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3-2 書く=どこに気を使うか

 本書では、この最後の二つのパートで、編集的な観点から、誰でも比較的簡単に「書く」部分をチェックできる方法と、そのコツをまとめます。
「売れる電子書籍」にするために、ちょっとした気遣いで、品質を向上させることができるので、それをこの章でお伝えします。次の章では、そもそも書き上げないことには「売れる」わけがないので、どうすれば書き上げられるか、そのコツに触れます。
 ただし、文章読本のような部分は深くは書きません。いい本がすでにあるので、そちらをご覧ください。ネットで探せば、誰のどんな文章読本がいいか、親切に教えてくれている人たちがいるはずです。また私なりの参考になる本もご紹介しておきます。

ロジカルなだけではつまらない

 ロジカルシンキングが定着し、ビジネス世界を中心にロジックについての勉強をされている方が増えています。書き方についても、ロジカルに書くことを推奨する傾向が強く、そうやって書かれた本が大量に世の中に存在しています。
 ですが、ロジカルに書くことは、「これまであまり長い文章を書いたことのない人が、とりあえず誰にでも伝わる正確な文章を書くための最小限の方法」です。文章を書くためのすべての方法が内包されているのではなく、「最低限、ロジカルに書いてあれば、伝わりやすいよね」ということです。ですから、ロジカルに書けばいいんだ、というのは間違いではありませんが目指すところではありません。富士山でいえば五合目です。誰でもクルマで行けます。
 世の中の本がすべてロジカルな構造で書かれていたら、こんなにつまらない世界はないでしょう。そもそも、世の中はロジカルではなく、例外的に一定条件の下だけでしかロジカルではありません。
「理屈なんてどうでもいいんだ、ふざけたことぬかしやがると、ぶん殴るぞ」という世界もあるわけです。
 ロジカルに書くだけでは足りないのです。第一に、ロジカルに書かれた本は、わかりやすいと言いますが、読みにくく退屈になる危険性もあります。読みにくい、退屈、という評価は、「売れる」要素からはかなり遠いものです。むしろ「やってはいけない」ことでしょう。
 つまり、ロジカルはけっこうですが、なおかつ読みやすくて、魅力的な楽しい文章にしていかなければなりません。名のあるロジカルな書き方の本を参考のために二、三読みましたが、こうした点に触れている本はほとんどありませんでした。
 おそらく、ロジカルに考えたとき、「シンプルに書けばいい」とか「構造的に書けばいい」といったシステム的な部分に注意が向き、「それじゃ、つまらない」という観点は「とりあえず置いておく」となります。
 それでいて、不思議と、ロジカルな書き方を教える本は、けっこう、おもしろく魅力的な書き方になっています。それは、ロジカルに書いたからおもしろいのではなく、おもしろく読んでほしいと工夫しているからおもしろいのです。
 電子書籍で少しでも売りたいなら、ロジカルも大切ですが、おもしろさのほうが優先されることをお忘れなく。
 本書はその点で、ロジカルでもなく、おもしろくもない本となっていますけど、反面教師としてご利用いただければ幸いです。どうぞ、私のこの本より「百万倍ぐらいおもしろい本が書けるぞ」という意気込みで、みなさんも書いてください。

