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スウェードの最後のインタヴュー    

 スウェードが、2023年本年来日するという。しかもマニックスとのカップリングだそうだ。延命をこそ目的化したバンドとの同行はどう考えてもギャグでしかないが、良いも悪いも感じない。老いることはそもそもそういう事である。
 これは2003年に取った解散決定直後のブレットとのインタヴューで、掲載媒体の性質からほとんどの方が読んだことのないものだと思われる。我ながら彼らの本質に迫ったものだと感じるけれども、それは私の技量というより、解散を決めているのにまだ諸事情で発表出来ない微妙なスタンスが、導いたものだった。
 理性で若さを表現しようとした稀有なバンドとして、再び刻印されていいだろうとの想いもあって読んでもらいたく再掲載する。


彼はつき物が落ちたかのように穏やかに笑った


 2003年2月12日、口ンドンから取材を終えて帰ってきた私を待っていたのは、バンドからの以下の公式声明だった。

スウェードは来年から各自のソロ活動に入ることを表明します。スウェードとしての新しいスタジオ・アルバムは、バンドが自発的にそれを欲することがない限りは、制作されません。すでに決定している年内のツアーは行われます。スウェードは永年にわたるファンの素晴らしいサボートに対して、ここに感謝するものです。
―See You In The Next Life

 これには最初、私は仰天した。表向きは休養宣言だが、雑誌の休刊などと同様に、実質的には解散宣言といってよい内容だからだ。単なる休養なら最後の謝辞は絶対にないし、ましてや、かのファースト・アルバムの最終曲のタイトルなど、入れっこない。ところが、私がバンド・リーダーのブレット・アンダーソンにインタヴューしたのはこのわずか6日前のことで、少なくともその時点では、彼はスウェードの展望をそれなりに明確に語っていたのだ。土日を挟んでわずか5日間でバンドが解散を急遠決定するなんてことは、よほどの大事件が起こったとしてもあり得る話ではない。また、バンドがすでに解散を決定しているのに、インタヴューに応じるというのもおかしな話だ。当然、このような重大な発表に際しては、期日を明確に定めて、それまで極秘にしておくものだからだ。そう考えると一体どうしてあのような時期に2時間もの取材時間をくれたというのか。私は大いに混乱してしまった。だが、関係者と話し合い、あの現場のムードを思い起こし、ブレットの慎重な言いまわしを考えているうちに、あるロマンチックな結論に達した。だが、これはあまりにも手前味噌だし、勝手な憶測に過ぎないので、ここでは敢えて書かないことにする。それよりも、このテキスト全体の中から、スウェードがどういうバンドであったのかという理解の一助となるエピソードとして、これは読者に判断してもらおうと思う。

スウェードはどこに向かおうというのか?

 スウェードの歴史はロック史に燦然と輝くというほどの評価を一般には得ていないが、それでもデビューからのチャート・アクションを見る限りでは、90年代を代表する英国トップ・バンドとするのに誰も異論を挟めないだろう。90年代に発表した4枚のアルバムは、それぞれ全英2、3、1、1の順位。日本でも1、3枚目は15万枚以上の売上を記録している。
 だが、2002年9月に出した5枚目のスタジォ録音盤『A New Morning』というアルバムがちょっと酷すぎた。チャート・ベスト40にも入らない商業的失敗そのものが問題というより、それが何に起因していたかである。ここでは、毒気、悪寒、禁忌、忘我、敵意、醜悪さ、狂気、恐怖、といったロックが社会と正確に対時する際に必然的に武器とする要素が、ほぼ根こそぎ取っ払われてしまっていたのだ。雨によってすべてが浄化されていくと歌うラスト・ナンバーが象徴するように、モチーフはひたすらヘルシーでクリーンなものばかり。サウンドもしたがってまるで何かの賛美歌のようですらあり、これまでと全く反対の意味でギョッとしたものである。こうした作品を作らざるを得なかった背景は方々で語っているように、前作『Head Music』からの反動であるが、問題はもっと根深いところにあった。

