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#6〜#終 焦燥

「掃除しない会議室とかありえないw」

いいね5

我が社の女性社員とおぼしきTwitterのアカウントを見てはため息をつくことが、セグウェイの見回りと同じくらい日課となってしまった。

社員とのコミュニケーションをきちんと取っていたはずなのに、Twitterでは私に対する罵詈雑言の嵐ではないか。

しかし一方で、「『牧田さんとウォーキング♪』」なんて普通Twitterで呟くかな」とこれまたうちの社員とおぼしき呟きを見ては興味に駆られていた。

「牧田さんとウォーキング』か、うまくけばいいけど」

その瞬間思わず、イイねのところにタップしてしまった。
「あ!やっちまった!」

「どうしよう。私のアカウントは鍵かけているけど、おそらく向こうに素性が割れてしまうのでは…」と1人のオッサンはしどろもどろしていた。

社長の最大の懸念は、社長自身のTwitterアカウントのプロフィールが見られることである。

「セグウェイ乗りの乳房守」というアカウント名に続いて、「埃に囲まれながら、乳房と尻への妄想を愛する男」と書かれたプロフィール。

「やっぱり素性割れちゃうよね…?」

気分をげんなりさせていると、セグウェイの充電が切れたので、社長室に戻ることにした。

室内のデスクには、家族の写真と合わせて、ちょうど半年前に取材を受け、翌月の表紙に載ったTIME誌が置かれている。

もはや、あの半年前が懐かしいと思うまでに、社長の神経は衰弱していた。雑誌の表紙にある通り、「最も熱い100人」にも選出され、半年前の私は調子に乗りすぎていたかもしれない。

「妄想具現化マシーン」を製造するベンチャー企業を立ち上げて10年以上が経つ。

会社を起こした当時の私はイケイケどんどんの真っ只中で、他社との差別化を図ることに尽力した。アメリカのカビ研究の最先端をいく「臭さが脳の発達向上に及ぼす影響」という論文をもとに、「NO cleaning NO innovation」という社内理念を掲げ、会議室雑菌化計画も立てて、アイデアの創造を養う環境を作った。

はじめは社員から、羨望の眼差しを浴びて浴びて、それはまあ日焼けするほど浴びていたが、社員旅行の最中、「イノベーションの行き着く先は猥褻である」と声高々に主張するインチキ宗教の教示に心酔してしまい、社長は乳房と尻の安易な妄想しかできなくなったので、かつての社員らの光沢な眼差しは侮蔑と軽蔑に満ちた悲惨なものに変わってしまった。また、地方の中小企業のように世間から暖かく見守られる会社を目指すはいいものの、近所で野菜売りをしているツネコ婆さんからは「アナタの会社は応援したいけど、何しているかよく分からんけんね」と相変わらず生暖かいメッセージをもらっている次第である。この生暖かいメッセージが私の胸中に蓄積して、一週間風邪をひいて寝込んだことを知るのは秘書の牧田ななだけである。

ただ、ツネコ婆さんのボヤキとは裏腹に、マシーン技術の進歩は凄まじく、妄想を具現化するスピードは格段に上がった。現在、社長室には多数の乳房と尻がゴロゴロと転がっている。ちなみに「社長室の中が見えるのは精神衛生上、非常に良くない」という理由で、オンライン会議は一度もなされたことがない。雑菌・埃だらけの会議室でしか基本的に会議はしない。

社長室の室内を見たい物好きな方は牧田ななのTwitterアカウントを覗くと良い。ちょうど3日前に、いつ撮ったか分からない社長室の写真を載せて「我が社の恥部」とハッシュタグが付けられた彼女の投稿には、破廉恥な部屋の内情がわかるだろう。我が社の風通しの良さは、平気で社長を侮辱できることから、筋金入りである。