おもしろい本を読む体験が必要

 なお、SNSのところで、自分の関心・興味のある情報を発信しながら、同質のことに興味のある人を集めて、本のプロモーションへつなげていこうといったことを書いたのですが、「おもしろい本を書く」ための方法もそれに似ています。
 おもしろい本を書くためには、おもしろい本をまず読むことです。
 みなさんがお手本にしたいようなおもしろい本に出会っていれば、しめたものです。自分がおもしろい本を読んだことがないのに、おもしろい本を書くことはまずムリです。そこでSNSのように「おもしろい本」のつながりをつくっていきます。チェーン・リーディングです。作家Aの本がおもしろかったなら、そのAが「おもしろい」と言っている作家Bの本をつぎに読む、さらに作家Aを「おもしろい」と言っている作家Cの本も読む、といった方法が考えられます。こうすることで、自分にとっての「おもしろさ」が鮮明になっていきます。
 子どもの頃に小松左京の本(『ゴエモンのニッポン日記』)を読みましたが、それは北杜夫の影響で「同じようにおもしろいもの」をと本棚を探した結果でした。十歳以上年上の従兄弟(当時大学生)が置いていった本の中にあったのです。その人の名誉のために言いますが、『何でも見てやろう』(小田実)など六〇年代の学生が読むような本がいっぱいあったものの、小学生の私には小松左京こそがすばらしいと思い、それが中学時代に『SFマガジン』を読むきっかけになり、筒井康隆、星新一、平井和正、眉村卓、豊田有恒などへとつながっていきました。
 私はジャズが好きですが、最初に出会ったジャズのアーティストから、そのアーティストが好きなアーティスト、共演したアーティストと発展させていくと、自分がどのような曲、リズム、展開、音色、楽器が好きなのか、かなりハッキリとしていくものです。重ねていき、濃くなっていくところが、自分なりに「おもしろい」と思っているところなわけです。
 人と作品の関係性の中で一群の「これもおもしろい」と思える世界があって、それを楽しんでいくことから、つぎつぎと広がります。
 本も同様です。好きな作家や作品があれば、その元にあるものや、派生したものも試してみることをオススメします。そのうちに、「こういうおもしろさを自分でも」と思うようになり、それに適した「書き方」を発見できる可能性があるからです。
 ただ、こうしたことは気の遠くなるような膨大な作業になりかねず、下手にやると地獄のようになっていきます。いつしか「楽しめていない自分」に気づく可能性もあります。短期間にいっきにやるには向いていません。
 過去に「おもしろかった」本をとりあえず探し出し、その一冊を軸に、似たタイプの別の本、時間軸をずらしてその元になった本か、または最新の本を探し、その三冊を研究するというのが、短期的にはいい方法です。もっとも、三冊に絞るためには十冊以上をザッとではあるかもしれませんが、見ることになるでしょうから、書店や図書館、ネットを活用して絞り込んでいくといいでしょう。
 目的は「なにがおもしろいか」を探ることで、さらに「自分なりに活用できるか」を考えることです。好きな部分があれば、素直に書き写してみる。リズムや言葉遣いなど、自分にないものを見つけられれば、いいヒントになるでしょうし、全体の構成、題材をどう料理しているかまで目を向けることができるとなお役に立ちます。
 おもしろい本は、語り口が工夫されているものが多く、知らない間にかなりのページ数を読んでしまっているようなスムーズな文章が多いはず。ロジカルだとしても、ロジカルが前面に出てくることはなく、自然に理解されていくように組み立てられているでしょう。
 コップを説明するとき、「そこにコップがある」と書くのもあれば、「白っぽい陶器が見えた」と遠くから描き、「彼女の気に入っていたコップだった」と近づいて書く方法もあります。目的に応じて、どこから書くとおもしろいか、そしてそのあとの文章に効果的につながるかを考えるわけです。

読みやすさはつくれる?

 おもしろい本にするには、切り口や書き方(語り口)、構成などで工夫していくことになります。必ずしも驚愕の事実、資料の質、主張の鋭さ、奇想天外さ、ユニークさだけではないのです。文字による総合的な表現が必要になってくるので、ちょっとハードルが高いかもしれません。
 一方、最後まで読んでもらえる可能性を高めるために、読みやすくする、という点ではもう少しテクニカルに対応できるのです。
 職人の仕事は「盗め」と言われますが、読みやすい文章は、盗むよりも簡単なコツがあります。主語と述語の関係をはっきりさせて、一つの文章でたくさんのことを語らないようにする。つまり「、」や「。」をちゃんと使い、改行もする。これだけで読みやすくなっていきます。
 なにを印象付け、なにを曖昧にしたいか。濃淡、緩急をつくり、リズミカルに流れるところと、ゴツゴツした部分を意図的に組み合わせることで読者に感じてもらうのです。漢字を多用したり、カタカナを多用することで、印象を変えることもできます。
 こうした工夫は、想定した読者におもしろく読んでもらうための工夫であり、突き詰めれば「読みやすさ」につながります。
 つまり、読みやすさは、意図的につくり出すことができます。もちろん時間をかけるだけの価値はあります。