「『Head Music』を作ったのは1998年で、あの年は僕の人生の中で最悪な年だったと思う。アルバムを作っていた時にやったドラッグの量といったら途方もないものだったし、重症のドラッグ中毒だった。また意思も弱く、自己中心的で、集中力もなく、自己嫌悪も最大限に達していた。『Head Music』はまったくの混乱とパラノイアの雰囲気の中で作られたアルバムだった。ドラッグの多量使用によって苛まれたアルバムだと思う。「Indian Strings」「Can't Get Enough」「Everything Will Flow」「He's Gone」といった曲群は正統的な名曲といえるから、今にして思えばもっともっとグレイトなアルバムになりえたものなんだ。後悔するのは好きじゃないが、でもああいった間違いから何かを学ばなかったら馬鹿だよね」

 これに対して、『A New Morning』の位置付けはこうなる。

「『A New Morning』は純粋さを祝うアルバムだったんだ。根本的には僕自身のパーソナルな意思表示だった。ドラッグをやって健康とはかけ離れた生活をした後、人生の最低な時期を潜り抜けて、なんとかしてクリーンなライフスタイルに到達したことへの祝福だったんだ。まあ少々やりすぎた感もあるんだけどね……。というのはスウェードのファンがスウェードに惹かれたのはそもそも、ダーティーな刃があったからなのに、『A New Morning』で僕はそれを故意に取り除いた。その代わりに、朝とか積極性とか、純粋性を祝う曲を書いたんだ。ただ、もう、これほどクリーンなアルバムを書くつもりはないよ」

 つまり、あの全英1位に輝いた『Head Music』は理性的でなかったが故に不完全だとし、『A New Morning』のほうはそれに対してのリハビリだと言っているわけで、一見筋が通っているが、単にそうした反動という位置関係で捉えていいのだろうか。今回の取材のポイントは、その点の見極めにこそあった。というのも、『A New Morning』以降、スウェードは2曲の新曲を発表しているのだが、ひとつはなんと、あのカーディガンズで有名なトーレ・ヨハンソンのプロデュースで、およそスウェードらしくない。一方、もう1枚は先ごろリリースされて1年ぶりにトップ20に返り咲いたナンバー。これには彼ら特有の暗さが戻って来てはいるが、まだ、噴出するような毒気はない。希望的観測と、このままでは……という気持ちが一緒になって、私は作品取材タイミングでもないのに、いまこそ劇的な変化がバンドに起こっていると、躍起にオファーを入れていたのだった。

 ーとすると、『Head Music』の時は、自分を追い込んで、敢えて苦しみの中に身を置いて、相当な無理を強いていたということなのか?
「意図的にそうしたわけじゃないんだよ。なんといっても、それまでの僕ときたら、それはもうかなり過激なロックンロール・ライフ・スタイルに浸かっていた。まさにセックス、ドラッグ、ロックンロール。僕が書いてきた、人生のダークサイドを扱った曲というのは、実際にその立場に立たなければ書けないような曲ばかりで、客観的には書けない。そういった実生活を体験しなければ書けない。多分それも行き過ぎだったと思うけれど、言い訳はしない。それなりに楽しい経験だったと思うしね」

―『Head Music』に入っている「Everything Will Flow」というナンバーは東洋思想に初めて触れたナンバーだ。それまで瞬間だけを切り取っていたスウェードが初めて、ロング・タームの事象を扱ったとも言えるわけで、これこそが既に大きな変化を予見していたとは言えないか?
「あの曲はとても美しい曲だと思うんだ。あのアルバムの中では僕の一番好きな曲になるかもしれない。東洋の哲学、仏教なんかに影響を受けた曲で、カーマという考え方に触れている。それはロックンロールの世界の理想や考え方とは対極にある考え方だよね。ロックンロールの考え方とは可能な限り多くを消費し、破壊するというものだから。「Everything Will Flow」はその逆だ。だから、そうだね、ある意味でターニング・ポイントだったとも言えるね。バンドをやっている連中はとっても過激で過剰なライフスタイルを体験するから、もうこれ以上はダメだというほどの限界に達する。そこでそれまでとはまったく違った何かを見つけなければならなくなる。だからミュージシャンとか俳優とかには、宗教に向かう人が多いんだと思う。長年の間、消費し破壊し、破滅的な生活を送ってきた後に、精神的な何かを人生に求めることになるんだと思う。自然な過程だと思うね。消費以外のところで、慰安を求めるというか……。確かに対照的だ。僕があの曲を書きたくなったのは、その前に3枚分のロックンロール・アルバムを、根本的には動物みたいな行動について書いたわけだし。ロックって、自分を犬のレベルに卑下した音楽だと思うしね(笑)。だから、いったんそこから頭をもちあげてもっと精神的な曲を書いてみたいと思ったんだよ」