ここ最近、社長は悩んでいた。会社を大きくさせようと、ベンチャー精神満載で妄想具現化マシーン事業に取り組んでいた、あの頃の自分とのギャップに。今となっては、幹部社員に任せれば事業は上手く進むし、むしろ、そっちの方が売り上げはいい。取引先からは「清潔感が増しましたよ。アナタ以外は」と言われ、腹いせに硬めの乳房を妄想し錬成して、その乳房を取引先の顔面にぶつける暴挙を犯してしまった。しかし、その乳房の硬さは取引先の好みだったらしく、何とか難を逃れた。このように最近の社長は調子が良くない。

先日開いた会議で、オンラインサービスであるzoomに我が社の商品「妄想具現化マシーン」を紹介しようと、CM作成計画「プロジェクトCHIBUSA」を立案したが、社員は相変わらず会議室の臭さに悶絶するだけで、議論は進まなかった。

「あの状況じゃ、ZOOMのCM作成はうまくいかないかなぁ。そろそろ会議室綺麗にせねばならないのか」

ブツブツいいながら自宅に帰ると、玄関では「乳房見る?」とせがんでくる女房が私を出迎えてくれた。自室の掃除をしない社長に文句を言いながらも、伴侶として長年支えていることは間違いない。ただ、帰る度に毎回乳房を見せられては流石の社長も辟易する。とあるピンク色の宗教の教示に冒されていた時、社長はイノベーションの極地に踏み込もうと女房の乳房を用いてマシーン製造の研究をしていた。そのため、帰宅するとすぐに女房の乳房を見ては形状・ハリ・色彩を事細かく分析していたのだ。しかし実際、私自身も歳を取り、嫁の乳房も垂れてしまった。ところが、マシーン技術と嫁の乳房を見せる癖はどんどんエスカレートし、歯止めが効かない。

「私には居場所が無いのか」

社長はひたすら悩んでいた。こういう場合、誰かが手を差し伸べてくれることを期待するものだが、社長には無縁である。

ドン!

20 代の女性を想定した乳房が目の前で錬成された。寂しさを紛らわせるため、家の自室にもマシーンを置いていた。でもこの虚しさはなんだろう。

肌のハリも完璧。何も文句はあるまい。しかし、満たされない何かがある。

「とりあえず運動でもしようかな」

ランニングシューズに履き替え、夜道を散歩する。心地よい夜風が社長の体にしみる。30分歩いて、公園でゆったりしていると、1人の程良くふくよかな女性の声がした。

「社長!この時間にお散歩ですか?」

「おぉ!牧田くんではないか。散歩とは案外良いものだなぁ」

「私も今度の日曜、社内で親しくなった人と一緒に散歩するんですよ。社長もいかがです?」

君は我が社の恥部と言って、社長室をTwitterにアップしてたよね?と問いただしたくなる気持ちも彼女の笑顔を見ればなんてことはなかった。

「うーん日曜か。ちょっと忙しいかな」
「そうですか…残念です。」

「では、また月曜日に」と言って2人は別れた。

自室に戻ると、ベットで横になった。
「牧田くんは誰とウォーキングするんだろうか。いや、待てよ。Twitterでそんなこと呟いていたやつがいたよな。ちょっと気にならなくはない。それと会議室の掃除をムニャムニャ…」とブツブツ念仏を唱えるか如く、口を動かすも、その日はそのまま寝落ちしてしまった。

翌朝起きると、開口一番、妄想具現化マシーンが私に話しかける。

「モウソウノグゲンカニセイコウシマシタ」

「電源切るの忘れてたね、こりゃ」

最近、社長の様子がおかしい。

いや正確には、時々忍び込む社長室の様子がおかしいのだ。

と言うのも、社長室に設置された、会社の看板商品である「妄想具現化マシーン」から生み出されたものに見慣れないものがあるのだ。

それまでは社長の貧相な妄想を表すかのごとく、ただひたすらに乳房と尻だけが、無造作に転がっていた。

しかし、今日の社長室には、翼のないサモトラケのニケのような、明らかに女性の体の一部と思しきものが置いてあるのだ。

心なしか私の体型に近いようにも見える。

何が社長を変えたのか皆目見当がつかないが、嫌な予感しかしない。

社長からは奥さんの愚痴を聞かされることも多いが、特別関係が悪くなったような雰囲気は感じられなかった。

社長が最も多く接する社員は間違いなく私だが、それだけで気を持たれても困る。
ただでさえ、29歳で重役に登り詰めた童貞臭強めの男・宮本悠太が鬱陶しいのに、まったくもって迷惑千万な話だ。

