見出し画像

途上国で、質の高い教育って?- 例え話 -

Facebookの親切な機能で、1年前のあなたはこんな投稿していましたよ、というのがありますが、毎回同じ感想なんですよね。「え? もう1年経ってるの?」。
1年前の今日、修士課程の最後のセメスターの授業が終わったようです。教室で勉強(オンライン授業の期間も結構ありましたが)するということが1年も前に終わっていたのに、修了証をいただいていないので、まだ学生です、あしからず。

学生として体験したカンボジアの授業

いわゆる”教育支援”に関するプロジェクトにNGOの職員として10年ほど関わってきましたが、ずっと合言葉のように言われていたのが、「質の高い教育」というもの。突き詰めると、これがなんなのかわからなくなって、”ハイレベル、ハイクオリティ”が謳われているプノンペン大学で、学生として考えてみることにしたというのも、BBA学生になった理由のひとつです。
プログラムは心の底からAgreeというものばかりではないのですが(例えば、第1セメスターで統計学をやるので論文を書く頃みんな忘れちゃってるとか)、シラバスと、何より教授陣は、ついつい唸らされてしまうスンバラしい方々ばかりでした。
「質の高い教育」の条件に「教師の質が高いこと」がありますが、これには全面的に賛成です。自分の経験からしても、あの教授陣じゃなければ、今のわたしはこんな満足感を得られていなかったという実感もありますし。子どもみたいな簡単な表現で恐縮ですが、全部、いい授業でした。

例え話による知識の染み込み

いい授業のキーとなるのは”伝え方”であり、伝わるというのは、その知識が学生のなかに「入る」だけではなく、「染み込む」かどうかだと思います。例え話が上手か下手でも、学生の授業の理解度が変わる、つまり染み込み方が変わると思いました。例え話は、簡単なようでそうではないと思うんです。人に何かを尋ねて理解が困難だった時「それって例えば?」と聞いてみて、スルッとわかりやすく例えてくれる人ばかりではないでしょう。わたしの中で「この人賢いなー」と思う基準のひとつは、例え話が上手いことです。
例え話は、豊富な知識と経験がないと出てこないものだと思います。自分が経験したことだけではなく、本、新聞、ニュース、映画などからも例え話は引用されるからです。そして、受け取る側が誰かによって、例え話のレベルも変化させなければならないというワザも必要です。小学校低学年に話すのと大学生に話すのでは、例える内容も変わってくるはずだから。
今、考えてみたら、授業で印象に残っていたり楽しかったのは、教授陣のお話で、そこにはたくさんの例え話が満載されていました。

教科書や指導案通りからの脱却

カンボジアで教育といえば、少し前までは、「教科書を丸暗記すること」「教師の板書をノートに写して覚えること」だと理解されていました。これは、おそらく40年前に知識層のほとんどを粛清で失い、文字が読める人を探して教師になってもらうところから教育再生がスタートしたという歴史が残した産物だと思っています。教科書を絶対にしておかないと、”誰が教えても大丈夫”という状況は作れないからです。
また、教師とはどういう仕事か? という問いに「持っている知識を子どもたちに伝授する」と答える教師がほとんどだということを聞いたことがあります。わたしもNGO時代、地方の教員養成校で奨学生を選考する面接を行った際、「どうして教師になりたいのか?」という問いに同じ回答を見ました。一見、素晴らしい回答ですが、そこには限界があるように感じます。じゃあ、その先生の知識が高くなかったら?
子どもの教育に天井を作らないためにも、教師は自分が持っている知識や教科書の内容にとどまらず、子どもの興味や探究心を引き出す教育に転換する時代になったような気がします。

小中学校の教師たちもいろんな経験をして、たくさんの例え話ができるようになるといいなぁと思います。本筋に外国が支援のメスを入れるのはどうかなぁとは思うのですが、教師たちの経験値を上げるための支援なら、積極的に行ってもいいのかもしれないですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?