―では、確認したいのだが、今後のスウェードはどうなっていくのか? 動物的衝動の時期を潜り抜け、これでは保たないと悟って、ライフスタイルを抜本的に変えたその後。
「最近書いた新曲はもっとダーティーだし、一連のポルノ・ミュージックって自分で呼んでるくらいなんだ。新曲はそんな方向に向かっている。ずっとセクシュアルで。『Singles』に入れるために曲を8曲書いたんだ。その8曲の中から2曲を選んだわけなんだが。あれはポルノチックな曲といえるだろうね。殆どがセックスについての曲だ。最近セックス・ライフを新生したんだよ(笑)。若いガールフレンドができて。かなりの時間をベッドで過ごすし。そこから多くの曲が出てきた。音楽的にはよりエレクトロニックで、歌よりもグルーヴが中心になっている。チャントというかヴォーカル・ループをもとに曲を作ったりしているんだ。かなり違ったサウンドになっていくはずだ」

デビューから振りかえって

 出発前には、このデビューからの全シングル集を出した節目に、バンドのそもそもの成立ちから始まって、ネーミングの由来、バーナード・バトラーの離脱、リチャード・オークスの苦悩、ブラーとの確執、スウェード・アンセムとなった「Trash」、恐ろしく踊れないダンス・ミュージックへのアプローチ、新たなスター=ニール・コドリングの登場と退場等、11年間の軌跡について語ってもらう事は自然なことにも思えた。だが、明らかな変革期を自覚しながら、それでも不安とない交ぜになった展望を語るブレットに、そんなあっけらかんとした話をしている場合ではないという緊迫感もなんとなく感じた。

―そのデビューにおいて、「僕たちは大衆を堕落させたい」という攻撃的な名言を持って登場したスウェード。そして「We are the Pigs」まではこのように、自分たちを社会と敵対するギャング団的に捉えていたと思うが、これはどういった形で変質していったのか。
「うん。『We are the Pigs』のような初期の多くの曲は、非常に挑戦的な姿勢をもっていた。暴力的でもあり、表現の自由が保障されたリベラルな社会においてさえショッキングな性質をもっていた。特に、『We are the Pigs』はまるで想像上の暴動を祝っているような色彩があった。いまだに僕がこういった精神をもっているかどうか……。どうだろうね、今でもその気持ちはあると思う。いまだに僕の中には昔と同じアナーキーさや邪悪さが存在していると思うし、それは永久になくなることはないと思う。だから僕がエルトン・ジョンになることはありえない(笑)」

―「The Drowners」「So Young」などの曲にみられる、自分が自分でなくなるという緊急事態とは、究極のエロスを表現しようとする試みだったと今でも言える?
「そうだね、その曲は、歓喜を感じるほどに堕落し、自分を制御する力を失った状態を歌っているんだ。美しき大惨事とでも言うのかな。「So Young」のような曲は明らかに、ナイフの刃に立たされているような若さについて触れている。限界までとことん自分を追い詰めるというか。可能な限り多くのドラッグをやったりとか、可能な限りセックスをしてみたりとかね(笑)。ふてぶてしくクールでかつ堕落していて……、若い時でなければできないようなこと、そんなことについて触れているんだ。人間、いつかはそういうことができなくなる歳に達するわけで、若いからやれる、ふてぶてしさ、無礼さってのはあるしね」

―それは人生の中で貴重な美しき一瞬であり、もう体験できない瞬間なんだろうか。
「いいや、そんなことはない。そんな瞬間を僕は何度もコンスタントに体験している。バンドにいるということは、半永久的に若いということなんだよ。いつまでたっても精神年齢が17歳というか。そのままの状態で保存されるというか。そこから成長しない。グレイトじゃないか(笑)」

