見出し画像

神戸の動物園#あなたの神戸をおしえて

「おじいさん、またなんも言わんと連れてったんかいな」

祖母の不機嫌そうな声が聞こえてきた。普段は優しく滅多に叱られることはなかったが、なぜか時々理不尽に叱られた。

「おじいちゃんと神戸の動物園行く時、黙って行ったらあかんで。おばあちゃんにも言うて行きや」

祖父と祖母はほとんど会話をしなかったが、4歳か5歳の私がそんな大人の事情はわからない。祖父が「神戸の動物園いこか」と誘ってくれると私は嬉しくて、すぐに一緒に出掛けた。「あ、おばあちゃんにも言うておかな」なんて気の利くような子どもではなかった。

当時では珍しく、私は共働き家庭で育った。両親ともフルタイムで教員をしていたため、私は家から自転車で15分の駅前に住む母方の祖父母の家から幼稚園へ通っていた。朝は父の自転車に乗って祖父母宅へ行く。幼稚園へ行き、終わるとまた祖父母の家に戻る。夕方両親どちらかが迎えにきてくれるまで、祖父母と祖母の義理妹「あーちゃん」と過ごした。幼稚園は週に1度、お弁当を食べたらすぐに帰れる日があった。祖父が「神戸の動物園行こか」と言うのはその日だ。平日の午後。祖父と二人で阪急電車に乗って高槻から王子公園駅まで。駅から少し歩いたら神戸の動物園、『神戸市立王子動物園』まですぐだ。祖母や両親とのお出かけと違うワクワク感があった。

動物園のゲートを抜けると、綺麗なフラミンゴがいる。綺麗なピンク色のフラミンゴはさっと見ておしまい。「ぞうのとこ、行こ」と祖父に言われるからだ。「ゾウさんのビスケット、買うておいで」祖父に小銭をもらい、売店へ行く。「ぞうさんのビスケットください!」と言うと、顔馴染みのお店のおばちゃんは「今日もおじいちゃんと来たん?」と行って、マリービスケットの小さい包みをくれた。一度、「ぞうさんのビスケットください」と言ったら、「うちはぞうにあげるビスケットなんて売ってへん! 人間が食べるもんだけや!」と怒鳴られた。いつものおばちゃんがいなかったのだ。泣きそうになって祖父のところに戻ると、祖父が黙ってマリービスケットを1つ取ってお金を渡した。

ビスケットを買うと、ぞうの檻の前に行く。祖父はぞうとも顔馴染みだ。長い鼻を伸ばしてくると、祖父はビスケットを1枚その鼻に差し出した。ぞうは器用につかみ、美味しそうに食べていた。

昔の動物園は、そんなことをしても係員に注意されることはなかった。平日でお客さんがほとんどいない、ということもあったのだろう。

ぞうを見た後どうしたかは全く覚えていない。園内の緩やかな坂を登って、他の動物も見に行ったのか。観覧車や乗り物がある場所に行ったのか。たまに乗り物に乗せてもらうこともあったのか。私の記憶はぞうで止まっている。

小学生になると、平日に祖父と神戸の動物園へ行くこともなくなった。学校から帰ると両親、兄と私の家に帰る。祖母が家に来てくれるようになったからだ。出かける時は必ず杖を持っていた祖父は、足の調子が悪いことが多く、神戸まで出かけることもなくなった。何年生の時だったか。遠足で動物園に行くことになった。祖父と通った神戸の動物園ではなく、大阪の天王寺動物園だった。友達は皆、家族と何度も来ていたのか「こっちにライオンおるねんで」と場所も覚えていたのに、私はほとんど来た覚えがなかった。両親が連れてきてくれたことはあっただろうが、祖父とはない。「なんでやろ? 高槻からやったら、天王寺の方が近いのにな」不思議に思い、母に聞いてみた。