どう読むかは読者しだい

 電子書籍に限りませんが、本は読者の読み方しだいで、どう読まれても作者は文句が言えません。飛ばし読み、斜め読み、速読……。お好きなように読んでいただくしかありません。
 電子書籍は、比較的、飛ばし読みがしにくいものの、速読は可能です。ページを高速でパラパラしにくいので、気になるところだけを飛ばして読むのは難しいのです。
 それでも、レイアウト上の制約が少ないリフロー型式で電子書籍をつくるときには、小見出しや、まとめなどをつくったり、キャッチーな文章を文頭に持ってくるなどして、素早く内容に入ってもらえる仕掛けをすることもできます。
 読みやすさを追及することは、最後まで読んでもらうために必要なことです。どんな読み方をされてもいいですが、途中でダウンされることなく、最後まで読んで欲しいわけです。
 なぜなら、読者は最後まで読んだときに、最高の満足度を得るからです。パラパラと必要そうなところだけ読んでも、満足度は低いでしょう。
 本は長さに関係なく「ちゃんと読んだ」という満足感が重要なので、内容以上に、読了できるようにつくらないと最低限の役割を果たせません。これはまあ、少し言い過ぎですけど。内容がよくても読み終わらないのでは、どうにもなりません。私はちゃんと読んだ本も多いですが、「源氏物語」だとか「戦争と平和」は、ダイジェストしか読んでいないのでなにも語れません。おもしろいかどうかさえ、よくわかりません。みなさんも、途中でやめた本をいくつか思い浮かべることができるでしょう。「挫折した」なんて言う人もいますが、私は途中でやめた本でも「読めるところまでは読んだ」ので、個人的にはそれでいいと思っていますが、いまこのような場でお話したり、書いたりすることは遠慮せざるを得ません。だって最後まで読んでいないのですから……。
 どのように書けば、途中で読むのが嫌になるか。それについてはみなさん自身が経験済みで、よくご存知のはずです。
 ですから、ご自身でお書きになるときは、そうじゃない本にすればいいのです。

接続詞と文末

 いますぐ、そこにある文章を読み直すときに、気づいてほしい最低限のことは、接続詞と文末です。
 読み直すとき、読者のように読めと言っても、自分で書いたものなので、そこまで客観的には読めないものです。すべてわかっていることなので、さっと読めてしまうでしょう。それでは読み直しになりませんから、あえて機械的にチェックしてみてください。
 接続詞と文末は、手っ取り早く文章を読み直すときの道路標識のようなものです。本文を読むというよりも、一度はそこだけを最初から最後まで見てください。
 接続詞は「文章を人に理解してもらおうとするとき、その印象を決定づけるもの」と『文章は接続詞で決まる』(石黒圭著)にありました。極めて重要なのに、案外、乱暴に使いやすいのが接続詞です。
 日本語で書かれた文章は、接続詞がなくても読めます。新聞記事は原則、接続詞を使いません。短い文章で事実を伝えるために、「だが」とか「それで」といったものは省きます。ということは、なくても読めるのに、なぜ使うか。それは、「理解してもらおう」という気持ちからくるものであり、多用せず、使うならビシッと決めることで「印象を決定づける」ことができるからです。
「しかし」や「だが」のように、ついつい何度も使ってしまうクセに気づいてください。「多いな」と思ったら検索機能を使って、最初からチェックしていき、言い換えたり、削ったりするのです。逆接の接続詞を多用すると、なにが言いたいのかわからなくなってくるので、文全体を修正しないといけないかもしれません。
 小さな子どもが「でもね、でもね」と言っているようなもので、「なにが『でも』なんだ、はっきり言いなさい」と言いたくなります。
 新聞記事にはほとんど使わない接続詞ですが、少し長めの寄稿、なにかを論じている文章などでは使われていて、とくに「結論の前」には接続詞がつきやすい。強調のために接続詞を使うことができますから。接続詞だけ追っていけば、論旨がわかることもあります。
 接続詞が出て来たとき、「必要か、不要か、多用していないか」を機械的にチェックしてみてください。迷ったらとりあえず、削って大丈夫です。もう一度、読んだときにどうしてもつながりが悪ければ復活させればいいでしょう。
 見渡してみて、同じ接続詞が何度も出てくるようなら、それも一つを残して全部、削る。ほかの表現があればそれに置き換えます。これだけで、文章はかなり読みやすくなり、ズバッと決まった接続詞は論旨を明快にしてくれます。
 単調になりがちな文末にも注意が必要です。
 学校では「敬体」(ですます調)と、「常体」(である調)を習いましたよね。そして、敬体と常体はまぜてはいけない、と習っているでしょうか?
 常識のように、敬体と常体は混ぜたら「違反」かのように思われているかもしれませんが、本をよくお読みになる方は、「そんなことはない」とご存知でしょう。「だである」(常体)の地の文章と、ですます調(敬体)の「会話」がまざっている作品はたくさんあります。
 また、基本は敬体なのに、ところどころに常体が顔を出すケースもあります。私のこの本もそうです。たまに、体言止めのような効果として、「だである」で終わらせている文章があります。
 なぜそうなるかといえば、文末の単調さを避けるためです。
「なのだ」「なのだ」「なのだ」と、バカボンのパパのような文章を見つけると、うれしくなってしまいますが、絶対によくないわけではないものの、一本調子になっていくことは否めません。
 ですます調(敬体)で書いていて、主語と述語を明確にし、文章を長くしないで「。」を入れていくと、文末の数が増えていきます。それだけ単調になりがち。それをどう変化させて注意を向けてもらうのか。そこに工夫のしがいがあります。
 私の場合は、あえて「思います」と入れてみたり、「でしょうか」と終わらせることもします。「でしょうか」と断言していない言葉を嫌う人もいますが、文章の前後を読めば、曖昧なようで結論ははっきり出ていることもあるので、文末をこのような曖昧な文章で終わらせても問題なく意味が伝わることもあります。この場合、「でしょうか」と投げかけて終わらせて、読者が「いいえ、そうではないですね」とか「まったくその通りだ」と内心、思ってくれればいいわけです。
 なお、最近は官公庁の配布資料なども「ですます」(敬体)が増えていて、わかりやすく親しみやすくなってきました。同時に、単調さをクリアするための工夫もされていることが多く、参考になったりします。
 常体は結論を力強く言えるので、好きな人も多いでしょう。でも、これも単調になりやすい。それを防ぐのがセリフです。セリフは口語で書くのが一般的なので、常体の中に入ってきても違和感はありません。
 また常体でも「であろう」という終わり方もたまに使うと効果的です。自信のない結びのようでも、さきほどの「でしょうか」と同じ読者への問いかけ効果があります。
 こうした文章の見本を手早く確認したいときに、『高校生のための文章読本』(筑摩書房)は便利です。どんな文末が単調さを救い、どんな文末によって文章全体がくっきりするか、考えながら見ていくといいでしょう。