 これは、デヴィッド・ボウイーがティン・マシーンを結成した時の言葉と非常によく似ている。ボウイーもあの時、こんな風に若さを客観的に定義していたし、それを保持する手だてについて真剣に語っていた。特に後述する「アーティストの実生活上の転落こそが人々の期待するエンターテイメントになっていく構造」に関する下りなどは全く同じとすら言ってもよい。
 ブレットの語り口は非常に穏やかだ。こんなによく笑って、リラックスした彼を見たのは初めてだった。ブレットは最近、食にこだわるようになり、特に刺身にはめがないというので、お土産に私は蒲鉾を持って行った。なんか間抜けかなーとはもちろん思ったのだが、結構彼は喜んでくれていた。最後の晩餐には何を食べるかという質問を日本でしたところ、トムヤンクンとフィッシュ&チップス、マグロのカルパッチョと答えたそうだが、この時はフィッシュ&チップスなんか誰が食べるかという調子で、醤油とわさびをつけたマグロの刺身だと断言していた。
 また、ベッカムの右クロスは果たして現代的な戦術なのかとか、スミス・ファンとスウェード・ファンの違いは、友達が誰もいないか1人いるかの違いだとか、未だにあまりにも痩せているので寄生虫がいるんではないかとか、計算に極端に弱いだとか、そういうしょうもないようで、やっぱりしょうもない話題にも花が咲いた。
 ロンドンは先週とは打って変わって、いい陽気だ。ここ、ポートべローに新装された会員制のクラブ「ジ・エレクトリック」にもさんさんと日差しが差し込み、薄いシャツ一枚(とっても高級)のブレットは、やはり男の私から見ても気品を感じる。

英国口ックの今をどう考えるか?

―英国の多くのワーキング・クラスのバンドはサッチャー政権による残忍な構造改革期には元気だったが、いさ労働党が政権を奪ってしまうとテーマを失ったかのように思える。その顕著な例は、愛すべきバンドだが、どう考えてもワーキング・クラスのパロディーではないかというオアシスだ。この現象についてどう思うか。
そうだね。それは的確な分析だね。だから最近のロックは清潔になっちゃったと思うんだ。オアシスなんかはその最たる例だね。彼らは優秀なロック・バンドだし名曲を書いてもいる。でも、彼らの怒りというのはスタイル化されていて、あまり現実味がない。君の意見に同意するよ。70年代後期には忌まわしい政党が政権を握り、ワーキング・クラスを虐待した。そこから素晴らしい音楽が生まれてきた。セックス・ピストルズ、クラッシュ、スペシャルズ。どのバンドも鋭い政治的な刃をもっていた。ところが最近では、そういったターゲットがなくなった。でも個人的には、忌まわしい政党がいなくても攻撃する的というのはあるんだと思っている。というのは僕はワーキング・クラスの出身だし、日常生活の中にいろいろな的がある。僕の育った環境は、父がタクシーの運転手で母は不成功なアーティストで、貧しい生活だった。どん底のどん底の生活で、そこから抜け出すことが自分の欲望になり志につながっていったんだ。僕が書いた曲というのは、だからこそ常に現実味があったんだと思う。音楽の中に怒りを込めるというのは重要なことなんだ。現実にもとづいた怒り。新人バンドってそれがないと思う。どれも素敵で(笑)。例えばコールドプレイなんてとってもナイスだろう? 彼らの音楽はいいと思うし嫌いじゃないが、鋭さがないんだよ。怒りも苦々しさもない。とっても素敵なことばかりで……。人間が空中に弾んでいて、ときどき意味のない情緒が入っていてさ(笑)」

 ここで、さらにブレットは、イギリス・ロックの低迷に同意しながらも、それにとって代わった存在として、アメリカの独創的で先鋭的なヒップ・ホッパー達の名前を挙げる。ミッシー・エリオット、アウトキャスト、ネリーなどだ。自らの文化ではないから共感した振りはできないがと断った上で、その怒りという本質には大いに共鳴するところだと適切な解釈を施す。

