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そうか、別に誰かを幸せにしようと思わなくても良いんだ

「君を幸せにする」

なんていうプロポーズの言葉。
ロマンチックだけれど、実は人を幸せにすることほど難しいことはないと思う。

何を幸せに感じるかなんて、その人によって全く違うからだ。
しかも幸せは時と場合にもよる。

風の吹く中ふわふわ舞い降りるシャボン玉を壊さずに箸で掴むぐらい難しい。
幸せが感情のひとつである限り、常に移り変わっているからだ。

大切な人が幸せでいてほしいと願う。
対象は1人だけでなく、家族や遠く離れた見知らぬ人の幸せを願うことだってあるだろう。
願うことはとても素敵なことだし、そうすることには何の間違いもないはずだ。

しかしその思いが、誰かを幸せに「する」あるいは「したい」という能動的な行為に変わった途端に、達成の難易度がめちゃくちゃ上がってしまうのである。雲の上まで上がる。

人を喜ばせたい

「幸せにしたい」の類似版が「人を喜ばせたい」だ。
これもやはり、ちょうど良いタイミングでちょうど相手が喜ぶようなことを意図的に行うのは結構難しかったりする。

ウチでよく起こる些細な例を挙げよう。

自分自身では食べないが、パートナーが好きそうだから、という理由で食品を買うことがよくある。でもタイミングが悪かったりとか(相手はフリーランスなので時間が不規則)、何だかんだで冷蔵庫の隅で忘れ去られたまま傷んでしまったりする。
ああもったいない。

本人は食べたいものを食べたいときにしか食べないし、無理に食べてほしいとも思わないので仕方ないが、なんだかなー、である。

パンを焼いた日にスーパーで買って帰ってきたり。
サプライズしようと夕食を作って待っていたら、外で食事を済ませて帰ってきたり。
もちろん意図的ではないし、ごめんねーとは言ってはくれるが
あー、もーぅ!である。

その他、デスク周りの掃除をしたり、会社の事務作業を手伝ったり、果てはズボンの穴を繕ったり、笑。まあ要するに、日々世話を焼いてしまうのである。「こうしてあげると本人も嬉しいに違いない」と思いながらやっているが、空振りすることがある。
で、そういうのが溜まり溜まって、何かあった時に、

ちょっと、いつも掃除してるの誰だと思ってんのよ。
あなたの苦手な事務仕事やってるの私よ。

と、恨み言が出てきてしまうのである。

パートナーの愚痴が言いたいわけではない。
気の毒に、と同情して欲しいわけでもない。

何が言いたいかというと、
そうなる原因は実は自分にあるのではないか、
ということだ。

無意識に自分の行動が相手軸になってないだろうか。

それは誰のため?

人に喜んでもらいたいと思うことは間違っていない。
しかし、そこからの行動が問題なのである。

喜んでもらうためにとった行動は
果たして本当にその人のためを思っての行動だっただろうか。

その人が喜ぶだろうと思うものを先読みして用意する。
良かれと思ってやる「良かれ」も想像でしかない。
勝手な思い込みである。

自分で勝手に想像しておいて、それが外れたら相手に腹を立てる。
それってよく考えると全然フェアじゃない。

相手に頼まれて行った行為がないがしろにされているのなら
腹を立てても構わないだろう。
だがこの場合、頼まれてもいないのだ。

そうすると私の行動は、実はどこかで見返りを求める行為のような気がしてきた。
よーく目を凝らして見てみると、

こんなことをしてあげてるのよ。
喜んでよ。感謝してよ。
世話してあげているのよ。

と、なにやら上から目線の厚かましい姿が見えて来る。

相手に喜んでほしいと言いつつ、恩を売ろうとする気持ちが隠れてないだろうか。
自分が仕切りたいという思いが1ミリもないと言えるだろうか。
人に喜んでもらえる自分のことが好きなだけではないだろうか。

受けとる側は、そんな親切心勘弁してほしいと思うだろう。

繰り返して言うが、
人に喜んでもらいたいと思うことは間違っていない。

ただその思いを基に起こした行動が相手に喜ばれなかった場合、
それに腹を立てたり落ち込んだりするのは自分のワガママだ、ということ。

幸せは自称

「喜び」とか「幸せ」は自発的な感情だと思う。
自分の力でしか到達できない心の状態である。
本人が幸せだと思えば幸せで、外から他人が何をしてあげようと、
幸せだと決めるのは本人。幸せは自称なのだ。
それを他人が再現してあげる(「幸せにさせる」、「喜ばせる」etc)のは
雲をつかむように難しい。

そんな難しいことをしようとして、
失敗したらあなたのせい、は不条理だ。

あるいは落ち込んで、
私は誰も幸せにできない、というのも
単なる自己執着の裏返し。

じゃあ自分は何をしたらいいのか。誰かに幸せになってもらいたいと思った時に。

何もする必要はないのである。
だって難しすぎるんだもの 。

何もしなくていい。

幸せであってほしいと願い、
そこでストップする。

そこから次の行動をとるのは
相手が本当に助けを必要としていると
確信してからで良い。

見守るだけ。

人に世話を焼く前に
自分がハッピーであること。
充足していることが大事。

そうすれば相手が本当に助けが必要だと感じた時に、
純粋な気持ちで手を差し伸べることができる。
太陽のように周りをポカポカ温める感じ。

四六時中、相手が困っているだろうことを探し出そうと必死に想像したり、
相手が足りないだろうと思うものを無理に見つけ出す必要なんてない。
頼まれてもないことをして、感謝されない、と腹を立てる時間があるくらいなら
自分がハッピーであることに集中すること。
それを態度で示すだけで周りにハッピーの輪が広がるのだ。

◇  ◇  ◇

実はこれ、全部ジョギング中に思いついた話。
ごちゃごちゃ考えながらジョギングするのも悪くないですね。
自問自答を通して頭と心の整理ができる。
時には嫌なところまで見えてきて
途中で頭を抱えたくなることもあるけれど。

そしてジョギング後にシャワーを浴びている時にふと浮かんだのが
そうか、別に誰かを幸せにする必要はないんだ。
という言葉でした。

以来これが私のマントラのひとつになっている。

蛇足。
書いている時に、「僕は死にましぇーん。あなたを幸せにしますから。」
と、懐かしい某ドラマの名シーンがぐるぐると頭を回っておりました🤣


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