社長は、近所のおばさんからの何気ない一言で精神的ダメージを負い、その結果1週間寝込むほどの豆腐メンタルの持ち主でもある。

何が引き金となって変化を与えたのだろう。

あまり気乗りはしないが、今度の会議の後に宮本にそれとなく探りを入れてみるのも悪くないかもしれない。

■■■

会議の日の午後。
宮本に社長の様子を聞いた。

彼曰く
「そんなに変わりはなかったけど、言われてみればいつもより落ち着きがなかったようにも見えたかなぁ。」
との事。

私の憂いは杞憂だったのかもしれない。

そう思いながら、その日の仕事終わりに飲み仲間の笹村聡一が待ついつもの飲み屋に向かう。

お酒に酔った勢いで社長のことをつい口走ってしまったのだが、
「お子さま社長さんだからなぁ。君みたいな大人な女性にはわからないことが色々あるんだろうよ。」
なんて意味ありげなことを言われた。

笹村も次の営業の時に注意して観察してみると言ってくれた。
しかし、それまでは自分で社長の様子を窺うしかない。

その次の日には、最近ウォーキング仲間になった我が社きっての稼ぎ頭・河田潤に、社内の休憩室で偶然出会った。

自分の仕事と肉体の事しか頭になさそうなのであまり期待していなかったが、彼はそもそも社長とあまり接点が無い様子だった。

■■■

社長ごときに起こった些細な変化に振り回され、それに気疲れしている私がいる。

そのことがさらに気分を落ち込ませる。

「はぁ。嫌になっちゃうわ。」

たまらずカラオケ店に駆け込んだ私は、そんな思いを振り切るように2時間歌い叫んだ。

1人で2時間も歌うと、さすがに気分も晴れた。

「私は私の仕事をこなすだけよ。何を気にすることがあるの。」

そう自分を鼓舞し、心穏やかに家路についた。

デスクに戻った私は憔悴していた。

牧田さんが社長のことを好きだなんて...。
私は29年間の人生の中で、このように人を愛するという泥沼にハマったことがなかった。
何故なら、カップルという存在は汚物と同等だと考えていたからだ。

カップルを見る度に、

「アイツらは、自分に酔っているだけだ!
互いにそれぞれ違う人生を歩んできた2人の人間が同じ価値観を持つなんてことがあるわけ無い!
結局は、女の御機嫌を伺い、女が生きてきた価値観に沿って、男は道化のように過ごしていかなければならず、主導権は必ず女が握る。
全ての男は、小便をする時、便座をあげずにどこに飛び散るか分からないスリリングな思いを持ちながら、罪悪感と羞恥、そして一種の希望を息子から出る放物線に託している
小便は俺らの希望であり、夢である!
それをなんだ! 女は、便座を上げろと言ったり、しまいには、座ってしろとまで言ってくる!
今までの価値観を歪められてまで、なぜ男は女と一緒にいたがる?
それはつまり、自分に酔っているだけではあるまいか?
女というものを神聖化し、その虚像に惑わされているのに気づいていない!
なんて愚かなのだろう!! はははははは!!
自分に酔っていないとすれば、ただのドMだ!
自分で自分を鞭打ちする人の方が、よっぽど健全なMだ!」
と、このように思っていたのである。

しかし、牧田ななに出会ってからはどうだろう?

