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日本の若者よ、じぶんを褒めよ!

カンボジアで学校保健プロジェクトを行っている中で、保健の先生(養護教諭)を目指している日本の大学生とも交流がありまして。今年の3月に日本の教育大学の養護教諭課程で学んでいる大学生11人のカンボジアスタディツアーを受け入れて、10日間学生たちと一緒に過ごしました。

2年間閉じこもっていた世代

11人の学生のほとんどが、初めての海外もしくは初めてのカンボジアという学生たちでした。この2年間、大学の講義もオンラインだったり、海外どころか国内旅行すらままならない時代に大学に入学した世代の学生たち。考えてみたら、このツアーは彼らにとってただのツアーではなく、閉じこもりからの開放でもあったのです。クラスメイトであっても、マスクを取った顔を見慣れないとか、大学のイベントなどで学生同士長時間を一緒に過ごしたことがないとか、そんな状態でいきなり海外で集団生活を送るというなかなかインパクトある体験でもあったようです。

自身を誇る学生、落ち込む学生

ツアーのメインイベントは、カンボジアの教員養成大学の同世代の学生たちとまるまる1日一緒に過ごすという、日本とカンボジアの学生間交流。通訳などつけず共通言語は英語とし、1日のスケジュールやプログラム作りもすべて学生に委ねた、ちょっとスパルタなイベントでした。国立大学の中でも偏差値の高い教育学部(の中でも狭き門である養護教諭課程)の試験を突破して入ってきた学生たちはさすがなもの。準備から当日の仕切りまでテキパキとこなし、英語でコミュニケーションを取ろうと奮闘している姿に、わたしはすごいなぁと感心しっぱなし(目線はすっかり母親です)。11人の様子をたとえて言うなら、全員が学級委員長。これまでずっと優等生として学力的に恵まれてきた子たちなんだろうなぁと思いました。
交流が終わると、お互いの奮闘を讃えるかのようにパーっと打ち上げでもする、かと思いきや、日本の学生たちは反省会。英語ができなかった、進行をうまくやれなかった、カンボジア人の学生の意見を引き出してあげることができなかった、と口々に”できなかったこと”や”だめだったこと”を探して反省しはじめるのです。一方のカンボジア人学生たちは、自分たちはよくやった! といった満足げな表情をしています。

まじめも時にはアダとなる

む? 待てよ、この状況、どこかで見たぞ・・・。わたしがプノンペン大学の大学院に通っていた2年間、まさにこの学生たちと同じ状況だったのです。レポートの不出来に猛省し、プレゼンの準備不足にひとり落ち込み、修士論文に至っては、いまでも書き直したいと思ってるくらい。それでも成績は(自分で言うのもなんですが)優秀で、ほとんどAでBが少し。修了生のなかでも2番目の好成績でした。一方のカンボジア人クラスメイトたちは、カンニングして中間試験を通過しようが、他人が作った資料に名前だけ乗っけてプレゼンに参加しようが、終わればすべて「じぶんGood job! 」なんです。もう気持ちいいくらい、「じぶん、がんばった。じぶん、優秀」。猛省中のわたしは、彼らの根拠ない自己肯定感の高さになんか笑えて励まされたくらいです。ちなみにカンボジアでは、じぶんを褒めたもん勝ちなところがあって、一人ひとりの細かいところまで教師は見ず、「できる! 」と主張する生徒を評価するところがあると、学校現場を見ていて感じることが多々あります。だから、できているのに「できなかった〜」なんて言ってる日本人は、カンボジアでは評価されません。まじめ過ぎることも時としてアダとなってしまうのです。

意味のある時間を生きる

スタディツアーが終わって1ヶ月半が経過した先週、スタディツアーに参加した学生11人によるプレゼンイベントがありました。わたしもオンラインで参加してすべての発表を聞きました。たった10日のツアーです。わたしの中では10日間アテンドして最後に学生を空港に送り出して、経費精算を経理課に提出して、それでツアーは無事終了〜。なのですが、学生たちは、ツアーで体験して学んだことをこれからの学生生活に、卒業後の人生に、どう生かすか。日本人としてできることは何か。ということを今でも考え続けていたのです。10日を10日で完結させない、たった10日間の出来事でも”自分のもの”にして”人生の糧”としてやろうという気概のようなものが見えました。一人ひとりのプレゼンに感動しました。

日々の仕事をやっつけるだけになっていた自分に気づかされ、わたしもカンボジア生活のなかで日々起きていることをまずは自分のものとして、それから人に発信して、意味のある時間を生きるよう努力せねばということを学生から学びました。
代わり、学生たちには言いたい。「じぶんを褒めよ!」


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