―では、イギリスが現在直面している問題、つまり、ユーロか、アメリカかについてはどうか。アメリカの先祖としてのアングロサクソンと認識するか、それとも、ヨーロッパの一員として認識するかは単に個人のポリティカルな資質を問うものではない。スウェード・ミュージックのアイデンティーを問うものだ。ブレア首相は「第三の道」などといって、内実のない方向性だと批判されてきたが。
「まずイギリスがヨーロッパに属すべきかどうか、という問題については、僕はイギリス人というよりヨーロッパ人と思っている。だからその点でイギリスはユーロ通貨になるべきだと思うし、それこそが前進だと思うんだ。個人的に王室には嫌悪を感じている。僕は王権を否定しているし、階級社会の不条理を象徴するものだと思う。もし王権を廃止することができるなら、明日にでも即刻やってもらいたい。彼らはスターとしての地位を与えられた愚かな人々でしかない。僕は古いイギリスの価値観に同意しないし、ユーロが導入されイギリスがヨーロッパの一部になることに賛成する。またグローバリゼーションに関しては、正気な人間だったら、だれもそんなことは望んでいないと思う。誰もこの世界がひとつの大きなスターバックスになるなんてことを望んではいないと思う。それは不吉だよ。最近ではブッシュに代表されるように、権力がより少人数の人間によって握られるようになり、その少人数の人間の持っている権力がさらに大きくなりつつある。2年ほど前からイギリスではそうした風潮に対する暴動がいくつか起こったし、またみんなが政治に目覚めた兆候だろうと思うと、ワクワクするところもある」

ザ・モニュメント―支払った対価と代償

―結局『A New Morning』が孕んでいる問題とは、芸術のために実際の人生を犠牲にするか、犠牲のない平穏な生活を選ぶかというアーティストに常に突き付けられた問題ではなかったのか。
「その質問は久しぶりに受けるとても個性的な質間だな。それは面白い点だ……。それは幸福というのは存在しないと知りつつも幸福とは何かを追いかけるようなものだよね。僕が思うに幸福とはふとした一瞬に感じるものだし、はっきりコレだと言えないものなんだ。幸せと感じるためには、人生を常に切り開いていく必要がある。平穏な生活を送り単に幸せな気持ちに満たされることが、幸福だとは思わないんだ。僕の場合で言えば、何かを作り出しているときに幸せを感じる。その幸せの中には、いくらかの葛藤という、犠牲も含まれてくる。仕事していて、それが少し難しくて苦しんでいる、という状態にいるからこそ自分が生身の人間だと感じるしね。だから僕は常に人生を犠牲にする芸術家の道を選びたいんだ。でもこれは実に面白い質間だ」

―ということは、葛藤というか苦しさこそが幸せであるという、いつものマゾヒスティックなところに戻っていくわけか(笑)?
「(笑)僕は常にライターとして、アーティストとしての自分が一番大切だと言ってきたし、そう実践してきたと思う。個人的に……。居心地のいい平穏な生活を望んだことはなかった。平和な家庭に腰を落ち着けて歳をとりたいと思ったことはないんだ。常に何かを生み出していかなければならないと感じてきたし、そのためには自分を少々不幸せな状況に置くことも必要であると感じているんだ。もし結婚して子供が生まれ、幸せな家庭をもったら、自分はきっと創作することをやめるんじゃないか、と思うんだよ。創作することの本能的な欲求を感じなくなるというか……。創作するためには、ある種の感情が必要だし。それらはときには……、たとえは復讐とか嫉妬とか、そういった気持ちってあまり快い感情ではないが、何か美しいものを創作する助けになりえるんだ。だからアーティスティックな人間というのは、ある程度マゾヒスティックと言えるかもしれないね。ただ、これもまた興味深い点だね。うん」

―日本のアーティストで、あまりに創作に没頭して神経症になった人がいる。彼は医者に創作活動さえやめれば治ると言われたそうだ。仕事か健康のどちらをとるか決めろと言われ、それで一旦引退したが、1年後には、自分を死んだ人間にするからという理由でまたアーティストとして復帰した。
「その気持ちはまったく理解できる。アーティストにとって精神的な健康を保つということは、創作を続けるということなんだ。創作をやめれば不幸せになる。一般の人がアートに興味をそそられる理由は、アーティストをみることがメロドラマを見ているようなスリルがあるからだと思うんだ。アーティストが創作するために、どこまで自分を追い詰めることができるかを見るのが面白いんだ。アーティストが狂気の崖っ淵に立たされるのを見るのはドラマチックだよね。時にはアーティストがその崖から落ちることもある。だからアーティストの存在があれほど人の興味をそそるわけだ。彼らは創作するために支払わなければならない代償がある。それは正気というものなんだ。そして健康。でもその代償をアーティストは自分から望んで支払おうとする。僕の場合、誰にとっても愛想のいい普通の人間になるよりは、不幸せなアーティストの道を選びたい。それが僕なんだ。適度に快適な生活というのは僕にとっては魅力的なものではないんだよ。小さな世界に満足して平凡で退屈な灰色の人生を送る、平凡で退屈な灰色の男にはなりたくないんだよ。それは僕の望んでいる幸せの考え方ではないんだ」