「自分の中の男性像、女性像というものが頑なに存在しているから先程のような思考に陥るのではないか?
ただただ彼女と一緒にいたい。2人だけの空間がそこにあるという事だけで、幸福なのではないか?
 価値観の一致も重要であるが、一緒にいたいと思う気持ちこそが恋愛の本質なのではないか?」
「それに私は、今まで女に擦り寄ろうと考えたことがなかったではないか?
そんな男に女も価値観を合わせたいと思う方がおかしな話だ。」
私は、単純に牧田ななに会いたい。
自分のプライドなどいらない。
彼女がそばにいてくれればそれだけでいい。
牧田ななと出会って、私の価値観は牧田ななによって狂わされている。

先程の私の持論は、一部正しいのかもしれないな。
そう思うと、私は俯きがちに微笑を浮かべた。

数日後

我社のCMをZoomやTeams と提携を結び、流すというプロジェクトは、あの会議以降あまり進展していないようだ。

まあ、それもそうだろう。投げ出された私たち部下は何をすればいいのか分からないままなのだ。

ゆとり世代と揶揄されそうだが、そもそも私たちの会社は「妄想具現化マシーン」を製造するベンチャー企業なのだ。

ZoomやTeamsと全く相関性・類似性がない。
貴社たちから見て、こんなよく分からない会社のCMを流すことにメリットはない。それどころか、逆に、イメージダウンに繋がるなどのデメリットの方が多いだろう。

どのようにしてCM提携を結んでもらうかを考えているだけで煮詰まってしまい、全く進展がないのだった。

そんな事より、私にとって非常に重大な事件が起きていた。

社長が、社内の取り決めで掃除をしてはいけないとしていることは先程述べた。

そんな社長がこの数日の間、おかしいのだ!!
牧田さんに先日、社長の様子が変じゃないかと聞かれたが、そんなことに気づかず、曖昧な返事しかしなかった。

牧田さんの言葉が気がかりとなり、社長の行動に注目するようになった。
すると、確かに牧田さんが言うようにおかしいのだ。

具体的には、髪は寝癖のままで(お風呂にもあまり入っていないのが普通だった)、油分でねちゃねちゃになっている髪だったのが、キッチリとした七三に分け、整髪剤を使うようになった。 また、歯磨きも全く行わない社長だったにも関わらず、昼に歯磨きをしている光景を見た(昼間も歯磨きをしている人は一般の常識人でも少数派のはずだ...)。さらに、すれ違う度に、オシャレな英国人のおじさんのような甘い匂いを発するようにまでなった(社長室に多数の乳房と尻がゴロゴロと転がっている中で、高そうな瓶に入った香水を確認済み)。

おかしくなる前は、不潔だとはいえ、社長の言動に矛盾はみられない。しかし、ここ数日の行動は明らかに矛盾する。何故か急に、掃除をあれほど拒否していた社長は、自分に磨きをかけるようになったのだ。

社長がおかしい
明らかに今までの行動が違いすぎる
この数日の間に、社長の近辺で何かあったに違いない。

私が思考していると、トイレから出てきて頬を紅潮させながらにやにやしていた牧田ななを思い出した。

「そうか!!
社長も牧田さんのことが好きなんだ...。
だから、少しでもいい男に見られるように、持論(掃除をしないこと)と矛盾する行動をとり、あんな清潔感を出すようになった...?
牧田さんの素行を見ていると、あのとんちんかんの社長でも気がついたんだろう。
あっ!!!
そういえば、先日、社長室にいきなりサモトラケのニケのような彫刻が置かれるようになったが、あのボディーラインが本家のスリムで逞しい女性の身体ではなく、男性が好むむっちりとしたボディーラインだったのが気になっていた。
あれはもしかして、牧田さんを模したのでは....?
だとすると、やっぱり私の推理は確固たるものとなる.....。
やっぱりそうか...。
相思相愛か.....くそっ......。