なぜわかってくれないのか?

 読みやすい本が、わかりやすい本だとは限りません。
 これがまた、本のおもしろくも難しい部分ですね。
 いまさらこんなことを申し上げても遅いのですが、たいがいの本はわかりにくいのです。わかりやすい本は、わかっていることを書いている本であって、読者にとって知っていることしか書いていません。未知のことが書いてある(つまり有益なわけです)本ほど、わかりにくいのです。これを解消するために、たとえ話を使うこともありますが、それによってかえってわかりにくくなっていくこともあるので、万能ではありません。
 この点について、先ほども引用した 『文章は接続詞で決まる』(石黒圭著)に、ズバリ書いてありましたので、再び登場していただきます。
「文章というのは社会的な存在です。読み手が読んで理解できるように書かなければなりません。しかし、私たちが文章を書くと、どうしても自分の論理で書いてしまい、その結果、その情報に初めて接する読み手が理解できなくなるということがしばしば起きます。文章を書くということの難しさは、まさにそこにあります」
 書き手は「わかっていることを書く」。読み手は「わからないから読む」。このため、どれだけわかりやすく書いたつもりでも「なんだか、よくわからない」というのが本来であって、すぐにわかってしまう本は、未知の部分がほとんどないか、読み手が極めて優秀なのか、またはちゃんと読んでいないかのいずれかでしょう。
 私も読み手として自戒をこめて書きますが、読者は「曲解」が得意です。わざと曲解します。私のようなひねくれ者は「裏があるだろう」と邪推し、「これは実は皮肉なんじゃないのか」とうがった見方をしてしまいます。いけない読者です。でも、本はそんな読者にも愛されています。多少変態っぽくても、愛は愛です。
 だから、書く側は、そういう事態を含めて書くことになります。
「どこがわからないのか、わからないのです」という人に読んでもらうのだと思ってください。
 どれだけロジカルに書いても、読者はやすやすとそのルールを飛び越えて、勝手に読み込む自由を持っています。読者の横についているわけではない著者は、それを監視することもできませんし、「正しい読み方」を強制もできません。
 どこまでわかりやすく書くか。それもみなさんの腕の見せ所ということになります。
 この場合も、第三者の意見が得られると、かなり役に立ちます。
 駆け出しの頃、エッセーの上手な経営者がいまして、私が担当するかなり前から、長期の連載をお願いしていました。学歴は高卒で、歴史小説が好きだということはわかっていますが、それにしても上手なのです。そこで「どうすればそんなに上手になれますか」と聞いたことがありました。
「女房に読んでもらっている」とおっしゃっていました。
 最初に寄稿を頼まれたとき、自分の原稿が載っているのがうれしくて、奥さんに見せたのだそうです。すると「私にはさっぱり意味がわからないわ。あなたは、会社ではエラそうにしているから、そんなわかりにくい文章を書いても、部下の人たちが一生懸命読んでくれるんでしょう」と言ったそうです。
 それにショックを受けて、以後、原稿を書いては奥さんに読んでもらい、書き直してから送付していたらしいのです。それを繰り返しているうちに、「なにがわからないかもわからない読者」に向けて書く方法を覚えたようです。
 いいパートナーによって、文章が格段によくなることは、古今東西、よく知られています。迷ったときは、身近な人に読んでもらうのが、いいかもしれません。