「私が幼稚園の時さ、おじいちゃんがよう神戸の動物園連れて行ってくれたやん? そやけど動物園やったら天王寺の方が近いやろ? おじいちゃんなんであんなに神戸の動物園好きやったんやろか?」

母に聞くと、「昔、おじいちゃんおばあちゃんと、おじちゃんらとお母さんは神戸に、王子に住んでたんや」と初めて神戸で産まれ育ったことを話してくれた。

動物園の上の方に、家がたくさんあってな。お母さんが生まれ育った家もそこにあったんや。おじいちゃんおばあちゃん以外に、子どもに一人ずつ乳母がついててな。アメリカ人の家も近所に数軒あって「絵本見しちくれや」ってそこの家の子がうちに来てたりしたんや。

昭和12年生まれの母が子どもの頃。乳母がいるとは、かなり裕福な家だったのではないか。そんな母の家族がなぜ高槻に?

戦争や。
神戸の空襲でうちの家もあのあたりも全部焼け野原になってしもたんや。

神戸を焼き出された後、「いつかまた神戸に帰りたい」と祖父は思っていたらしい。だが戦争が終わる直前に召集令状が来て出征。終戦後、シベリアで8年抑留された祖父は、家族の元に帰って来た時すっかり気力を失っていた。祖母とあーちゃんが営む小さな食料雑貨店が生計を支えていた。「オヤジが無理なら、俺らが神戸帰ろう」と母の兄弟、3人のおじちゃん達も思っていたらしいが、それぞれ大阪北摂に家を買った。

祖父も、母も、兄弟も。誰も神戸には帰らなかった。

小さい私を連れて祖父が何度も通った神戸の動物園。祖父が本当に行きたかったのは、動物園ではなく『神戸の家』だったのかもしれない。空襲で焼かれる前の、あの豊かな頃だったのかもしれない。祖父はどんな思いで動物園にいたのか。無口だったが、「おじいちゃん」と呼ぶと笑顔を見せてくれた祖父。神戸にどんな思いを持ってずっと生きてきたのだろうか。祖父は私が11歳の正月に亡くなった。

ヒトミさんのこちらの企画に参加した。

神戸の思い出なら、たくさんある。

初めて好きな人と二人で乗ったポートピア遊園地の観覧車。
その彼と初めて見た、ポートタワーと海洋博物館のライトアップ。
「俺のおかん、この並んでる豚まん屋じゃない豚まん屋、子どもの頃連れて行ってくれたんや」と幻の豚まんを探して中華街を歩き回ったこと。

神戸を舞台にしたユーミンの歌『タワー・サイド・メモリー』

車の整備士をしていた人と付き合ってた頃、
何度もドライブで連れて行ってもらった神戸の夜景スポット。

小さい息子と元夫と3人行った神戸モザイク。
息子が座り込んでいつまでも見上げていた
「ピタゴラスイッチ」の特大版のような巨大からくり。

20代のちょっと切ない恋の思い出。
30代、親子で行った楽しい思い出。
神戸にはたくさんの思い出があるのに、なぜか今回綴ったのは
祖父と何度も通った神戸の動物園だった。

いやいや、もっと明るい話にしようや。

と心の中で何度も思ったが、私のいちばん古い神戸の思い出になってしまった。

2年前の夏。10年以上ぶりに神戸の動物園へ行った。
綺麗なフラミンゴが出迎えてくれて、人懐っこいぞうさんもいた。
子どもの頃、ものすごく広いと思った動物園は小さくなっていた。

動物園を出て坂を登り、旧ハンター住宅の前を通り、
公園の中を入っていく。
祖父の『神戸の家』があった場所だ。

そこはバスケットゴールがポツンとある公園になっていた。




美味しいはしあわせ「うまうまごはん研究家」わたなべますみです。毎日食べても食べ飽きないおばんざい、おかんのごはん、季節の野菜をつかったごはん、そしてスパイスを使ったカレーやインド料理を日々作りつつ、さらなるうまうまを目指しております。