いや、でもまてよ、
社長には女房がいたはずじゃあ...。

そうだ!!
この事を上手く利用すれば、牧田さんは社長を幻滅するはずだ!
我ながらいい考えが浮かぶものだ!!
牧田さんは私のものだ!!!!!」
社長と牧田ななの仲を切り裂く名案を導き出した私はここ数日の沈んだ気持ちを巻き返すが如く、顔がひまわりのように晴れた。

私は、牧田ななと付き合った際のことを想像し、いつか伝手から聞いた牧田ななの趣味であるラジオを聴きながら共通の話題を持つべく、電源ボタンを押した。

先日の牧田との飲み会で〝次の営業の時に社長の事を観察してみる〟とは言ったものの、あの変人社長に今更変化などあるのだろうか…そう思いながら地下鉄の階段を上がりその変人社長が率いる会社の方へ向かう。今日がその営業の日だ。オフィスのあるフロアに到着すると、ドアのガラス越しに例によってセグウェイに乗っている変人社長の姿が見えた。

同時に私は違和感を覚えた。
…清潔感がある。
否、オフィス内でセグウェイを乗りこなしているのも本来なら違和感であるがここではこれが日常である。
あの髪ベッタベタで口臭がひどくて埃にまみれることを好むあの変人社長に清潔感があるのだ。たしかに異常だ。

この違和感は社長室に入ると更に増した。埃臭かった部屋が良い匂いになっているだけで無く、普段無数の乳房と尻が溢れかえっていただけの中にサモトラケのニケのような彫刻が置かれていたのだ。しかしそれはニケと違いむっちりとした体であり、まるで誰かの女性の首から下を妄想し具現化したかのよう……ってそうだ、この会社は妄想を具現化するマシーンを作ってる会社じゃん。

普段よりこころなしかお洒落になった社長室でそわそわしながら商談を進めていると、社長が電話で席を外したので牧田に聞いてみる。
「おい、あれはなんだ。」
「わからないの。ある日急に家から持ってきて。」
「でもあれも妄想を具現化したものになるわけだよな?なんかお前っぽくない?」
「何言ってんの、変態。」
変態はないだろう変態は、一応心配してやってんだぞ、などと内心思っていると社長が戻ってきた。

すまんね、最近zoomと何かできんかと色々探っててねと話し始める社長を遮って単刀直入に聞く。
「社長、ところであの彫刻はいったんどうしたんですか?まるで牧田君の様ですね。」
ちょっと止めてよ、と牧田が止めにかかってきたが関係ない。これはしっかり明らかにしなければならないことなのだ。

一方、当の社長は少し目を見開き「そんなわけないじゃないか。」といつものように言った。しかし私は見逃さなかった。コーヒーに手を伸ばす社長の手が震えていたことを。

結局、ニケの話はあれ以上広がらず商談を終えた。
オフィスを出るまで牧田に見送ってもらったのだが、その際にTHE童貞くんの様な奴から物凄い視線を感じた。あぁ、あれが噂の宮本か、などと内心思いながらオフィスを出ると、ガチムチな男が一人帰ってきた。「あぁ、どうも。」と会釈だけ交わしすれ違う。
「じゃぁまた飲みに行こう。」と牧田に告げ、私はエレベーターへ向かう。エレベーターの扉が閉まる際、オフィスの中で牧田が先ほどのガチムチの男と話しているのが見えた。何を話しているのか私が知ったことではないが、少し胸がざわついていたことは否めない。しかしそれ以上に、あの社長室に鎮座するニケもどきの彫刻のことが頭から離れなかった。

先日の牧田ななとのウォーキングはとてもよかった。
海浜公園ならではの涼しい海風を浴びながら、仕事の話の他、お互いの趣味やら好きな音楽やら他愛の無い話もたくさんした。
時間的には1時間歩いたが疲れは無く、むしろなぜか元気になっている気がする。

「うーん、どこの筋肉に効いているかの意識が足りなかったのか?」

堅物歴25年の彼の辞書には「恋」という文字は載っていないらしい、、、

⬜︎⬜︎⬜︎

後日いつも通りフルーツグラノーラとキャラメルラテの朝食をとり、いつも通りのルーティーンをこなして会社に向かった。

「ん?何か変じゃないか?何が変かと言われればわかんないけど、、、」

しかしその理由はすぐにわかった。あの社長が清潔感に溢れているのだ。
油分たっぷりでベタついていた髪は綺麗にセッティングされ、着ているスーツには埃の一つも無い。そしてすれ違い様の「おはよう」にはミントのような清涼感もある。何だ。何が起きてるんだ?

