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「歴史」は「役に立つ」

「歴史を勉強して役に立つのか?」

という疑問は入学してから、ずっと持ち続けており、いつか言語化して卒業までには発信したいと考えている。今までのブログの記事もこの手のものが多い。そもそも大学でわざわざ歴史を勉強しようと思った理由が、「役に立つ」と説明できた時、清々しい充実感を手に入れることができると本気で思ったからだ。これは8割型マジである。実際今日まで、そういう気持ちで「大学の歴史」に触れて来た。

がしかし、「歴史の有用性」を簡単に「言語化」して良いのか?という疑問が最近新たに湧き始めたのだ。政治的イデオロギーなり、地域貢献なり、あらゆる面で「歴史」というものは利用されてきた。果たしてそれはいかがなものか。利用されるにはまず、歴史をカンタンに説明しなくてはならない。これが正直に言うと、怖い。要するに誰かに伝えなくてはならないので、わかりやすく「翻訳」して、僕たちに教えなければならない。研究者は正直、この仕事をするのが一番難しいのではないかと思う。学問の魅力を知ることは、我々にとって夢であるが、その解釈が非常に残酷な結果を生むのではないかと危惧する。一方、歴史を高尚な趣味にするのもまずい。古文書の読むにしても、老後の趣味の1つとなるケースが多く見られる今日であるが、世間と何も関わりを持たない以上、ただのお遊びに成り下がる。他方では、歴史をオタク的要素を除いて、きちんと教養として取り入れている人もいる。がしかし、私がひねくれているだけだろうか。それは「お弁当にお肉しかないので、きちんと野菜を取ろう」感があり、どこか釈然としないのだ。「歴史」が脳の教養補助食品としてしか機能しないことに、私は虚無を抱いてならない。

「役に立つか?役に立たないか?」という2択の質問については、大学に入ってから、よりわからなくなってしまった。「ロクに史料も読めないのに、歴史を語っているんじゃねえ」と言われそうだが、「歴史を理解できる人間」が語る歴史の魅力と、「歴史を理解できていない人間」が語る歴史の疑問だったら、後者の方が耳を傾けやすいだろう。これは私の実感である。

「役に立つ」と言っても、何をもって役に立つのかという明確な線引きでもしないと話はまずできない。当然だが、歴史はお金とは大変相性が悪い。一方、感動や喜びを与えられることはできるでしょう。個人的にはこれで充分だと思うが。

「選択」と「集中」が叫ばれる今日、そのしわ寄せは歴史に大いにくるだろう。見方を変えると、そういう状況になったからこそ、「歴史」の存在について語るきっかけが増えてきていると思う。個人的には、これでスポットが当たるだけでも充分だと。私みたいに歴史がやはり好きな人間は、どうしても「歴史が嫌いな人間」に耳を傾けることを嫌がります。今日の状況をふまえ、敢えて自分とは異なる学問・考えを持っている人と対話をする必要があるかもしれない。

これから先、「歴史学科なんていらないだろ」と言われ、議論がより過熱するでしょう。しかし、逆に言えば、それはそれで「歴史」を知るきっかけにもなると思うのである。私自身、これ自体が「役に立っている」と考える。

ーーーそこに「歴史」がある。それだけで充分かと。

#歴史 #現代社会



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