見出し画像

拗れた人間に救済を

拗れた人間に社会はもっと寛容であるべきだと思う。

陽キャが社会をつくり、陰キャが文化をつくるとは、飲みの席における私の放言に過ぎない。

したがって、無視されて、そこらへんに転がされてもおかしくはない。

しかし、拗れた人間の発言の中には、面白い言葉もあるのだ。

例えば、就活におけるリクルートスーツは「グライヒシャルトゥウング」にほかならない!(強制的同一化※ウィイキペディア参照)などなど。あっこれは私が言ったことか。自画自賛か。つまらぬか。

拗れた人間の思考力は、時折人を笑わすだけではなく、人を思考の坩堝へといざなうことがある。これが一興。

世間では、拗れた人間は子供だ。ガキだ。と罵られ、人間的に未成熟であると一蹴される存在と言えよう。これではあまりにも肩身が狭すぎやありゃせんか。

仮に、ある努力家がいて、10人中8人が「この人はスゴい」と礼賛するとしよう。しかし、残りの2人が「アイツは努力する環境に恵まれているだけ」と陰口を叩くとしよう。

当然、この2人はクズ同然とみなされて、立場を無くすであろう。しかし、私的に見て、この2人の意見の方がはるかに聴きごたえがあるし、何より面白い。残念ながら、こう考える人間は少数なのである。

はっきり言おう。じゃあ、あの8人のように、皆が「スゴい」と言って、努力しようと奮起するとしたら、どうなるか。私なら間違いなく、その社会に息切れして死にたくなるであろう。だからこそ、葛藤だったり、皮肉だったり、嫉妬だったり、それらを内包するストレスが発生して止まないだろう。

そのストレスの絞りカスをこねてこねて作られるのが、拗れた人間なのである。

拗れた人間は内包する嫌な感情を炙り出すことが得意た。そのため、嫌悪され、かつ、共感されるのだ。

Twitterなんかを見ると、拗れた人間のツイートの方が他と比べ百倍面白いのである。

時たま、形容できない感情に立ち会った時、それを形容するのが拗れた人間だ。これはもはや、救済措置にほかならない。重宝すべき存在である。

社会はやる気のある人間に満ち溢れることを理想とする。はっきり言って、やめて欲しい。他人が本気を出すほど、私の神経を逆撫でするものはない。

拗れて拗れて拗れまくって、たまには「社会で頑張るか」ぐらいで良い。みんな、均一化して、堕落して、何かに生まれ変わろう。

拗れた人間は文化をつくる唯一無二の存在。そんな宝を「やる気のないクズ」とけなす今の社会には、もう息切れしそうだ。

拗れた人間代表より

#エッセイ #日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?