「とりあえずはZoomさんとのCMの件の書類をまとめないと。」

頭を切り替えて河田は自分の机に向かった。

⬜︎⬜︎⬜︎

珍しくカフェでの昼食をとって、河田はオフィスへ戻った。すると見覚えのある男が出てきた。
「あれってこの前牧田さんと一緒に飲んでいた人じゃないか?もしかして商談相手の人?」
何かザワつきを感じた河田の前腕と肩には無意識のうちに血管が浮き上がっていた。
帰ってきた河田に牧田は気づいた。

「珍しく外でお昼ご飯食べたんですか?今度私にもその場所教えてくださいね!あ、それとまた今度一緒にウォーキングしましょ!」

一瞬で前腕と肩の筋肉は緩み、ついでに頬の筋肉も緩んだ。
オフィスに戻ると必要な書類を手に取り社長室に向かった。
「...?! えっと...なんだこれは」
目に入ってきたのは夥しい数のおっ...失礼
乳房であった。そして1つだけ、大切そうに置かれたまるでサモトラケのニケのような美しい彫刻が置かれていた。
筋肉事情に精通している河田にはすぐにわかった。
あの程よくしまった腰回りにやや発達した大臀筋、そして勝手に目に入ってしまうおっ...乳房。
99.99%牧田ななの体つきである。
「社長、失礼を承知でお聞きしますが、あれは身近な人の体を模して作られましたか?」
眉毛がピクついたのを見逃さなかった。
「さっきの笹村さんといい、なぜみんな牧田さんだと言うのかね。」
「私は牧田さんなどとは一言も言っていませんが?牧田さんを模したのですか?」
社長の表情筋が釣り上がる。面白いほど顔に出るとこちらが笑いそうになる。
「そんなわけないだろう!私には妻もいるんだぞ!」
いつもは大人しいのに声をこんなに荒げるなんて笑
「まぁ私は人がどんな恋を選んでも良いと思いますよ?だって人生は一度きり。間違った選択をしてしまったのなら違う選択をすればいいじゃないですか。」
なだめるように言うと、社長の顔はどこか仲間を見つけた小学生のような表情を見せた。
よし、このことにはもう首を突っ込まないようにしよう。絶対昼ドラみたいになるやつだ。

⬜︎⬜︎⬜︎

リビングで白米と豚カツ、味噌汁という珍しくハイカロリーな夕食を楽しんでいた河田に一本のメールが届いた。
送り主は「牧田なな」。件名は「秘密にしてください」。
今の時代にメールなんてと思いつつ中身を確認した。

牧田なな
宛先:muscle029@○○○.jp
秘密にしておいてください
あの、さっき帰り際に社長から2人でご飯に行かないかと声をかけられて困ってるんです。
とりあえず空いてる日があればと言ってその場はしのいだんですけど...
今まで社長から食事に誘われたことなんて無くて、目つきもなんだかギラギラしてる気がしたんですよね。
今度のウォーキングの時にでも相談させてください。
おっと。思いのほか早く事が進展してしまっている。
これはオフホワイト(宮○)どころじゃないぞ。
      
ブラックよりのグレー。もはやブラック。
とりあえず明日返信しよう。今日は疲れた。
そういって今までのザワつきとは全く異なるザワつきを胸に抱えながらベッドに入った。