一つの文章に盛り込みすぎない

 私は常々、本を書くことを本業としていない人の原稿を読んでいて思うのは、なぜ「。」をつけないのか、です。
「、」はつけるのに「。」はつけない人がいます。「。」をつけたら負けというゲームでもないのに。
「ぶつ切りみたいでカッコ悪いじゃないか」とおっしゃる方もいました。ですが、だらだら長く続く文章よりは、ぶつ切りの方がマシなのです。「一つの文章にどれだけ盛り込めるかコンテスト」をやっているわけではありません。
 思いをいろいろ加えていくと、文章が長くなり、わかりにくくなっていくものです。それがどれだけ読みにくいか、ぜひ、Kindle、Koboなどの電子書籍専用端末や、スマホで読みながら確認してほしいのです。
 一つの文章にたくさんの情報や機能を盛り込むと、わかりにくくなります。この方法が有効なのは、わざとわかりにくく書くときだけです。これまで「わかりやすく」と書いておきながら、ここでこんなことを言うのもなんですが、意図的にわかりにくく書くことも、一つの方法であり個性です。
「なにを言ってるんだ、コイツ」と読者が何度か読み返してくれることを狙うわけです。
 それも、あんまり頻繁にやると、読者は付き合いきれなくなりますので要注意ですが。
 文と段落の関係は、多くの文書読本にあるでしょうから、ここでは述べません。日本語は英文とは違い、パラグラフの概念は厳密ではないのです。英文式に書く人も増えているようですが、間違いとまでは言いませんが、日本語で書くときは大して有効ではありません。センテンスという概念も日本語では少し違います。英文の原文と、翻訳文を比較するとよくわかることも多いのです。
 一つひとつの文章で、なにをどこまで描くか、それを任されているのが著者なのですから、個性であるとか頭のよさを見せつけることも大切でしょうが、同時に「。」をしっかり打って、できるだけ短い文章で言いたいことをはっきりさせ、さらにそれによってたたみ掛けるように読者に理解を促しながら、ご自身の言いたいことをすーっと染み込ませていくように伝えることができれば、それに越したことはありません。
 ふー、こんな感じでわざと「。」を減らした文章をつくってみましたが……。
 おわかりのように、日本語は文末に結論がきます。そして、途中の文が、どこに掛かっているのかが重要になります。国語のテストでよくありますよね! ですが、掛かりがわかりにくい文章そのものが、読む人を試すことになります。また、文頭に出た言葉と文末を直結させれば、通常は意味がスッと通るはず。それなのに「。」を減らすと、盛り込み過ぎて複数の文末が発生しているため、「。」の前にある結論と、文頭はつながりません。これがわかりにくさを生み出します。だったら文章を短く、結論を明確にしていくことで改善できるはずです。

