代社会に君臨する「自己責任論」を考える上では、この制度は示唆に富み、今の私にとって「必要」な知識である。

松沢裕作『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書、2018年)

#エッセイ #自己責任論

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