―このあたりで、コラボレーションや、ソロ活動という方向性は考えていないのか。
「実のところ、現時点でコラボレーションをするのにはいい時期だと思ってるんだ。11年間もスウエードの音楽を作ってきたわけだし、このあたりで自分を他の方向に引き伸ばしてくれることをやるのはいいんじゃないかと思う。ただコレと思えるコラボレーションをみつけられればね」

―では最後に、私はスウェードをスウェードたらしめている決定的な言葉は「オブセッション(強迫観念)」ではないかと思っている。曲のタイトルではなくて。全体的な作品から感じるものだが、どう思うか。
「的確な把握だと思うな。パッションとオブセッションの二つだろう。スウェードの音楽を一番上手くいいあてた言葉と言ったら。オブセッションはパッションの枝のひとつだと思うけど」

―疲れない?
「(笑)。それこそが僕の原動力なんだよ。人生、何かに取り葱かれてなきゃね。というのはオブセッションはパッションの一部だし、人生情熱なしには生きられないよ。街路灯や、椅子に情熱はない。でも人間は情熱を感じるべきだよ」

 強迫観念とは、本能的に生きることを封印された現代人が編み出した生きる為の方便のようなもので、ある種の情熱でもあるが、病気でもあると思われる。スウェードの素晴らしさはそこにこそ実はあって、およそ白人のオスがこれ見よがしにブイブイ言わせているのとは訳が違う理性と目的性、生真面目さによって支えられていた。ブレットは頻繁に、動物的、情熱、陶然といった言葉を使うし、我々もまたスウェードの音楽を「忘我」「妖艶」「刹那の美学」などと形容してきたが、逆に、それほど明瞭なテーマ性がどうして達成できたかといえば、それはブレットがもともと、衝動の人ではないからである。そうした地点で奏でられた音楽とは、「若さ」を表現するのにあれほど適切な形態を次々に発明していった事実が物語るように、実際に若いくせにその実、最初からそれを客観視していたからできたものなのだ。スウェードを聴いていて感ずる身悶えするようなあの高揚感は、蕩尽される「若さ」のパワーではなく、それが擦り減っていく残酷さこそがその正体だった。『A New Morning』というアルバムを聴いてから、私はそんな風に考えるようになった。

 だから、私としてはこんな風に言いたいのだ。……でもそれは違うんだよ、ブレット。もう一回悪魔と契約する必要はないし、そんな風に自分を追い詰めていくべきじゃない。たおやかで力強いメロディーが涌き出てくるのを待つしかない、ポール・ウェラーやジョン・スクワイアーのように。君は人生への強烈な復讐としてのワン・ステップを終了したんだから。その強迫観念から、自然で、能動的な使命感に出会うまで、待てるんだよ、我々だって。

 『A New Morning』を敢えてファンを裏切ってまで出した積極的な意味とは、人生はこれからも続くという当たり前の事実を受け入れたという表明だろう。破滅を受け入れずとも、音楽は自動的に、鳴り響く。

●追記 2003.11.13 SUEDE公式ウェブサイトから抜粋

その後、発生した誤解や混乱を沈静化させるため、ブレット・アンダーソンがバンドの解散について初めて語った。

「まず、この決定は純粋にクリエイティブな理由からなされたんだということをみんなに知っていてもらいたい。個人的に、僕が自分自身今はまり込んでしまっている芸術的な行き詰まりから抜け出すためには、少なくともしばらくの間、バンドの外で活動する以外にないと感じたんだ。レコードのセールスやチャートのランクについて、いろんな憶測がなされているみたいだが、この決意の根底にあるものは【僕は自分の悪魔を呼び戻すためにはどんなことだってしなくちゃいけない】っていうことなんだ」「どうしてここまでしなくちゃいけなかったのか、多くの人は理解できないだろうと思う。ただ、これは簡単に出された結論でないことは知っていて欲しいし、スウェードにとって何が一番いいことかっていうのを僕たちメンバー自身、完全に理解しているっていうことは信じて欲しい」

Special Thanks:『分』


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