校正・校閲が大事ですが……

 校正は、文字の間違い、誤用、表記統一などをすること。整えていく作業です。推敲とは違い、元の文章をより正確にしていくものです。もちろん、著者自身が校正するときは、不具合に気づけば推敲同様に原稿を変更していく必要も出てくるでしょう。その場合は、いわばバージョンが変わるわけですから、原稿を変更したあとに、再度、校正をする必要があります。Wordや一太郎の校正機能も、使い方しだいでは役に立つので、ぜひ活用してください。
 校閲は、事実確認、勘違いの修正、矛盾、不適切な表現のチェック、引用の正確さ、出典、参考文献チェックなどをしていくものです。
 ロジカルに書いているはずでも、不適切な「たとえ」であるとか、四字熟語の誤用などによって、読者に正反対の結論を印象づけてしまうこともあります。矛盾はよくあることで、この本でも最初に言ったことを否定するような話があとから出てくる、といったことが生じているかもしれません。なにかが抜けている、もう少し補足が必要なときも、矛盾しているように見えることがあります。
 思い込みによる間違いをなんとか修正したいものですが、セルフパブリッシングの場合はなかなか難しい作業になります。通常、校正・校閲は出版社で専門家がやることになっています。客観性と技術の両方が必要になります。機械化は難しく、人手でやるしかないですが、ネット検索は役立つこともあります。少しでも怪しいと思うところは、ネットで検索するなどして、修正していくといいでしょう。もちろん、ネットも完璧ではないので、さらに客観的な証拠などを探していく必要もあります。
 最終的には読者から指摘があったときに、ちゃんと「こういう文献ではこうなっている」とか「この理論ではこうなっている」と言えればいいわけで、あまりにも際どいときは、両論併記をするなり、注釈をつけておくといいかもしれません。

電子書籍は校正できない?

 紙の本では、原稿をレイアウトして、初校を出します。ゲラとも呼ばれています。原稿はレイアウトができていませんし、フォントも違いますので、ゲラになってはじめて最終的な印刷物につながる校正紙となるわけです。そのため、原稿をいくら修正していても、たとえば中国の地名など、原稿は正しい文字なのに、ゲラでは違う文字が当てられている、といったことも起こる可能性があります。そこで修正しなければそのまま本になってしまいますから、ゲラからの校正は原稿とは一段階違う真剣さになっていきます。
 まず、原稿通りになっているかをチェックし、それから読んでみておかしくないかをチェックします。このとき見出し、章のタイトル、ノンブル、柱といった、原稿とは違う処理をしている部分にも気を配ることになります。
 紙の本では、ページの概念がしっかりしているため、見出しがおかしなところに来てしまうことも多いのです。ページの端っこにきたり、折れ目(のど)のところにきたり。それを少しでも見やすい部分に移動できるかどうか。
 さらには段落の調整もしたいところです。やたらに改行が多くなっているとか、何ページも改行がない、といったことも「読みやすさ」から修正する必要があるかもしれません。
 電子書籍には、この段階がありません。
 原稿のデータが、EPUBになったときに、意図したとおりになっているかチェックしていくのですが、これもデバイスによって表示が変わるので、すべてのデバイスでチェックすることは困難でしょう。
 どうやって校正するのか。そこが大いに問題になります。
 私の場合、原稿段階で校正をして、KDPでKindleのデータにしたあと、そのデータをデバイス(Kindle Paperwhite)でチェックしています。このとき、チェックしながらパソコンでは一太郎の最終原稿を開いて、原稿を修正しています。原稿を修正したら、再びKDPでデータをアップロードし、それをまたデバイスでチェックします。この繰り返しです。
 紙に出して校正したいと思っても、難しいのが現状です。Kindleの型式であるmobiファイルをプリントアウトしている人の話をネットで読んだりもしましたが、私にはハードルが高いですね。
 印刷する過程で変換されていくので、本当にデータがちゃんと印刷されるのかよくわからなくなっていく不安があります。EPUBなら、たとえばAdobe Digital Editionsで開いてそこからプリントアウトができるようですが、これも、最終的なデータとまったく同じだという確信が持てません。
 つまり、いまの時点で、データを最終的なカタチ(読者がダウンロードして開いて見た姿)と同じに印刷できる、という確証が持てないので、手間をかける価値があるのかどうか判断ができません。
 現実問題、PDF化するときでも、ちゃんと原稿通りに表記されないことがありますから、このあたりは慎重に考えていくしかないのかな、と思っています。
 なお、これに近接したテーマとして、EPUBのクオリティ問題があります。EPUBもHTLMに近い記述、スタイルシートなどによって文章を表現するわけですが、このタグなどの記述水準の善し悪しもあります。出版社では電子化するときにある水準以上を求めると思います。ただ、これもセルフパブリッシングでは現状では深入りしにくい問題です。私としても今後、考えていきたいと思っています。