明るい雰囲気だった港区の1つのオフィスは、なんとも言えない禍々しい雰囲気に飲み込まれつつある。

「社長おはようございます」

「やあおはよう」

秘書の牧田に宮本が声をかける。

前社長の騒動から3年。社内は業務で慌ただしかった。会議室は一掃され、zoomとは広報関係で仕事を共にする間柄となった。


河田の糾弾によって、前社長は追放された。

「これは牧田の模倣ですよね、社長」

「違うと言ったらどうかな?」

「そんなわけないだろ!形状、ハリ、艶、どれをとっても牧田さんのものじゃないですか!」

「ほほう、牧田くんをよく観察してるね」

「正直に言ったまでです」

「妻とのマシーン研究を通して、私の思考は遥か高みへと昇りつめたつもりだったが、どうやら私の妄想も限界らしい」

社長は社長室での最後のタバコを堪能する。

「十分に味わってください」

前社長のゆっくりと吐く煙は寂しげにふわふわと宙に舞う。河田はそれを眺めながら、やけにあっさりと自白する社長の言動に手応えを掴み切れていなかった。

「ようやく部屋を綺麗にしたかったけど、タバコのせいでまた汚しちゃうかな?」と社長の一言一言が河田を複雑な心境へと誘いこむ。一方、社長の非業を無視するわけにはいかないという正義感もあった。

すると社長は妙なことを聞いてきた。

「河田くん。牧田くんをよく知るキミのことだ。その「フィギュア」を触ってみたまえ」

牧田と似る「模型」に性的興奮を隠せない河田だが、正義の名のもとに接触した。すると、

「これは…!」河田は痛感した。見た目だけで、全て牧田の模倣したものだと断定していたが、よく触ると硬さが手に残る。牧田のふくよかな「もの」からは連想できない硬さであったのだ。

「社長、これは?!」

「それは本当は妻を妄想して作ったものだ。家にもう置き場が無くて、とりあえず社長室に持ってきたのだけど、牧田くんと少々モノが似ていたようだね」

「だったら、早く皆に報告せねば!」

「もう遅いよ。この一件は、牧田くんが一番不安がっていたからね。何度か弁明しようと、彼女と話し合う機会を作ったけど、ことごとく断られてしまった。他の社員にも知られてしまった以上、示しがつかん」

「でも、ここまで事態が大きくなる前に、手は打てたでしょ!」

もともと、社長がマシーンの電源を消し忘れた日、社長の妄想は「会議室を綺麗にする」ことで留まっていた。また大量に妄想・錬成された乳房は家では管理できなくなり、仕方なく社長室に持ち運んだに過ぎない。

「なるほど、ボクの自発的行動かと思ったけど、「何かの意思」で動かされていたかもしれない」

「それはつまり…?」

「ボクのほかにマシーンを使っていた人間がいるってことだよ。牧田くん似の乳房を社長室に大量に持ち運び、ボクの信頼を失墜させるよう、妄想した人間の存在がね」

「社長室を乗っ取ったって、誰もここの社長なんてやりたがらないですよ」

「でも牧田くんと最も話せる場所はここ社長室だよ」

その時コンコンと、
怪訝な雰囲気に包まれた社長室に宮本が入った。「失礼します」

「やっぱりzoomとの連携は難しいですよ、社長」と宮本は報告書を社長に提出した。

「アハハハハ、無茶だったかな。やれるだけやってみてよ。そういえば、キミが前に発案したうちのマシーンを別のデバイスに組み入れる案件だが、素晴らしいね。そっちの進捗もまた教えて」

「最近、ラジオを聴いてて、試しにマシーンをラジオに組み入れたら、うまく行きましてねぇ。またすぐ報告します」

さっきまでの暗い雰囲気とは対照に活気あふれる宮本の姿に、河田と社長は微笑ましいものを感じた。

「宮本さん、今時ラジオなんか聴くんすねぇ」河田が問う。

「いや、牧田さんと共通の趣味を見つけたいだけですよ」宮本はそう言って部屋を去った。



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